伝統文化を生かした
地域再生の可能性

2009年講演記録
伊達 美徳(地域プランナー

このようなお話をできる機会を与えていただいて、ありがとうございます。日ごろ市長さん方にぜひ聞いていただきたいことがあり、きょうは私は喜んで参りました。

きょうの会議の基本的なテーマは、「伝統文化を生かした地域の活性化と再生」ですが、わたしの話は、「地域まるごとミュージアム」の事例をお話して、さらに伝統文化による地域再生の可能性についての問題提起をしたいと存じます。

わたくしは、いろいろなことをやってきましたが、今は一線を引退してしがらみがないので、きょうは若干辛口で話題提供と問題提起をしたいと思います。

まず、「地域まるごとミュージアム」とは、一体何なのかということです。今日の話が終わるとわかるはずですが、地域を一式まるごと博物館、美術館あるいは資料館というような、文化ミュージアムとして地域再生をすることです。

伝統文化というと、ハイクラスの何か特別に上等なものということで、日常と離れたようなもの、例えば、能、狂言、歌舞伎というような非日常的な感じがあります。

しかし、まちづくりでは、文化はもっと日常の中にあるものととらえております。文化とは、伝統とは、そして再生とは、活性化とは何か、それは可能なのかと、話がうまくつながればよいと思っております。

1.はじめに問題提起<地方都市は郊外が醜くてなぜ平気なのか>

全国醜い街コレクション/外発型地域づくりの破綻

●居間はきれいにしても玄関が汚い

初めに、問題提起をいたします。

日本の地方都市は、街の中はそれなりに美しい伝統的な風景を持っているのに、一歩外に出ると、どうしてそんなに汚くするのが平気なんだろうかということを、この30年くらい私は非常に疑問に思っておりました。ぜひそのあたりを聞いていただきたいのです。

私のインターネットのページに「日本醜いまちコレクション」を載せております。きょうはそのさわりだけ見ていただきます。

参照http://picasaweb.google.co.jp/dateyg/GBKkFC

日本人は、美しいことには非常に敏感にわかるのですが、醜いことにはどうも鈍感であるようです。

一生懸命美しいところをつくるのだけれども、その一方では醜いところは平気でほったらかしておくという感じがあります。

では、ちょっと見てください。 まず、これは韮崎市です(図1-1)。向こうに美しい八ヶ岳が見えておりますが、手前に八ヶ岳を汚すようなものがいっぱい立っております。「どうしてこういう風景が平気なんだい」と韮崎に住んでいる友人に言ったら、「えっ、汚いのかい、これ。おれは、にぎやかになってよかったと思っていた、そう言われれば汚いね」なんて、初めてわかったようなことを言っておりました。 実は郊外ばかりじゃなくて、次は伊東市の駅前です(図1-2)。伊豆の伊東は温泉町として、それなりの情緒のあるところです。でも、このように駅前が、ここは高利貸の街か、という感じで、どうしてこういうことが平気で起きるんだろうかというのを、本当に疑問に思っております。 これは八千代市(図1-3)、すごいですね。

次は能登の七尾市です(図1-4a)。街の中心部は実に落ちついたよい街並み風景ですが、一歩国道に出るとこんな様子です(図1-4b)。一体どうなっているんだろうと思うわけです。まちの中を美しくしようとしているのに、まちの玄関口がこんなに醜くて、市民はどうして平気なんだろうと、ここで私は訴えたいのです。

次は越前市ですが、ちょっと前までは武生市と言っておりました(図1-5a)。古代は越前の国の都であったところです。土蔵や伝統民家の街並みがあります。土蔵群を生かして、美しいまちづくりを一生懸命行っているのですが、一歩郊外の国道へ出ると、 むちゃくちゃな風景です(図1-5b)。道路沿いの田んぼの中にパチンコ屋、商工会議所、総合病院が並んでいます。商工会議所がまちの中から出て行って、こんなところに建っているのです。街の活性化のためには、街の中心にいるべき商工会議所が中心街から出ていっているのです。 次は長野県の松代町で、今は長野市の一部になっています(図1-6a)。ここは真田氏の城下町です。この写真は、城下町の古くからの街並みではなくて、この道路を拡張するにあたって、城下町の雰囲気を街並みデザインとして新たな建物をつくっているのです。 まちづくりを街の中ではやっていますが、長野からバスでいくと、街の入り口あたりにこんな風景があるのです。「ようこそ」と書いてあるけど、こんな風景で「ようこそ」と言われても困惑します(図1-6b)。 街の中では一生懸命やっているのに、一方ではこういうところを通らないと入れない、つまり居間はきれいにしても、玄関前にごみを置いても平気なんですね。 次は多治見市です(図1-7a)。陶芸の美濃焼のまちで、落ちついた伝統的な街並み風景を持っています。ここも一歩出 ると、こういう風景です(図1-7b)。

●日本の街を醜くする自動車屋

日本の美しさを殺すのは自動車屋さんですね。どこへ行っても、こういう自動車販売店の建物や看板や幟の類の汚らしい風景が平気で出てまいります。

掛川市は、まちづくりの先進都市です(図1-8a)。かつての木造のお城を復元再建されて、その周辺の街は「城下町風まちづくり」として、新しいのだけれども個性的な雰囲気のまちづくりをしている。まちそのものが文化のミュージアムになるということを一生懸命やっている例です。

ところが国道1号に出るとこういう風景(図1-8b)、まさに自動車屋さんは風景殺しの最悪の元凶です。

自動車屋ばかりはなくて、洋服屋とか靴屋とかの安売り屋の汚い風景がいっぱいですが、どうしてこういうことを市民が平気なんだろう。自動車で行った場合、ここを通らないと街に入れないわけですよね。

これは新潟県の新発田市、しっとり落ちついた城下町です。城下町の中の元武家屋敷あたりは水路があり緑豊かで、なかなかいい雰囲気です。街の中心にある新発田城は、昔のお城の3階櫓を復元して、一生懸命まちづくりをやっています。街の中はこういうことで、非常によろしい(図1-9a)。ところが、国道バイパスに出ると、奇妙な建物や看板の乱立です(図1-9b)。

これは知多半田、愛知県の半田市です(図1-10a)。ここは醸造業が盛んなところで、その土蔵群があってしっとり落ちついた良いまちです。

ところが、一歩幹線道路に出ると、こういうありさまです(図1-10b)。ここは、「ごんぎつね」という童話作家で有名な新実南吉の出身地でその資料館もある。この汚い風景の街角に、その資料館の案内看板がありますが、邪魔な立て看板がそれを隠してしまっています。一生懸命に観光案内しているのに、こういうことが一方では平気で行われています。



●外発的地域開発のもたらしたもの

ここでお話したかったことは、こんな醜い風景は、地域経済学で言うところの外発的地域開発として、他地域から資本を入れることで地域振興をしようとする、20世紀型まちづくりがもたらした結果だということす。

そしてこの風景の裏には、中心市街地の深刻な疲弊があるということです。

きょうのテーマである伝統文化は、一体どこにあるのでしょうか。決してこのような新しい街の郊外にあるわけではないのです。

地域の文化は地域の中心部で育ってきたのです。昔からの祭があり、伝統的な街並みがあり、地域固有の産業があり、それら伝統文化を育てる人々が暮らしてきたのは、まさに中心市街地なのです。

それが郊外開発によってショッピングセンターができ、バイパス安売り街ができることによって、文化の培養地である中心市街地が滅びて行くのです。

その地域が育ててきた伝統文化、あるいはその伝統文化を新しく展開しようという創造的な活動についても、芽を摘んでいったということです。

それが、結局は何をもたらすかとい言えば、そこに住んでいた人たちにとっては、そこに住んでいて魅力をずっと蓄えてきたのですが、今やそれがなくなるとそこに住む理由がなくなってくるのです。

結局、動くことが難しい高齢者だけが街に残り、動ける若者たちはもっと文化のあるところへ行こうということで移ってしまう。高齢者だけの街はいずれ消え去る運命です。同時に伝統文化も消え去るのです。そういう現象が起きたのが中心市街地の問題です。

中心市街地の問題については、中心市街地活性化の政策が20年ぐらい前から制度ができて動いていますが、そのころから私はそのやりかたでは絶対に成功しないと言っていました。そしてそのとおり失敗しています。なぜ失敗したのか。

要するに、これは中心市街地活性化ではなくて、中心商店街活性化と間違えたのです。商店街が活性化するのはなぜかというと、買う人がいるからです。街の文化という魅力を失わせて、人々が街を出て行ったので、商店街で買う人がいなくなったのです。買う人がいなければ空き店舗が出るのは当然のことです。

それなのに、商店街の空き店舗対策として助成金で店舗を再開させても、だれが行くでしょうか。空き店舗対策は根本的に間違っています。つまり買う人をつくるほうが先であって、買う人がいれば、店はおのずからできるはずです。

ですから、中心市街地の中に環境のよい公的住宅をつくれ、市営住宅をつくれといろいろなところで市長さんに私は言ってきましたが、どの市長さんも頭をかしげただけでした。それで、相も変わらず郊外に住宅をつくるということを許可してしまう。あるいはショッピングセンター開発を許可してしまうのです。

その結果は、地域経済学で言うところの外発的地域づくりによる破綻が起きて、やはり経済学で言う外部不経済を市街地の中に呼び込んでしまったということです。

2.事例その1:伝統工芸による地域再生<鯖江市河和田うるしの里づくり>

内発型地場産業まちづくり/地域再生と伝統工芸を結ぶ/地場産業と地域コミュニティの連携


●伝統工芸の越前漆器

わたくしは、地場産業ものづくりと地域コミュニティの連携によって、地域を振興再生する仕事を、20年くらいやってきました。
鯖江市でも、伝統工芸を軸に地域再生をする内発的まちづくりを進めてきました河和田という地区の「うるしの里づくり」のお話をします。
鯖江市は、東西に横に長い都市ですが、鯖江は伝統工芸の越前漆器の産地であり、その東の端あたりに河和田という地区があって、その河和田地域がそのほとんどを引き受けています。

このあたり一帯は、伝統工芸の宝庫です。越前和紙は河和田の南の今立で、日本の紙幣はここの和紙でつくっているというぐらい有名なところです。それから越前焼という陶磁器、これは西にある宮崎村でやっています。次は越前打刃物、これは今、越前市となった武生でやっています。陶磁器、漆器、和紙、打刃物という伝統工芸がずっとつながっている地域で、これらを一度に巡ったことがありますが、実におもしろい地域です。

越前漆器は、伝統工芸士がつくる一品制作の伝統工芸漆器(図2-2a)はもちろんですが 、その一方で大量生産の業務用漆器をつくっていることに大きな特色があります。その業務用漆器の技術は、家具デザインにまで及んでいます。テーブルもつくれば、椅子もつくるという、家具などのインテリアグッズです(図2-2b)。

業務用漆器というのは、中は耐熱性樹脂でつくってあり、仕上げはもちろん職人の手で漆を塗ってあります。見ても触っても樹脂か木製か全く分らない。これは旅館やレストランなどのお椀類や箱弁当用に器になっていて、板前さんたちにはよく知られた評判の良い漆器です。日本でそのシェアが8割ありますから、みなさまが実は毎日どこかで越前漆器を知らぬ間に使っています。

地元ではやっぱり産地だからということで、学校給食に漆器を使っています(図2-3)。この学校給食の食器類は、大量に扱いますから、機械洗浄ですし普通の漆器だとだめになってしまうのですね。子供たちにきちんと漆器を知ってもらおうということで、非常に強い漆を開発して使っています。 多治見は美濃焼という陶磁器の産地なので、陶磁器で学校給食を食べさせていますね。

これもやっぱり大量に洗う機械なんかでやると割れるわけですね。子供たちも使い方が荒い。割れにくい陶磁器を開発し、それでも割れるということもちゃんと子供たちにわからせる、そういう陶磁器で学校給食をやっているわけですね。
この越前漆器の産地では、山中、香川、会津、紀州に次いで、日本で5番目の出荷高です。出荷額は100億円だった10年前とくらべて、今は半分近くに下がってきていまして、事業所数も7割ぐらいに減少するとか、従業員数も8割ぐらいになるとか、なかなか苦戦をしているのはどこの産地とも同じです。強みは全国で8割のシェアの業務用漆器ですね。それと産地問屋がしっかりしていることです。

●ファッションタウン市長の登場

この鯖江市に、1998年に辻嘉右エ門さんという方が市長に当選しました。ファッションタウンという政策を掲げてこの方は、当選をしたのでした。

このときから「ファッションタウン」という政策を始めました。このファッションタウンというのが、特異と言えば特異な政策でありました。

ファッションタウンというということで、産業政策、都市政策、福祉政策、環境政策などすべての政策を、このコンセプトのもとに行っていきます。ファッションタウンでなければ夜も日も明けないということで、お役所の人たちはちょっと辟易していらっしゃった感もりましたね。

<資料>

ファッションタウン」という政策を公約に掲げて、私が福井県鯖江市長に当選したのは、 1998年(平成10年)のことであった。これが鯖江市の憲法であるとして、あらゆる政策をファッションタウンによって横につなげる総合政策としたのである・行政の縦割りを打破して、産業、都市、環境、教育など各種政策を連携することをめざし、これに市民の積極的参加をうながしたのである。それからリコール解職までの七年弱の市長在任中に、政治生命をかけて推進した (『鯖江型ファッションタウンまちづくり』より)

さきに言っておきますが、この方は2期目の途中で、リコールに遭って市長を降ろされてしまいました。全国で市町村合併騒ぎがあった頃でして、鯖江市でも隣の福井市との合併問題が、こじれにこじれて政争となった結果でした。

7年弱もやってきたファッションタウンという特異な政策が、そこで当然にストップしたわけです。市長さんの権限はすごいですね、それまでの何でもファッションタウンだったのが、代わるとその日からファッションタウンのフの字も言わなくなるのですから。

辻さんはそれではあの政策が世に伝わらないと危惧され、2冊の本を出版されました。ひとつはそのときの政策資料集で、計画書や条例などです。この本はわたしが編集のお手伝いをしましたが、行政資料としてはなかなか役立つものです。もうひとつは、ご自分の政治家としてのあれこれですね(図2-4)。

もうひとつ政策推進上で興味深いことは、藤原肇という民間人をファッションタウン政策推進のブレーンとして、役所に迎え入れたことです。マーケティングのプロフェッショナルの人ですが、この人は実は日本ではじめてファッションタウン政策を提唱した、通産省関係でも有名な方でした。この2人がコンビとなって7年半の間、鯖江市をリードしていくわけです。

西欧やアメリカでは、民間からプロを入れて市長ブレーンとして政策を進めることはしょっちゅうあるようですが、日本では珍しいことだと思います。 その珍しい有名な例としては、横浜で飛鳥田市政のときの、田村明さんという方ですね。今は日本の都市づくりの大御所として有名な方ですけれども、社会党の飛鳥田さんが横浜市の市長になったときにブレーンとして横浜市に入り、横浜市の今のまちづくりの基礎をきちっとつくり上げた人です。

辻市長は、この藤原さんを政策監という理事クラスに迎え入れて仕事を進めていくのです。辻市長のトップダウン型政策進行と、藤原氏の民間流の厳しい経営感覚とが、普通の地方都市のいわゆる役所流の仕事のやり方とは大いに異なっていましたから、当初からかなり摩擦があったようですが、ファッションタウン政策は市民を巻き込んで推し進められました。

ところが2005年に、辻さんはリコール退職、藤原さんは病死で、二人のリーダーがいなくなった鯖江ファッションタウンは消滅しました。これから政策が稔ろうとするときにきていたのに、惜しいことでした。

しかしその蒔いた種が、越前漆器産地の河和田地区で芽を出して、伝統文化を活かした地域づくりとして立派に稔って育っているのです。それをお話します。


●ファッションタウンとはなにか

では「ファッションタウン」とは一体何なのか。 簡単に言うと、経済産業省による産業政策ベースの地域活性化政策と、国土交通省による都市政策ベースの地域再生策をドッキングする政策です。産業だけや都市だけを見る縦割り政策では地域の活力は生まれない、地場産業あってこそ地域だし地域あってこそ地場産業なので、互いに連携して地域を再生しようということです。

はじめは通産省の繊維産地振興策として1990年代はじめから始まり、その後に国土庁が、繊維に限らず地場産業振興と地域再生を合わせる施策としてやっていきました。 この2つの政策がドッキングしながら、日本の中でいくつかの都市や地域をモデル的にとりあげて調査をしていきます。この中で上に述べた藤原肇さんがリーダー的な役割を占めていたのです。

例えば、四国の今治市、ここはタオルの産地ですね、ここでは4年ぐらいかけて、行政と地元産業業界と一緒になってファッションタウンによる振興策を練りました。 そのほか、絹織物の桐生、ジーンズの倉敷の児島、ニットの墨田や見付、カバンの豊岡、焼き物の波佐見など、各地の地場産業を地域の生活圏の中で生かす運動をやっていくわけです。

その中の1つに鯖江を含む丹南地域ファッションタウン計画があり、これを契機に県議だった辻嘉右エ門さんが、それを政策としてかかげて1998年に市長に当選したのでした。 鯖江の3大産業といわれるものは、繊維、眼鏡、漆器です。一番有名なのは眼鏡ですね。明治のころにこの地域に眼鏡産業を持ち込んできて、今では日本一の眼鏡産業のまちになった。しかし、鯖江に行ってもよい眼鏡が安くそして早く作って売ってくれることはありません。

他の産業の産地でも同じようなことですが、産地の地元では地元で作ったものが買えないという矛盾したことがごく普通にあります。 それは長い間の商習慣で、販売と商品開発能力は、大都市の商社などが握っていて、産地はそこから言われるとおりに物さえ作ればよい工場になってきたからです。 自分のところで開発デザインする能力もない、販売する能力もないわけですね。 しかしそれでは産地には将来はない、もの作りが人件費の安い発展途上国に移る時代になって、国内産地はいつお払い箱になるかも知れません。

そこで現在は地場産業産地には製造能力はあるのですから、それに製品開発能力と販売能力をつけよう、そして産地で直接販売するのです。製造卸価格の3倍くらいが小売価格ですから、産地では小売価格の半分で売っても儲かるわけです。 産地で開発能力をつけるには教育や研修が大切ですし、人材の確保が必要です。その人材を確保できる産地とは、産地の町が働きやすく暮らしやすい環境であり、子供の教育機関も整っていなければなりません。

つまり、まちづくりがしっかりしている必要があります。 そして産地で売るには、産地に消費者に来てもらわなければなりません。そのためには産地が観光的に優れている環境でなくてはなりません。つまり、まちづくりが必要です。

と同時に、産地を訪ねてでも買いたいような製品がなければなりません。つまり製品開発能力が必要です。 例えば、佐賀県に有田という陶磁器産地があります。ここでは陶磁器を焼いているだけではなく、文化庁の伝統的建造物群保存地区に選定されている美しい街並みの商店街があり、表では有田焼を売り、裏では作っています。まちなみ観光で有田を訪ねると、本物の有田焼に出会えるというわけです。美濃焼の多治見でも同じような焼き物の街があり、人間国宝級の職人の窯があり、そこですばらしい焼き物に出会って買うことができます。

イタリアでは、そのような地場産業が伝統的な街並みの中で輝いている地方都市がいくつもあります。このような地場産業の企画・製造・販売を、地域のまちづくりの中に生かして、誇りある産地地域の再生をしよう、これがファッションタウンなのです。当時の国土庁と通産省が支援して、全国いくつかのモデル産地を取りあげて、ファッションタウン(国土庁では「もの・まちづくり」といいました)政策を推し進めようとしました。

そのなかでもっとも先鋭的にやったのが、この鯖江でした。市長がクビになった後は、越前漆器産地の地域だけはその政策は成功して、今も続いています。ほかのファッションタウン政策をやった産地では、今、うまくいっているのは倉敷市の児島地域、これはジーンズです。それから群馬県の桐生市ですね。この2つがなぜうまくいっているかというと、いずれも民間主導型ファッションタウンなのです。ですから、市長さんが変わってもちゃんとやっていけるわけです。ほかの行政主導のところは、鯖江のように市長さんが替わると廃止ということで、ほとんどだめになってしまいました。

政策としては実に先進的でしたので、実際に現場で仕事をしてきたわたしにとっては、政治に左右される行政施策とは、そういうことでよいかと、いまだ大いに疑問があります。先進的過ぎたのかもしれません。

●鯖江ファッションタウン計画と「うるしの里づくり」

さて、1998年に辻市長誕生と同時に、鯖江市にファッションタウン政策がはじまりました。既に国土庁による「丹南ファッションタウン基本計画」ができていましたから、その鯖江型実施版と言ってよいでしょう。

市役所の機構改革も大幅にあって、産業振興政策と都市計画政策を同じ課で扱うことになり、「ファッションタウン課」ができました。これはかなり珍しいことです。藤原さんがブレーンで理事クラスに入りました。

市民、企業、行政が一体となった「鯖江ファッションタウン協議会」を結成し、毎週のようにどこかで会議や市民説明会を開いて、市民と企業の参画による「鯖江ファッショタウン計画2000」の策定を進め、1年がかりでつくりあげました。 それは9つの基本方向、28の基本構想、60の基本計画、そして128の実施事業で構成されていました。

この計画策定過程で、市民の非常に多くの人が参加し、ものづくりと、まちづくりと、暮らしづくりはドッキングしているんだということを、みんなが認識を深めた経緯が重要なことであったと思います。

わたしは「鯖江ファッションタウン計画2000」のコンサルタントとして鯖江とかかわるようになったのです。藤原さんが産業側から、わたしが都市側からという役割です。 その中味の細かいことはともかく、基本的なことは、ものづくり、まちづくり、くらしづくりという、3つのキーワードで政策を構築していくものでした。産業政策、都市政策、福祉政策、環境政策など、すべてこのコンセプトの中に入れていこうというのです。

市全体計画の下に、各地区ごとのファッションタウン計画を作ったのですが、そのなかで現在まで唯一生き残っているのが、この「うるしの里づくり」です。 河和田地域は盆地です。地域の人口は約5千人で、そのうち8百人ぐらいが漆器産業に携わっています。

美しい街並みがあり、周りの丘陵は河和田杉という杉林です。こういう盆地で、家内工業的から工場まで色々な漆器産業があります(図2-5)。 この人は漆器に加飾する沈金の職人さんです。こ漆器職人町では、表に面して光を入れて、中でこつこつ仕事をやっています(図2-6)。 これは材料を加工しているところですね。ろくろを回してやるとか、あるいは板ものをやるとかということで、こんな仕事場がまちの中にいっぱいあるわけです。(図2-7) 加工生産から販売までここはやっています。

ここの産地問屋は力量があって、全国に出掛けていって販売をしています。これは先ほどのファッションタウン政策で言うところの、作って売るということまで能力があるのですね。 その河和田でファッションタウン計画をやった重要な視点は、今まで地元の河和田で越前漆器を売ることはやっていなかったのを、河和田地域で売りましょう、河和田で売って、良いものならお客はここまで買いに来てくれる、そうすれば地域は活性化するという計画でした。

●ビジョンから実行へ

ファッションタウン計画の河和田地域版として「うるしの里づくりビジョン」を地域に人たちがつくりました。同時に漆器業界としては「越前漆器産業ビジョン2003」をつくりました。

<資料>「越前漆器産業ビジョン2003」概要

・越前漆器協同組合を中心に経営意識の改革
・木製漆器、樹脂製漆器
・下地から加飾まで一貫した工程が確立
・時代のニーズに適応した新製品の開発
・地域内産業観光による消費者受入れの推進
・産地内の販売店:うるし暖簾会の店
・作って売る店:職人工房
・伝統工芸士を中心とする各種イベント
・蒔絵、沈金等の実演、体験学習
・産地、製品のPR
・「うるしの里会館」開館2005年5月
・伝統技法の伝承
・新技術・素材開発
・環境配慮型
・高いデザイン性の新製品研究
・産地情報発信、エンドユーザー情報受信

<資料>「うるしの里づくりビジョン1999」の概要

・コンセプト「河和田地区まるごと博物館」
(エコミュージアムの地域概念)(図2-8)

建物としての博物館ではなく、河和田地区全体の人・物・自然・空間をひとつの博物館としてとらえる

・基本方針

1.地域の住民にとっての視点
・すべての住民による里づくり
・生活をとり囲む自然や歴史文化のある里
・高齢者が生涯現役で活躍する里
・住んで働いて誇りとなる里
2.地場産業で働く人の視点
・地場産品を地元で販売
・異業種や他産地と交流
・地域を訪れる人たちと交流
・誇りのあるものづくり産業
・地場産業の新しいあり方を探求
3.訪れる人の視点
・美しい自然と風景のある里
・心を豊かにする伝統文化のある里
・買う、見る、体験、食べる産業観光の里
・地域住民・働く人々と交流する里

そこで、地域の中で地域内の観光産業になる消費者の受け入れを推進するために、産地内問屋が「漆のれん会」という店をはじめました。また、漆器職人は漆器作りの作業風景を見せながら売るという「軒下工房」を始めました(図2-9、図2-10)。 河和田は小さな街ですけれども、地元で売るようになると雑誌にも取り上げられ、しだいにお客が訪ねてくるようになっています。職人さんが喜んだのは、今までは一人でこつこつやっていたのが、目の前に若い女性客たちがやってきて「いいですね」なんて言われて、張り合いが出るようになったそうです。職人塾を開いて、漆器作りの研修講座を始めた職人さんもいます。 街に人がやってくるようになると、街並みもきれいに整備しようとか、イベントをやることなども起きてきました。昔からの漆器を使った薬膳料理の会、蛍鑑賞会、大きな古民家での音楽会など、地域に活力が生まれてきました。まちづくりNPO法人も結成されて活動を始め ました。 そして漆器産業の振興と地域活性化の活動拠点として、「うるしの里会館」をつくろうという動きがはじまりました。地域の人たちが毎週集まって、どんな内容の施設にするか、誰が経営するかなど、時にはけんかになるほどに真剣に話し合いました。このみんなが参加して討議した過程が大切なのです。

<資料>「うるしの里会館基本計画」概要

●うるしの里会館のテーマ
・テーマ1 伝統から先端まで-文化が技術を育てる
・テーマ2 和から洋まで-多様な文化交流を起こす
・テーマ3 器から食まで-産業と地域を融合
・テーマ4 作り手から使い手まで-地域から世界へ発信
●うるしの里会館の目標
・目標1 うるし産業振興拠点
・目標2 うるし文化育成拠点
・目標3 2005年春開館
●うるしの里会館の基本方針『産業文化ミュージアム』
・産業の育成拠点:
地場産業の後継者育成、技能と技術の継承、新技術・新ビジネス開発
・産業の情報拠点:
技能と技術情報拠点、産業観光情報拠点、軒下工房・漆のれん会等の連携、産業情報受発信拠点
・産業姿勢アピール拠点:
資源を大切に、クリーン、安全安心な製品、ユニバーサルデザイン
・地域景観形成のモデル:
伝統的な風景と調和、新たな地域の個性を創造、
・風土と伝統を生かすモデル:
地域の素材と技術の保全と活用、産業・生活・資源の保全と活用、地域の生活文化の継承と育成
・誰もが参加する拠点:
多様な協働と参加、だれが使っても使いやすく、美しい生活環境をPR、親しみある愛称
・建設イベント:
地元産業界の建設事業イベント、住民・市民参加の建設イベント、
・開館イベント:
ジャパン漆サミット、愛知万国博覧会関連イベント、ファッションタウンサミット、市制50周年記念事業関連イベントなど
・建設事業費目途は7億円:
小さいけれどもきらりと光る会館、地域の職人・住民の協働手作り会館


●大水害の災い転じて福となす

ということで、2000年頃からおもしろい状況が起きてきたのですが、2004年7月に未曾有の大水害が起こりました。河和田大水害です。集中豪雨で盆地が水に浸かってしまうという大惨事でした。漆器産業も大打撃を受けました。

これまで一度もそんなことのなかった地域ですから、みんな茫然としていました。そんなところに、なんと延1万人ぐらいの救援ボランティアが来てくださったのでした(図2-11)。

それまではこの小さなまちは閉鎖的で、あまり外との交流はなかったけれど、そこに1万人もの若い人や学生たちもやってきて支援活動をしてくれたので、もちろん多いに助かったのですが、同時にこんなにも大勢の人が来てくれたのかと、地域の人たちの目が外へ開いていって、そのときから新たな展開を始めたのでした。小さな地域が、閉鎖圏から開放圏に広がっていった。

そのことは地域の物を地域で売って地域で自慢するというファッションタウンの産業政策にもよい影響を与えました。外から人を迎え入れることに積極的になったのです。「災い転じて福となす」とはこういうことかと思います。後で話しますが水害1年目の復興支援イベントを機会に、若者たちが毎年訪れてアートイベントをおこなうようになります。

ちょうどそのころ、河和田地区全部を漆器の博物館「うるしの里」ミュージアムにしようというファッションタウン計画を進めつつありました。

地域の人たちも博物館の学芸員なんだ、暮らしている人たちもみんな案内人なんだと、お店や職人工房は美術館の中の展示なんだというわけです。そこでは買ってもらうからミュージアムショップでもあるのですね。こういう考え方で、まちづくりを進めていました。

その中の中心的な施設として「うるしの里会館」の建設が進んでいて、水害の時は建物本体はほぼでき上がっていました。この建物は、もともとここにあった建物の一部を活用して再生し、それに木造建物を新しく建て増しし、更にこの地域の別のところにあった古い伝統民家を移転して、それらを合わせて建てたのです。新築部分は、地域特産の河和田杉を使っています。

つまり、地域にあるものを再生しつつ、地域特産材を使用し、地域の伝統的な建物も活かすという、これは建築における伝統文化の継承なのです(図2-12)。

ミュージアムショップでは漆器や地域の特産工芸品を売っています。エレベーターの扉にも蒔絵をし、柱や梁は漆拭き、インテリアに漆によるデザインをして漆職人さんたちの腕を発揮しています(図2-13)。

古い伝統的な民家は、もう壊されそうになっていたのを持ち主から寄附していただき、古材を使って伝統的な工法で建てています。ここでは職人さんがロクロや塗りなどの伝統工芸制作を実際に見せ、来訪者が漆器づくり体験することもできます(図2-14、図2-15)。

ところで、はじめに話したように、越前漆器はプラスチックに漆をかけた製品も作っています。これは輪島のようなところからは「偽物じゃないか」と言われるかもしれません。

しかし、伝統的な文化の工芸技術をそういうふうに新たな技術によって転換して、新たな伝統工芸としてつくっていって、この小さなまちから日本全国に販売している状況です。高級旅館やホテルあるいはレストランなどのプロ筋からは高い評価を受けて、全国の8割をも占めているのです。

それは伝統工芸から出発して立派な近代地場産業になっています。 伝統文化というものは、そのまま技能を凍結して現代まで来ているのではなく、時代時代の新たな技術と接点を持つことによって、次の段階に進んでいくものです。例えば能楽や歌舞伎でも、200年前と今とは実はかなり違うものなのですね。 この「うるしの里会館」では、そのようなあらたな伝統文化としての漆工芸も積極的に展示して、宣伝しています。例えばお椀をたくさん壁にはりつけてオブジェにしています。非常に新しい試みです(図2-16)。

もう一つ、これも地域文化への重要な仕掛けなのですが、「うるしの里会館」の周りに500本もの常緑樹の苗木を植えました。街に緑の森を作ろうというイベントとして、その歳の小学校卒業生たちに集まってもらって、いっせいに植えました。2005年当初の時から今の2009年の様子を見てください。こんなふうにもう森になりかけています。この地域の土壌や気候に適している常緑樹による「ふるさとに森」です(図2-17)。 2005年春にこの会館はオープンしたのですが、水害後の地域再生の拠点となって行きます。


●地域再生へ

2004年の大水害から復興活動は行なわれますが、1年目にお世話になったボランティアをよんでの復興祈念イベントが行なわれました。

災害の元になった山林植樹イベントや京都大阪の学生たちによるアートイベントが行なわれました。これは行政とともに住民やNPO、そして大学生たちによる活動です。(図2-18

この大学生たちによるアートイベントは、最初は復興イベントのつもりが、これを機会に毎年恒例イベントとなり、「河和田アートキャンプ」とよばれて伝統文化と前衛アートの出会いの場となりました。今では関西の大学生たち170人もやってきて、泊り込みでのアート活動は鯖江市内のあちこちの町へと広がりつつあります。

そして住民たちも、うるしの里まつり、お椀でご飯運動、喫茶「椀椀」、口碑による里づくり等の活動を、薬膳料理の会、NPO河和田夢グリーン、うるしの里いきいき協議会、かわだの自然と文化の会、河和田自然に親しむ会などを結成して、活発に進めています。

鯖江市の「河和田うるしの里づくり」は、地域経済学で言うところの内発的なまちづくりですね。地域の産業と文化を活かしつつ「地域まるごとミュージアム」として、地域の中で活力を生み出す仕掛けが活発に動いているのです。まさに水害の災いを転じて福となす動きです。

最後にもう一つ地場産業振興施策の重要なことをお話します。
この地域に地場産業の漆器と眼鏡の工房や工場は非常にたくさんあり、当然いろいろな機械を使っています。ところが都市計画による土地利用の規制では、建替えや増改築、機械設備の入替え等に対して制限を受けています。そのために技術革新や事業拡大のために建物や機械を更新しようとすると、事業所を他に移さなければならないことも起きるのです。

1998年に都市計画法の改正があり、地方自治体で地域の特性に応じてその制限を緩和することができる「特別用途地区」制度ができました。そこで鯖江市では河和田地区の中心部の工場が集まる地区について、2001年に制限を緩和する「地場産業振興特別用途地区」を定めました。この地区では一定の範囲で、伝統産業を生かしていくため必要なものについては、機械の大きさや建物などの制限を緩和することにしたのです。これこそ、産業政策と都市政策の連携というファッションタウン政策のもたらした典型と言えます(図2-19)。

・参照https://sites.google.com/site/machimorig0/sabaeft-teigen


3.事例その2:伝統民俗文化による地域再生

< 中越山村・法末集落震災復興活動>

新・内発型地域づくり/限界地域で伝統民俗文化維持への試み/中越震災復興支援活動から

●中越震災からの立ち直り

新潟県長岡市に法末という山村集落があります。人口は100人を切っています。

ここで私たち(NPO日本都市計画家協会・中越震災復興支援事業)は今、2004年の中越震災の復興支援活動をしています。

この限界集落で、伝統的民俗文化の維持再生の試みをやっているのですが、実は大変難しいことなのです。やってはいますが、先は見えません。限界集落ですから、人数は減る一方で、どうやって人口を増やすか、それが可能なのか、非常に難しい状況にあります。

この法末集落は、長岡市の一番南の端にあります。山村のこういうところですね(図3-1、図3-2)。

もう尾根筋に近い山村で、棚田が美しいところです。時には4mもの豪雪の地です(図3-3、図3-4)。

日本の典型的な伝統的な山村風景を持っている。四季折々美しい風景を見ていただきましょう。秋はブナが美しく紅葉します。屋敷林、山林、棚田の中に、伝統的な茅葺の家々があります(図3-5)。

ここは2004年10月13日に中越大地震が起きて、集落内の主道路の県道や農道、あるいは棚田が大崩壊し、家屋が被災しました(図3-6)。

震源地は信濃川を隔てて対岸側ですが、こちら

も全54戸のうち全壊16、大規模半壊9、半壊22、一部損 壊6で、道路は切断、棚田崩壊でした(図3-6)。

一時は全戸避難しましたが、今は道路や棚田の復旧は済み、住家も直して、8割余が戻って暮らしています。現在の居住者約80人(最盛期1960年577人)、43世帯(同101戸)。住民の約3分の2が65歳以上の典型的な長寿の山村です。


この集落は棚田が沢山あって、美味しい米が採れるところですが、その棚田もあちこちで崩壊しました(図3-7)。崩壊した棚田で耕作を放棄してしまったところは、現在は草

ぼうぼうでカヤが生い茂る斜面地になっています。 ある家の土蔵は大きく屋根も壁も壊れて、いっそのこと全部落としてしまえとて、ちょっと芸術的な風景になっています(図3-8)。 実はこのあたりの地質地形は、崩壊しやすい性質を持っていて、大なり小なり崩壊を続けていて、それが棚田になっているのです。ですから地震が起きると棚田が増えていきます。 ここに長岡市からの斡旋で、私たちNPOの復興支援チームが通いだしたのは、震災から1年の2005年の秋からでした。未だほとんどの家が避難中でしたが、一応は集落への道路は通れるようになって、避難勧告は解除されていました。 集落内の除雪作業のための施設付属の部屋を借りて、毎週末には支援仲間のだれかが必ず滞在して、地域の人たちとの信頼関係を打ち立てることから始めました。

そして、「たっしゃら会」と称する集落再生活動運営組織を立ち上げたのでした。集落の自治会や組合、地元の大学、行政、わたしたちの支援チームが参加しています。地域と一体になってやりましょうということです。毎月この会議を開いて、なにを行なうか、どう進めるかなど決めています(図3-9)。

その年の冬に、集落住民にとってひとつの転機がありました。集落の中心に「やまびこ」という、以前は小学校だったのですが、今は宿泊施設としてコミュニティセンター的な役割も持っている施設があります。ここも被災して閉鎖していたのですが、震災から1年2ヶ月目の2005年12月、ようやく修理ができて再開することになります。再開の記念イベントをわたしたちはお手伝いしたのですが、あち こちの避難先から住民たち、遠く近くの親戚たちがそれぞれ手料理を持ってかけつけてきて、大宴会になりました(図3-10、図3-11)。

久しぶりに集落の人たちが一堂に顔を合わせて、無事を喜びあいました。あとから聞いたのですが、実はこのときまでは多くの住人がもう集落には戻って住めないと思っていたのに、こうやって「やまびこ」が再開し、元気な互いの顔を見ると戻ってくることができそうだと、決断がつきだしたのだそうです。私どもも手伝った甲斐があったと思いました。

集落の伝統芸能である獅子舞、天神囃子、野三階節などの歌や踊りがあり、集落出身の民謡歌手が出演し、支援仲間のオペラ歌手がアリアを歌い、のど自慢もあり、宴会は続きました。外はしんしんと雪が降っています。

これを契機に次の年には8割の人たちが戻ってきました。戻ってこなかった人たちも多くは、家の管理や田畑の耕作に通ってきています。

どうしても戻れない人は、集落内の知人に耕作を委託していますから、集落から遠いところの田畑は放棄されても、集落内では田畑は耕作されていて、美しい山 村風景が保たれています。

●地域の民俗文化を再生する試み

この4年間の法末での活動を振り返ってみれば、棚田、農作、年中行事、芸能、協同作業、伝統民家、花作りなど、それらは民俗文化の保存と再生活動になっています。

まずその文化財の一番は棚田ですね。これはまさに日本の伝統文化そのものです。傾斜地を巧妙に伐って段々に水平面を重ねる棚田は、山の中を巧妙にめぐらす水路トンネルや農道の巧妙なネットワークがあり、これらは何百年もかけて営々と作りあげた文化そのものです。

その風景は文化財級です。「文化的景観」というジャンルの文化財指定制度が最近できましたが、法末はまさにそれに値します。

今、わたしどもは、耕作放棄された棚田を再生して、米を作る体験をしています。今年で4回目の収穫になります(図3-12、図3-13)。

どうせやるなら、機械や農薬を使わないで、手で植えて、手で草取りして、手で刈り取り、天日で干すことをやっていますが、まったくもって手間がかかることです。


蕎麦も蒔いて刈り取り、蕎麦うちして食べましたし、借りた畑で野菜づくりもしています。もちろん、米も蕎麦も作り方なんてこちらは誰も知らないので、手取り足とり教えてもらっています。支援ではなくて支援してもらっているのです。

私たちが農作業をやっていると、集落のいろいろな人がやってきて、それぞれ自分流のやり方を教えてくださるし、野菜はまるで自分の畑のように主婦たちが出入りして作ってくださるのです。 これは集落の人たちにとっては実に面白いことらしく、教えてもらうこと自体が集落の人たちの活性化に役立っているようです。

棚田からは美味しい米ができます。集落で作る米を全国に販売しましょうという、支援仲間が販売のお手伝いをしています。東京でお店に紹介をしたり、イベント会場で売ることもやっています。わたしもここの営農組合と契約して、お米を毎月送ってもらっています。
棚田農作という地域の伝統文化を生 かす活動といってよいでしょう。

さて次は、集落で絶えていたあるいは絶えそう になっていた年中行事の復活もやっています。
そのひとつは「賽の神」というお正月の行事です。雪の上に青竹を立ててその周りに藁を積み上げて盛大に燃やします。その灰をかぶり、焼いたもちを食べ、酒を飲んでその年の無病息災を祈るのです。集落の人たちみんなが、元小学校の運動場に集まってきます(図3-14)。

夏の盆踊りも、支援仲間が屋台を出して盛り上げると、街に暮らす子や孫たちがやってきてにぎわいます。この集落にはもう小学生も中学生もひとりもいません。こどもの遊びは絶えています。そこで、かつてあった「トリボイラ」「とりおい」という雪のなかでの子供の遊びを、都会から子供を連れてきてやりました。集落のおじいちゃんたちに教えてもらうのですが、教えるほうが楽しんでいるという状況です(図3-15)。

新しい年中行事を始めました。「お茶会」です。支援仲間の女性たちには茶道のたしなみを持つものがいて、正月、春の田植えの終わる頃、秋の稲刈りが終わる頃に、集落の人たちと大茶会を催します(図3-16)。 はじめはおっかなびっくりの集落の人たちも、今では楽しみにして、孫たちもやってきて抹茶を飲んでいます。 この集落特産の野菜「神楽南蛮」を使った新しい農産物商品の開発、主婦たちの得意な「笹団子」などのような郷土特産品、そして新鮮な野菜の直接販売の「朝市」にも取り組んでいます。

●文化景観を保全する試み

この集落の女性たちは、家の周りで花を育てることを趣味にしている人が多くいます。菜園か花園かわからないほどです。

そこで支援仲間の花好き女性たちが提案して、この花や野菜づくりを集落観光資源にしよういうのです。そこで実験的に「オープンガーデン」というプロジェクトを始めようとしています。やってくる人たちに花を見てもらい、野菜を買ってもらってはどうかというのです。

これが地元の雑誌に載ったのですが、そうしたら突然に観光客がやってくるようになって、集落の人たちは戸惑いつつも喜んでいます。花咲爺さんも登場して畦道の花つくりに精を出しています(図3-18)。
この集落の文化景観を作っているのは、なんといっても屋敷林を持つ伝統的な民家群です。茅葺きは金属板で覆われていますが、建ってから100年を越える家も多く、どっしりとした美しいプロポーションのデザインと骨組みは実に見事なものです(図3-17)。

震災で壊れて撤去した家もありましたが、今、伝統的な茅葺も含めて農家が40軒ほど建っていて、暮らしています。

この民家群をどう保存していくかが問題です。震災でちょっと傾いている家もあり、そのまま住んでいます。

今、一軒一軒をわたしたちは訪ねてまわり、間取りや構造を調査し、住宅カルテを作る作業をしています。これからの修繕や改造の役に立つことを考えています。

そのなかの1軒の空き家を、わたしたち仲間が買い取って、集落での活動の拠点にしています。冬の積雪が今はそれほどでもないのですが、それでも屋根の雪下ろしや家の周りの雪かきをするのは、大変なことだと体験をしています。

この辺りでは雪かきではなくて雪堀りといっているくらい、深いのです。 今や茅葺のうえに金属板をかぶせてしまって、茅葺が見える家は一軒もない状態です。大変であった茅葺屋根の葺替えが必要なくなりました。

それはとりもなおさず、茅葺という伝統技術の消滅でもあります。 そこでわたしたちは実験的に、茅葺技術を教えてもらうことにしました。棚田の中に床面積4坪の小さな小屋を、茅葺で建てるプロジェクトをおこしました。そこを足湯にして、集落の人たちが集って憩う場所にしようというわけです(図3-18)。

小さな家でしたが、集落の茅葺職人さん二人の指導のもとに、冬の茅刈りからはじめて夏に完成しました。その巧みな自然素材の活用技術に感心し、労力のものすごさに辟易したりしつつ楽しんだのでした。今、集落で唯一の茅葺屋根が見える風景です(図3-19)。

その足湯の熱い湯は、そばに作った炭焼き窯の余熱で湧水を沸かしています。老人会をここで開くなど住民が足湯を楽しみ、観光客が立ち寄ります。

なお、これらの事業にかかる諸費用は、NPO日本都市計画家協会の資金、行政からの事業補助金、各種財団等からの助成金をかき集めています。集落の人たちも支援仲間もボランティアで楽しんでいるわけです。

これはまさに「法末地域まるごとミュージアム」としての動きといってよいでしょう。

こうして、わたしたち仲間は集落に受け入れていただいたのですが、もちろんそれでこの集落がこれからも維持できるかというと、それは大きな課題を抱えています。超高齢化は止めようがなく、この4年間でも幾人か街に移り住み、なくなられた方たちもいますが、人口が増えることはありません。

長く養われてきた民俗文化も、いずれちかいうちに消え去る運命でしょうか、それとも起死回生のなにかが起きるでしょうか。

・講演者注記:ここに報告した活動団体の正式名称は、「(NPO)日本都市計画家協会中越震災復興プランニングエイド」及び「国際女性建築家会議日本支部(UIFA JAPON)災害復興見守りチーム」である。

4.まとめとしての問題提起
<再生・活性化一本やり政策への疑問>

人口減少時代の地域づくり/地域の幸せなしまい方も必要な時代

最後に重要な問題提起をします。実は市長さん方にいちばんこれを聞いていただきたかったのです。

きょうの会議は活性化というテーマですが、今、活性化とか再生という地域政策にはかなりのお金もつくし、耳あたりたりも良いのですが、実は、今見ていただいた山村の限界集落のようなところを再生するとか活性化するといっても、その活性化の元である住人は少なくなる一方です。

これは絶対止まらないわけです。よそから持ってくるといっても、そのよそでも人口が減っているのです。

しかし市長さんは、だから活性化はもういいんだというふうには絶対に言えない。行政からも絶対に言えませんね。だから、しがらみのないわたしが言います。

山村ばかりではありません。例えば、中心市街地でも、商店街が長過ぎて空洞化してどうしようもないところがあります。本当は商店街を半分ぐらいか、3分の1ぐらいにすると活性化するのだけれども、実際には半分をやめさせる政策なんて、思っていても言えっこないのですね。住宅地でも同じようなことがあります。限界商店街とか限界住宅地とか、限界都市とさえ言われます。

人口がこれから減少する日本で、どこもかしこも活性化とか再生することはありえないのです。人がいてこそ活性化なのですから。

冷徹に見れば活性化するところは半分、いやもっと少ないでしょう。残り半分以上はなんらかの形で消えていかざるを得ない時代を迎えているのです。

人口全体が減少すれば、どこかに人口移動がかならずおきます。一方では活性化するが一方では不可能となるはずです。それを単に成り行き任せではいけないと思います。

人の集まる地域施策ばかりでなく、人の減少する地域政策も必要だと思うのです。 つまり、幸せな仕舞い方を目指す地域づくりも、もう一方の政策にしなければならない時代になっているのです。良い着地点を見つけて、地域を閉じる政策に必然性があるとわたくしは思うのです。 閉じるのは不幸だという観念がありますが、それは活性化策ばかりやっている立場からの幻像です。不幸ではなくてハッピーに閉じる政策もあってもいいと思うのです。いや、あるべきと思うのです。そうしなければならない。

法末集落の中でも、実は住民は山をしだいに下りていっているわけです。やむを得ず下りていったのです。だけど、やむを得ずではなくて、幸せに下りられる方法はないのかというのが、私の問題提起です。

積極的に下りて、しかもそれは幸せである。地域自体も、それはむしろいいんだという、こういう政策をぜひ考えていただきたい。地域を閉じる政策、山を閉じる、まちを閉じる、村を閉じる、このような政策があってもよい時代になっているのです。

昨今、二地域居住という政策が出ています。都会の人が中山間に二つ目の家を持って住むということで二地域居住というのが基本的な考えのようです。

私は、もちろんそれを否定するわけではありません。しかし法末という山村へ通っていて考えるようになったのですが、山村の人たちが街にもうひとつの家を持つ、そういう二地域居住政策をやるのが、先ほどのハッピーにその地域を閉じる政策の1つになりそうなのです。

山や村と街との両方に住家を持っている、両方にコミュニティがあるとよいと思うのです。

場合によっては、空洞化している中心市街地に、大きなマンション1つが実は何とか村の住民の二地域居住の場所である、そういうものがあってもいいと思います。それは中心市街地の活性化にもなります。

そうすると、山村のコミュニティと街のコミュニティが同じ人たちとコミュニティとして成立します。若いうちは山の暮らしを重点に、年取ったら街の暮らしを重点にと、暮らしの拠点を徐々に替えていくのです。

これは短期ではなく、20年くらいかけてやるべき施策だと思います。

現実に法末でも、小千谷とか長岡に家を持っていらっしゃる方が多くいます。週のうちの半分ぐらいは街で暮らして、半分ぐらいは田んぼをつくって山で暮らしている。冬は町で暮らす。そうやって、いつ山を下りてもいい体制をもって暮らしているのですね。

ですから、ある時点でだんだんと街での暮らしが多くなってくるのですから、その人にとっては年取って街の暮らしになっても生活の激変ではないわけです。

通い農業ができる距離圏の市街地内に、もうひとつの集落コミュニティを作るのですね。

これから山村から離れるためには、田んぼをどういうふうに閉じていくか、山をどう閉じていくかも考えながらやっていけるのです。体力なくなるまでぎりぎり頑張らなくてもいいのです。

二地域居住という政策は、むしろ山村、農村の人たちに積極的に使われるような政策にすればよいのにと、わたくしは現場からつくづく感じております。

そうすればその地域の人が伝えてきた伝統文化は、なんらかの形で継承されるはずです。文化は地域は変っても、人がつくり、伝えるものですから。

そして美しい国土の保全と創造のために、今は放棄されたままに茅が生い茂る棚田群や里山に、その地域に適した自然植生の森林をつくる政策が必要であると、これも現場を歩きまわった目と足による感想です。

・参照https://sites.google.com/site/machimorig0/tiiki-tojikata

以上でございます。どうもありがとうございました。

<講師略歴自己紹介> 伊達美徳(だて・よしのり) 1937年生れ 地域プランナー

建築の歴史を学んで社会に出て、コンサルタント会社・RIAに所属し、後にフリーランスのプランナーとなりました。主に国や自治体の街づくり(地域計画、市街地整備、景観計画、建築企画)に関して調査・研究・計画・事業実施などを行い、特にハードとソフトの中間あたりを専門領域としています。

地域プランナーとして、物づくりと街づくりの連携による地域活性化策、既成市街地の再生策、地域景観の保全創造策などとともに、全国組織のNPO日本都市計画家協会の常務理事事務局長として各地のまちづくり活動の支援、そして東京工大や慶応義塾大学院等の講師として街づくり教育に携わりました。

NPOで中越の山村で震災復興支援にかかわったことから、最近は限界集落の現実を通じて超高齢社会における地域再生と地域縮退のありかたについて考えています。

主な著書:「初めて学ぶ都市計画」、「街並み・街づくり」(いずれも共著、市ヶ谷出版社)、「新編 建築家山口文象・人と作品」

・伊達ウェブサイト「まちもり通信https://sites.google.com/site/machimorig0/

注:本稿は、全国市長会経済部 地方の活性化に関する検討会(テーマ:伝統文化の再生と地方の活性化 2009年7月7日)において行なった講演の、話・映像資料・配布資料を、講演者の伊達が改題・再構成・補綴したものである。

注2:本稿のPDF版は下記の添付ファイル「090707dentobunka.pdf」をダウンロードしてください。

参照⇒

「中山間地論」(まちもり通信:伊達美徳)

「まちもり通信」(「伊達美徳)