高梁:生活景と造園景-故郷の谷川の公園

生活景と造園景-故郷の谷川の公園

(小高下谷川:ふるさとの川シリーズ2)

伊達美徳

●谷川に出現した滝石組

 狭い谷川に沿た道をだらだらと登っている。両側の山の森と谷川の間には、雑木林や狭い畑と農作業小屋があったりして、日本の原風景の趣もあって楽しい。どうってこともないのだが懐かしい風景である。
 と、こ谷の向こう岸に突然、にょっきりと巨大なとがった屹立する2本の巨岩が顔を立っている。 ふむ、支流の谷かと見れば谷はなし、岩がすっくと直立しすぎているし、周りには似たような石はまったくないし、どうも不自然に見える。
  巨岩の間によく見るとその2本の間には石垣が積んであって、水が流れ落ちているのがみえる。下のほうにも巨岩がいくつか転んでいて、滝つぼのようなものを作っている。 自然でこううまくは並ぶまい。
 そうか、これは日本庭園によくある滝石組らしい。2段の竜門瀑かしら、そう思ってみると、下のほうに滝を登る鯉を模した鯉石のようなものもある。これは造園工事だな。 でも、ここは日本庭園でもなし、どうしてだろう。



●谷川を庭園にする

 実はこの話は、わたしの故郷の高梁にある小高下谷(ここうげだに)のことである。備中松山城のある臥牛山に登る道が、この谷川沿いにある。少年のころは良く遊んだところである。
 久しぶりの故郷訪問で、この谷川に沿った道を歩いて登ってきた。街の中にある下流部は、石の三面張りになっていて、水は中心の凹部をすばやく流すようになっていた。コンクリートむき出しでないのが、城下町らしい修景であろう。

 さらに登って山間になると、谷川の左右は昔からの間地石積みの石垣がたちあがり、底には自然石がごろごろするようになって、水は石と石の間を流れるようになってきた。
 その谷底にごろごろとしている大小たくさんの石が、まっすぐではないのだが、なんとなくお行儀よく並んでいる。それがえんえんと谷川の底に続くので、なんだかどうも気になっていた。この滝石組を見てやっぱりそうか、あれは庭の踏み石だったのだとわかった。
 細長く続く谷川の底に延々と、いろいろな踏み石配置手法が次から次へと展開しているのだ。庭石の配置方法の見本市のようである。

 どうやらこの谷全体を日本庭園として整備をしたらしいとわかってきた。
 となると、この石はどこかから持ってきたのであろうか。もともと谷に転がる石なら価格はないが、こんな庭石をこれだけそろえると大変な価格だろう。すごいことをやるものである。
 ネットでちょっと調べたら、ここは「中州公園」と名付けられた公園であった。どうやら観光ルートの途中に、花見とか紅葉狩りのための公園を作ったらしい。

 そう思って見ると、谷の向こうの林の中に水車小屋があったり、急な散歩道が登っていたりする。
 この谷を公園の一部として整備するにあたって、日本庭園の造園手法を持ちこんだのだ。滝石組みの異様さは、この公園のシンボルなのだろう。もしこれが顔を出していないと、観光客はここに公園があることに気がつかないだろう。わたしが現にそうだったように。

●生活景と造園景

 さて、この風景をしげしげと見ていて、日本庭園について興味深いことを考えさせられた。普通の日本庭園は、外界の自然や文化の風景を模倣圧縮して、ある一定の囲いの中に閉じ込めて、これは作り物であるとの約束で見せる。縮景という言葉もある。

 ところがこの谷川の日本庭園は、自然風景を模倣圧縮して、本物の外界風景の中にさらけだして放り出していることだ。動物で言えば放し飼いである。
 日本庭園の石組みという一定の空間の中の約束事としてのデザインが、それとはまったく異なる生活という約束事でできあがってきた田園や里山に直接にでくわしてしまった。生活景と造園景の対置である。

 それらがまったく異なる風景ならば、異なるものとしてみるのだが、庭園の造形は生活景あるいは自然景のある種のアナロジーで成り立つから、周りの圧倒的な生活景のなかでは、その不自然さのほうが露呈してしまう。
 風景に文脈という言葉を充てることがあるが、それから言うと庭園は風景の延長上にあるのだろうが、生活系の文脈の中に放り込まれると異端の様相が露出する。いかにすばらしい盆栽であっても、森の中ではその意味を失うのである。

●庭園としての視線の高さ

 外部から区切られた一定のエリアの中に造られた日本庭園の中ならば、見るものはその造形を人間が作った約束事の空間として承知の上で楽しむことができる。それは絵画の中の風景を、これは描かれたものと承知してみるのと同じだろう。
 ところが、既存の広い空間の風景のなかに、既存の風景の一部を強調・模倣・圧縮した事物をおくと、それがどんなに既存のそれと似ていても、やはり異なるものに見えるのである。

 そこでわたしは谷の中に降りて、そこで石組みを見てみたののだ。そうすると意外にも、不自然ではない風景が見えてきた。
 左右に積んだ谷川の石垣で視覚が限定され、眼を上にあげると橋が空間を限定する。その谷底と石垣と橋とがつくる額縁とでもいう限定された空間の中で石組みを見たとき、ここに石庭が出現したのである。雑木林や畑などの生活景が薄れてしまった。なるほどと思った。

●庭園としての視線の距離

 もうひとつの不自然さが減少した原因は、視線の高さが変わったことである。
 谷川のほとりの道から谷底の石組みを見る視線は、高いところからの見おろしとなるから、石にならび方が全部見えてしまって、それがカタログのように見える。

 ところが谷川の底で石組みを見ると、石と石が重なって見えて、遠くまでも見ることはできない。それは庭園で石組みを見る視点の高さになる。
 なるほどとまたも思ったのは、庭園の石組みデザインは、視線の高さあるいは水平の距離を考えて構成しているのだということであった。

 風景を作るとは、それを見る人間の視線をデザインすることなのである。
 庭園の中の滝石組は池の向こうあたりに、手前の石組みを前景にして一定の距離を持って立つものだろう。ここの滝石組みは、谷が狭いので向かいの道からあまりにも近過ぎて、その巨大さが異様に見えるのだった。引きがないのである。

●借景庭園の技法

 高梁盆地には頼久寺に小堀遠州による名庭園がある。もちろん作庭技術を尽くしている。
 その技術に借景がある。庭の外の風景をあたかも庭そのものとして一体化して見せるのである。ここでは1.5kmも遠くにある愛宕山を取り込んでいる。

 先に見た小高下谷の場合と反対に、庭の中に生活景をとり込んだのである。このとき単に山が見えるのではなく、作庭のの中のある場所に、ある一定の大きさで、あたかも人工物のように愛宕山は据えられている。外の風景を生け捕りして飼いならしているのだ。小高下谷では作庭が生活景の中で放し飼いにされていて、どこか居心地が悪そうにわたしには見えるのだが、頼久寺庭園では愛宕山が居心地よさそうに位置を占めている。

 思い出せば、1960年ごろのこと、わたしは頼久寺庭園を訪れたことがあった。そのときは庭園の外にある建物(養老院だったと思う)の屋根がそのまま見えていた。生活景と作庭がもろに対峙してしまっていたから、愛宕山も居心地が悪そうであった。
 いまはその屋根は見えないのだが、外にはその建物は今もあるから、低く建て直したか、それとも目隠しとなる生垣を高くしたのだろうか。

 先日、高梁市で都市計画のことを聞いたのだが、今から30年ほど前に都市計画の地区計画制度によって、頼久寺庭園からの借景を邪魔するような高い建物を建てることを禁止したのだそうだ。市民と行政とでそれなりの努力をしていることがわかった。

●「つくった風景」と「できた風景」

 小高下谷の石たちも、見慣れると周囲の風景と違和感をなくすることであろう。この違和感をわたしが感じたのは、わたしが少年のころに見慣れた生活景であったところに、作庭技術が名まで入り込んでいることを、久しぶりの故郷訪問で発見したことにあるだろう。だから見慣れていない風景に出会ったのだ。
 それは古い町並みの中に新築される新しい建物も、まったく同じようなことでもある。木造瓦屋根の続く中に、その街並み建築を模した建物が建つと、しばらくは違和感があってもそのうちに溶け込む。
 あるいはレンガ造りの洋風建築が建つと、しばらくは違和感が消えないが、そのうちに慣れてくると同時に、逆に待ちのランドマークとしての地位を獲得するかもしれない。
 建築の風景と自然の風景とはまた違うかもしれないが、既存の風景と新たな風景との出会いを考えさせる、小高下谷川庭園である。
 この「つくった風景」を、はじめてみても「できた風景」と見えるようになるには、どれくらいの時間がかかるものだろうか。

●参照→小堀遠州作の名園の借景を守る