高梁:がんじい備中高梁に寄る

がんじい備中高梁に寄る

2012/11/3 松吉利記

10月27日土曜日、郷里松江の帰途、伯備線特急やく

もに乗る。車両の横揺れが懐かしい。 安い航空便の出現する前は、新幹線経由伯備線利用が、現住所横浜からの往復の常であった。今回は備中高梁(びっちゅうたかはし)で途中下車する。 都市計画家で、Y市の都市計画審議委員でもあった畏友D氏の郷里、同氏の著書「美しい故郷に、高梁盆地の昨日と今日そして明日へ」を読んだ。彼は手紙で、古い山城に登ることを勧めた。 郷里で法事をした。妹夫婦は是非、城に登れと言う。そして高校の同窓会に出席した。元医師のI君も城に登れと言う。K君は奥様の実家があったと言う。 傘寿の同窓会だ。もちろん年寄りばかりであるが、皆思っていたより若々しく見える。時代のせいだろう。なんだかんだと言いながら、今の日本は繁栄の絶頂かもしれない。閑話休題。 午前9時、備中高梁駅に降りる。 タクシーに乗る。城の帰りまで待っていてくれるかと聞く、運ちゃんは時間チャーターを勧める。1時間半で9000円、市の補助があるので半額でよいと言う。断る。 車は10分で山麓にある駐車場についた。メーター1200円。「ふいご峠」である。標高330m、ここから100mの急坂と、手紙にはあった。 城祭の日であった。テントが張られ、地元のボランティアの方達が案内をしていた。杖を借りる。鬱蒼と茂る雑木林の坂道を歩き始めた。すれ違う人達が声を掛けてくれる。途中「中太鼓の丸」跡、下界との通信施設跡だ。標高350m、見晴台になっている。 引き返してくる夫婦に出会う。「300m、残り400m」の標識がある。全長700mなのだ。100mとは標高の差のようだ。27階のビルの非常階段を昇るようなものだ。

がんじいは破れかぶれだと言った。がんじい夫人はプール通いを続け、毎日800mを泳いでいる。彼は朝夕散歩、その成果か、とにかく城にたどり着いた。 天守閣は二層、階段を一層上がればよいのでほっとする。囲炉裏がある。寒いのだろう。寒くても、腹が減っても、戦は出来ない。鉄砲も狙いが定まる。難攻不落だ。秀吉といえども、攻めあぐねるだろう。水攻めは出来ない。 「霧が晴れてよかったですね」とボランティア氏が言う。高梁市街がよく見える。 川を挟んだ盆地の街、日本のハイデルベルグ。大学がある。D氏はドイツに行って気がついた。以前、池田潔元慶大教授も、同じことを言ったそうだ。D氏の著書は高梁とハイデルベルグの比較論を展開している。 途中、舗装道路を降りるよう案内された。下りは楽だ。上りは印象強烈、山城の峻嶮さを体で実感出来る。幼少時の裏山の記憶。 ふいご峠に着くと、シャトルバスが待っていた。麓まで無料で行ける。終点の広場にはトイレと売店がある。がんじい夫人は柚餅子を二つも買う。D氏は遠州堂の柚餅子を勧めていた。早まった。一つ開けて頬張る。少し待てば駅へ行く直通バスがあるそうだ。 バスの乗客は我々のみ、無料だ。「御前(おんざき)神社で降りたい」と言うと、高梁高校の前で止めてくれた。D氏の出身高校。往時、殿様の住居兼役所であった。

運転手は「昔は名門高校だったが、今は誰でも入

れる」「城から街までの坂道に雪が積もったことはない」「高校の石垣を是非見て行け」と言う。確かに立派な石垣だった。石垣の上の土塀、現地の粘土だろう、薄い黄土色が心地よい。 隣接している武家屋敷群の土塀には所々白い漆喰壁もあるが、黄土色の壁が続く雰囲気は捨てがたい高梁の魅力の一つだ。 武家屋敷ゾーンを抜けると、D氏の生家である御前神社に出る。鐘楼を観ろと書いてあった。鐘は戦時中に供出させられた。70年間も鐘不在でよく木造の鐘楼が保存出来たものだ。国家賠償を求めてもよいぐらいだ。 D氏のアドバイスの記入された案内図に従って見学をする。なにしろ5時間の滞在だ。小堀遠州の庭園は割愛して、伝統的商家の街並みに向かう。 大きな高梁川の岸には塀があって川の風景が見えない。堤防の嵩上げだろうか。コンクリート壁に土塀の装いだ。街の中、岸に柳など植えられた紺屋川にも少し塀がある。なまこ壁模様が描かれている。 横丁や古い商家に優れた街並賞の標識。街づくりにいろいろ気を使っている。紺屋川の上に、小さなお宮が架けられていたりする。川沿いに遠州堂があった。立派な伝統的商家の建物。 料理屋「魚富」に寄る。昼食にお勧めの鮎定食を頼んだ。目の前の板さんは、高梁川の落ち鮎だと言う。小ぶりの鮎はさすが旨い。昼間から店は繁盛していた。

商店街を抜けて広い道路へ出る。都市計画で拡幅された道路と思われる。土曜日のせいか車はほとんど通らない。城の廻りに比べて静かだ。四つ角に見つけた木造の古いキリスト教会が印象的だった。 古い小学校を活用した資料館の辺りまで来て草臥れてしまった。タクシーもいない。バス停に座っていると、バスが来て「どこへ行くの」と尋ねて、駅まで乗せてくれた。無料だった。なぜこんなに親切なのだろう。

駅の向うの古民家を活かした「カフェ紅緒」がお薦めであった。ところが休業。駅近くのホテルでコーヒーを飲む。広いロビーは絵の展示もあり、かなり混んでいた。

がんじい夫人の印象は街が清潔なことと、どこにもごみ集積場が見当らないことだった。

沢山のボランティアの活躍、市民が街づくりに熱心だ。 城も市民に愛されている。謡曲に「君の恵みぞありがたき」と言う一節がある。殿様は支配しながら、街を守ってくれたのだろうか。 都市構造は高梁川を挟む東側が旧市街である。山麓のJR線路と川の間が下町、線路の向うに武家屋敷がある。川向うは新市街、公共施設が多い。 しかし市役所は旧市街の中心にある。建替えが計画されている。現在の場所で建替える。これはよかったと思った。市民の意見の反映だろうか、役所の建物が支配の象徴ではなく、コミュニティの中心になれば素晴らしい。 高梁盆地の人口1万8千人、総数に変化はないが高齢化が進んでいる。温暖な気候、生協の宅配もある。空気はきれいだ。 老人にはこれぐらいの規模の都市が住みやすいのかも知れない。拡散しないほうが良い。車がなくても暮らせるコンパクトシティー。 下町に密集して住む。1階は商店、2,3階に高齢者の住居。今の主な産業は何にか。高齢者がやって来れば、仕事、雇用が増える。変なことを想像した。 今回は古い商家の中も、資料館や市役所、大学も見なかった。 近くに、がらがら空いたニュータウンがあると聞いていたが、それも見なかった。 次回、もう少しゆっくり見学する価値がありそうだ。 (終り)(注) このエッセイ「がんじい備中高梁に寄る」の著者・松吉利記さん、つまり「がんじい」さんは、わたくし(このページがあるサイトの管理者・伊達美徳)が尊敬する建築家で、大学先輩にあたります。わたくしと同じ横浜市内に住んでいらして、松江市が故郷だそうです。 その松江に法事にいらっしゃるとて、久しぶりに列車で行くから、途中で高梁に寄ってみたいとおっしゃるのです。 わたくしは大喜びで、あれこれと訪問していただきたいところなどを、地図に書き込んで差し上げたのでした。 そしてこのエッセイをいただいたのですが、故郷を出てしまったわたくしでも、たまに故郷を訪ねると、やはり内内の眼で見るのですが、こうやって余所者の眼でご覧になったエッセイを読むと、ああそうなのか、気が付かないなあと、思わせられるのでした。

暖かい心のこもった内容とともに、まことに興味ある書きぶりなので、ご了解を得てここに掲載をしました。

なお、写真はお撮りにならなかったそうなので、これもご了解を得て、わたしが撮ったもの(一枚だけ友人撮影)を載せ、わかりやすくするために訪問先の位置が分かる地図も載せました。(2012年11月8日 伊達美徳記)