ネパール400㎞バスの旅
第2話
 なんと多様な国なんだろう

2-1 多様な地勢

ネパールは多様な風土に多様な民族の多様な生活圏がある複雑な国だ。

国の範囲の外郭が東西に細長い長方形をしているが、それが3枚のパンのデコボコサンドイッチを横から見たようになっている。分りやすいといえば分りやすいが、激しい起伏の地勢だ。

一番北には標高8000m級の山岳地帯のヒマラヤ山脈が横たわり、その南隣には標高1000~2000mの盆地や山地のミッドランドがはさまり、その南には2000~3000m級の山岳地帯のマハバラート山脈、そのまた南には低い丘陵のシワリク山地、国土の南端には標高80~300mのタライ平原が横たわる。

そしてなんと標高4000mあたりまでも人々は暮しているのである。ものすごい急傾斜の高い山の上まで耕す段々畑を見てきた。日本ならば日本アルプスの頂上どころか、富士山の頂上あたりまでも耕して暮らしえいるのだ。

こんど訪問したカトマンズ日本語学校の校長先生は、富士山頂上と同じくらいの高さのところで生まれたとのことで、以前に日本に来て富士登山をしたが、まったくもって軽々とした散歩だったといっていた。

ヒマラヤの北はチベット高原、タライの南はインド平原である。気候は北はいつも氷雪に覆われたヒマラヤから、中間には温帯山岳地帯、南には低地のタライ平原の亜熱帯まである。

その間はたったの170km程度なのに高度差は8000mもあり、雨量も500mmのところもあれば3000mmのところもあるという多様さである。

今回の旅では、ヒマラヤには近づかなかったが、その南のミッドランドにある海抜1300mのカトマンヅ盆地に舞い降りてから、タライ平原にある海抜100mのルンビニまでバスで走ったから、その地勢をこの目でとくと見ることができた。

ネパールの総人口は約2300万人(2001年)だが、その20年前の統計では約1500万人だから、ものすごい急増ぶりである。なかでもカトマンヅ首都圏に300万人が集る一極集中である。

どんな都市計画がなされているか、見ただけではなにも分らない。カトマンヅの上空から飛行機で見ても、郊外はだらだらとスプロールばかりである。

日本では人口増加時代に郊外ニュータウンを計画的につくったが、その一方では無計画なスプロールが進行した。カトマンヅ盆地の市街中心部は歴史も古く、まるでヨーロッパの中世都市のように商住混合で密集している。散漫なスプロールとあわせて、高度成長期の日本みたいだ。

だが、ネパール人口の8割が農業であるという。その農村に行くと都市とは段違いに貧しさが目に見えて、これは戦前日本の山村そのものの風景である。

どこまで近代化が農山村に入っているのかは通りすがりでわかるはずもないが、目に見えるあまりのギャップに驚くばかりである。

2-2 多様な民族

ネパールは20世紀半ばからようやく近代国民国家への道を歩んでいるらしいのだが、なにしろコーカソイド系からモンゴロイド系までメジャーなだけでも10種以上、細かく数えると100以上もの多種多様な民族が棲み分け入り混じり、それぞれ言語も民族の数以上に多数ある。

たくさんの言語のなかにネパール語を使うパルパテ族が主流派を占めていて、これがネパールの標準語となっている。パルパテの高位のカーストが社会のリーダー的地位にあるという。

ネパールの人々はたがいに顔を見て民族が分るらしいが、8日間やそこらの通りすがりではほとんど分らない。でもチベットモンゴロイド系とインドアーリア系くらいは区別がつく。

これに加えて宗教的に絶対多数を占めているヒンズー教のカースト制度が、民族の違いにも複雑に重なっているそうだ。そのあたりは旅行者のちょっと調べくらいでは、まったくなにがなんだか分らない。

日本のような、少数のアイヌ族がいるものの単純な民族社会で暮しているものには、多民族社会の様相は見当もつかない。

混血社会ではなく多民族がそれぞれに固まって生活圏や婚姻圏を作っていて、融合ではなく混合社会であり、時には対立となるらしい。それが不安定な政治的状況を生み出し、近代化が遅れる土壌かもしれない。

だが、なぜ民族間で深刻な争いになるのか、わたしには想像もつかないのだが、このところ中近東・アフリカ・中央アジア・中国奥地などでおきていることから推し量ると、ネパールでもグローバルな影響が及んで情報社会化が進み、民族対立の深刻な争いが起きるだろうか。

そうならないことを望むばかりである。

2-3 ゴルカ兵と戦った日本

ずっと前にイギリスに行ったときに、大英帝国の兵隊で強いのはネパールから来たグルカ兵だと聞いたことがあった。そのときはネパールは大英帝国の一部なのかと思ったのだがそうではなくて、それは傭兵だったとこのたび知った。

ゴルカ族はとても好戦的な民族らしく、18世紀にはカトマンヅ盆地に王朝を打ちたて、他の部族を征服してネパールの統一を果した。

1814年から2年間ネパールとイギリスが戦争した時に、頑強に抵抗したのがグルカ兵、今言うところゴルカ兵で、イギリスも植民地にすることができなかった。

そして、後にこれをイギリス軍の用兵にしたのだたそうだ。

「ネパール雑学」(平尾和雄 1996)という本に、第2次大戦中にイギリス傭兵となったゴルカ兵が、英領ビルマ(ミャンマー)やシンガポールで日本軍と戦った話が出てくる。

当時現地で日本軍が発行した軍票を持っている元ゴルカ兵がいて、日本円に交換したいというのが話の発端だったそうだ。

1944~45年、ミャンマー国境に近いインド東部のインパールに攻め込んだ日本軍は、英軍に大敗北した。悪名高いインパール作戦である。ここで日本兵はゴルカ兵と戦ったのであった。

日本軍の敗北の決定的要因は、戦争に必要な兵站を軽視した作戦だったのことで、前線の兵士たちは兵器、食糧、物資がないままに、物量で圧倒的に勝る英軍になすすべもなく、生き残りは1割程度という悲惨な戦争だった。

わたしがこの戦いに興味を持ったのは、2004年の中越大地震で被災した集落に復興の応援にかよっていて、その集落の90歳の長老がインパール作戦の数少ない生き残りであると聞いたからだ。何回か話を聞き取って書きとめるオーラルヒストリー作りをした。

戦争名人のゴルカ兵を相手では、いい加減な作戦で出かけていった日本軍には勝ち目はなかった。そのころの日本人は知っていたかどうか、インドや東南アジアの英領でネパールの民族と日本は戦ったのだった。

2-4 不安定な政治

ネパールは政治的には、南がインド、北が中国というアジアの両大国に文字通りにサンドイッチされていて微妙なこともある国らしい。

20世紀半ばまで鎖国していて日本と同じに植民地にならなかったが、インド宗主国のイギリスと関係が深くならざるを得なくて、一時は戦争もしたらしい。

「ネパール全史」という分厚い本がある。ざっと読んでみたら、権力者たちの切った張ったの政治争いの歴史が何度もあって、まるで戦国時代の講談活劇みたいである。

13世紀からカトマンヅ盆地にはネワール族のマッラ王朝が栄えていたが、今見ることができる世界遺産の旧王宮や寺院などの歴史的建築はその時代の遺産が多いそうだ。17世紀半ばに西からゴルカ族がやってきてシャハ王朝が取って代わり、ネパール全土の統一を果す。その王朝はつい3年前までつづいていた。

18世紀半ばに王家で大虐殺事件があって、ちょうど日本の徳川家みたいなラナ家が台頭して、その後の1世紀を王に代わって専制的に牛耳ったそうだ。

1951年の国王クーデターによる王政復古は、イギリスの裏支援だったらしい。その後は不安定ながらも開国して民主化の道を歩んできたが、2001年にはまた王家で大量虐殺事件がおきて、王の弟が即位した。

1996年からマオイスト(共産党毛沢東派)が台頭して急進派が政治を左右するようになる。2005年から国王のクーデターや内戦などを経て、ついに2008年には王政を廃止し、共和制となった。

だが、政治的には小党分立で不安定、首相や大統領の選出は紆余曲折がつづき、新憲法はできるかどうかも見えず、官僚や政治家の倫理的腐敗もあるらしく、決ることも決らないらしい。

カトマンヅ日本語学院での文化交流会があったが、ちょうど日本が東日本大震災でてんやわんやの状況の時だったので、あるネパール人がわたしに皮肉っぽく言った。

「日本は自然災害の国だけど、ネパールは政治災害の国なんですよ」

第3話 ネパール400kmバス旅に興奮した


ネパール政治概史

・紀元前6世紀 釈迦(仏陀)がルンビニで生誕、北インドに教えを広めた

・紀元前3世紀 アショーカ王が南ネパール巡礼、仏塔を建立

・4世紀 ネパーラー王国リッチャヴィ王朝が成立

・9世紀 デーヴァ朝

・13世紀? カトマンヅ盆地バクタプルにマッラ朝、ネワール文化繁栄

・1450年ごろ バクタプルからカトマンズ王国独立

・1619年まで パタン、カトマンズ、バクタプル三王国並立時代

・1769年 ゴルカ王プリトゥビ・ナラヤンがカトマンヅ攻略、ネパール統一、シャハ王朝時代

・1814年 1816年 ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)

・1846年 宮廷内虐殺事件、ラナ家世襲専制時代

・1914年 連合国として第一次世界大戦に参戦。

・1939年-連合国として第二次世界大戦に参戦。

・1947年 ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。

・1949年-ネパール共産党結成。

・1951年 トリブバン国王クーデター、王政復古、立憲君主制、民主化

・1955年 マヘンドラ国王即位

・1956年 日本国との外交関係を樹立

・1959年 初の総選挙、ネパール会議派が政権

・1960年 マヘンドラ国王クーデター、政治活動を禁止

・1962年 パンチャヤット制、ヒンドゥー教国教化

・1972年 ビレンドラ国王即位。

・1990年 パンチャヤット制廃止、民主化運動、新憲法制定、ネパール会議派政権

・1996年 マオイストが人民戦争、ネパール内戦

・2001年 ネパール王族殺害事件、ギャネンドラ国王、混乱状態

・2002年 ギャネンドラ国王クーデター、国王親政

・2005年 絶対君主制を導入、非常事態宣言(実質上の戒厳令)

・2006年 内戦終結、民主化運動

・2007年 連邦民主共和制の暫定憲法、暫定政府

・2008年 ネパール制憲議会、連邦民主共和制、王政廃止、連立内閣

・2009年 連立政権崩壊、暫定憲法のもとで暫定政府、政治的停滞

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旅先でであったネパールの人々


ネパール民族とカースト分布図


カトマンヅ盆地


カトマンヅ市街:中央を左右に横切るのが市街の外郭のリング道路で、これを越えてスプロールが進む


ネパール地勢区分図


ネパール植物帯垂直分布図


ネパール全図


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