第3章 激戦・満州事変(2) 万里の長城戦

1.界嶺口の戦闘開始1933年3月15日~

●界嶺口第1次総攻撃

日本軍の戦略的には、河北省と熱河省の境界線である万里の長城線を日本軍が制覇することで、河北省から満州の一部とする熱河省に侵攻する。中国軍の張学良の軍隊を排除する目的であった。張学良から言えば、元はといえば熱河省は自分の統治エリアだった。

ただし、「別命ある場合の外、河北省内に措いて作戦行動を実施することなし」(2月10日関東軍武藤司令官「熱河経略計画」)として、関内と称する長城を越えた河北省には、原則として侵攻しないこととした。

万里の長城は城壁であるから交通の要所に関門が設けてあり、そこには警備の中国軍が詰めているから、ここを日本軍は突破して河北省に攻め込もうとするのである。

3月15日からは万里の長城の関門のひとつである界領口付近に第1回総攻撃である。16日まで激戦が続き、ついに日本軍は界嶺口関門を占領した。

三月十八日 長城線は銃砲声盛んに聞こゆ。敵前にて本隊の到着を待つ。四十聯隊には続々死傷者が出ているらしく赤十字軍車が界領口に向う。一間半程の温突室に十三名寝たが、とても苦しく寝れなかった。

三月十九日 界領定家は敵砲弾落下し車両危険の為、界領上に後退し、休養の後攻撃に移る目的との命下る。午前十一時半本隊義邱よりへとへとになって界領上につく。

三月二十日 本部直接警護につき、残月西にかたむき遥かに銃声を耳にし、戦場の夜は物凄し。故郷を離れて幾百里、独りぽつねんと歩哨に立てば、過ぎにし日のことども脳裏をかすむ。

三月二十一日 今日は武器被服の手入れ。久しぶりに服を脱ぎ「シラミ」を取り、洗濯してさっぱりした。芋穴捜しに二、三時間まわり、ようやく山腹に見出し、それ出せそれ出せと引き上げ、蒸して食った食った。皆腹いっぱいだ。正午ごろ友軍機が三、四機来て爆弾投下したらしい。補給自動車が十数台ついた。自動車が通るようになったらもう安心と皆喜ぶ。

三月二十二日 今日は珍しく雪が降った。宿舎の前の雪を外に担ぎ出し、綺麗に掃除した。こんなにきれいにしたら明日は出陣だと言っていたら、案の定明日は出動の命令が出た。正午ごろ前方の山に登り敵の迫撃砲を練習発砲してみた。

3月23日に第2次総攻撃を開始、24日の正午過ぎに長城の南の全陣地を奪取したが、関内不進出の訓令を守って日没と共に再び長城線まで戻った。

通信兵らしい記述は、旅団と聯隊間の電話が不通となり、真直たちの班(構成班と書いているから電柱を立て、線路を張って行く担当だろう)が保線に出て、真直が断線箇所を発見して応急修理したとある。

●界嶺口第2次総攻撃

三月二十三日 今日は第二回総攻撃。第十聯隊は中央部隊、第四十聯隊は右翼部隊、第二三聯隊は左翼部隊として進撃を開始する。午後二時本隊より先に界領定家に在る旅団司令部に至り命を待つ。聯隊本部主力は午後七時半界領上出発し、10時半到着。それより夜暗に乗じ険悪な坂を登り午前三時四十分第二十望楼に攻撃を開始し、岩をよじ登り長城を乗り越え、漸くにして之を占領す。次いで二十一・十九と左右を占領し、第二線陣地に突進す。

こうして界嶺口は占領したが、関内には進出しない方針であったので、3月17日にはまた長城の北の集落に戻ったところ、敵逆襲の報が入りまた長城近くに引き返して戦闘となる。

この戦闘が真直の一番の山場で、最前線で命を賭けた戦いで日記でここが異常に詳しい。その日の全文を載せたが、もちろん後に書き直していることを考慮して読まねばならない。

これまでに調べた熱河作戦の資料には、ほかの長城関門の争奪戦は出てくるが、この界嶺口の戦闘の記述資料は新聞記事のほかは見つからない。この3月15日には、苦戦した西部の長城関門の古北口が日本軍の手に落ち、長城の喜嶺口も苦戦したが占領、省都の承徳も占領して、関東軍の熱河作戦は一応の終了が喧伝された時期にあたる(『日中戦争2』177p)とされるが、まだ各地で戦闘は続いていた。

●敵逆襲

三月十七日 我が通信隊も車両を引き、二十余里を義邱口に向って出発、午前七時馬圏子につく。昼食せんと飯盒の蓋を開けたばかりの処に、伝令が飛んできて界領口が逆襲され、一部奪回されたたから直ちに引き返すべしとの命により、午後九時半界領定家に急行軍に到着す。ここも敵の迫撃砲弾が打ち込まれ、四十聯隊の兵2名が負傷し、酒保の人が死んだとのこと。

三月十五日 今日は午前中諸準備を整え、赤飯を食って馬圏子を出発し、二里程前進すれば、すぐ前面に長城が峨峨と聳えている。

山脚の聯隊本部と第一線一大隊本部との間に通信網を張る。峻険にして高く登れなかった。敵弾は身辺にようしゃなく落下する。前面に機関銃陣地を、後方百米ぐらいの処に山砲陣地を左右に敷設し、明払暁を期し準備する。

三月十六日 午前二時聯隊本部は参上に進出す。三時頃機関銃火蓋を切る。敵も応戦す。

午前五時砲撃の命下り、砲声山谷に轟きものすごし。敵の銃砲弾も次第に激しく飛来し、ヒューヒュービュンビュンと生も死もない、只進撃だ。

飛行機一機七時頃飛来し界領口関内を爆撃し、ごう然たる音響と共に土煙あがる。我が砲弾も目標にあたる。

斯く大激戦6時間にして、さしもの十九路軍たじろぎだした。ここぞとばかり前進の命下り、『通信隊長殿、大隊本部について前進します』『よし行け』とビュンビュンと飛び来る弾の中を猛虎の如く電線を延線す。

山腹に平蜘蛛のように停止した時、頭上に一大音響がした。耳はジーンと聞こえなくなった。黄いろい煙が立ち上がっている。敵の山砲弾が破裂したのだが、運よくあたらなかった。

やれやれと思う間もなく前方後方と六、七発炸裂し、又地中にもぐりこんだ。続いてヒュンヒュンといやな音を立て迫撃砲弾が後方本部のほうへ飛んだ。六三部隊の機関銃隊長が戦死され負傷者も出た。

右翼隊の四十聯隊は、ピラミッド山・傘山方面の十三・十四・十五・十六・十七・十八・十九・二十・二十一と長城の望楼を占領し、日章旗を翻し突撃する。界領口関門右山上に押し迫る。敵ももはやこれまでと思いしか退却しだした。

ここに総攻撃の命下り、山を脱兎の如く攻め下り、界領口めざしてしゃにむに進撃し、午前十時占領、望楼高く日章旗は旭日に輝いた。

それより界領口城内を掃討し進撃戦に移ったが、我が構成班に線がなくなった為、他の構成班にゆずり、撤収のやむなきに至る。進撃の時は無我夢中だったが、足を引きずりながら険峻を登り降りして漸く正午頃完了した。

途中山腹にて『命の弾』の敵砲弾をおそるおそる掘出して記念に持ち帰った。昼飯はしみつき缶詰は凍り付いていたが、とてもうまかった。

界領は八、九十戸程の部落で、二、三人の支那人が残っていたのみだった。長城は三丈あまりの高さで、黒煉瓦を積上げたもので、その上は道路の様で2間幅はゆうにある様でした。関門付近は鉄条網を五重にも張りめぐらしていました。

界領口関門は、満州ではなく支那との国境であるため、仕方なく界領定家に一時半引き上げる。

義邱口関門を攻撃中の第二大隊苦戦との報に、午後三時聯隊は救援に向う。この日戦闘の際、聯隊本部に居た写真屋さんに迫撃砲があたり戦死したため、その後の写真はとれなかった。

3月27日に関東軍司令官武藤大将は、界嶺口の西にある冷口から長城を越えて関内に進出して、その南ある石門塞を占領する命令を出した。

長城線から南に更に戦線を広げることにしたのである。

これは熱河省は満州領域だから国内問題として熱河作戦で長城以北を守るという、中国側から見れば勝手な大義名分だが、それからも外れてついに中華民国内に足を踏みいれた。

ここで新たな段階へと入ったことになる。

真直たちの軍は、その冷口からの戦いを支援するために4月9日から長城戦を越えた南地域の高地で苦戦しつつ進み、界嶺口南方約24kmの抬頭営付近に進出した。

先頭部隊は4月13日に抬頭営に入城し、真直らは14日早暁に着いた。

四月九日 午後七時宿営地出発、界嶺定家の難険をこえ、過日大戦の闘われ漸く占領の界嶺口関門に九時到着、明日の戦闘を待つ。前方千米の花庄、岩山、一二三四五六起点、四六八高地には敵、強に陣地占領しており、盛んに銃声は聞こえる。左右千米程の一二、十三、十四、ピラミッド山には敵陣地、我々は二十八砲楼より敵前五百米程の所に架設す。

午前零時総攻撃開始、天もとどろく銃砲声、我は右翼隊だ。六三三九、共力中央隊は野砲、山砲、左翼隊は四十聯隊猛撃、敵は二團二万からの兵力、我が十聯隊は百人内外四ヶ聯隊で五百名内外、四十聯隊は一ヶ中隊戦死傷者続出の為、中隊長以下十八名と苦戦の程御推察の別残地図を示し、現地を紹介す。我が聯隊前面では歩十六旅にして四百有余が四六八高地に居り、これより迫撃砲弾盛んに発射し、我が砲撃にも屈せず前進困難にて、其のまま夜に入る。

十一日 には飛行機の爆撃にて多大なる敵に損害をあたへ、交通便なるを以って増援に自動車を以ってし、尚退却せず。

十二日 午前四時弘前第三一聯隊来援、中央隊となり白襷にて勇姿りりしく決死隊編成し、敵の難攻不落と頼む岩山を占領せり。併せて敵は左に移動し我が前面に迫る。我は益々苦戦となり、四六八を完全に砲撃し我が突撃を容易ならしむる如く、二十砲楼に歩兵、山砲を引き上げ砲撃す。我も危うく足を滑らしながら険阻なる長城づたいに電話線を架設す。敵は盛んに鉄砲を打つ。

十三日 早朝より銃声はたと止み、戦場静かなり。我が前面の四六八高地も難なく占領す

昨夜敵は携帯弾薬打ち尽し退却せり。六三,三一,四〇はこれを追撃し、赤火庄の線まで追ふ。遠く逃げ去った。午前十時我が旅団は赤火庄に集結し、台頭営に向って前進す。左右に三線、四線と陣地は強固なり。行く道の部落は我が飛行機の爆撃により、損害多大なり。道路も破壊し障害物を置き逃げている。辺りは小銃弾、迫撃砲弾散せり。我々の行く道に生き残れる部落民は、我が軍をなぐさむる為か、湯又は水を汲み捧ぐ。日章旗は戸々に掲げられるが、心からかどうか歓迎している。亡国民は敵ながらも気の毒な次第である。

午前五時台頭営に到着、ここより二里程前方には我が先進部隊は交戦中なりと、ここに二泊せり。

●撫寧、敦化

台頭営から更に南の撫寧への入城は、真直の渡満状況日記には4月16日、同じく熱河討伐奮闘記には18日とある。こうして万里の長城を越えて、河北省内部の関内へと北支といわれる地域へ戦いを進めた。

日本軍と中国軍の戦いは、日本軍が優勢で熱河省から各地で長城戦を超えて河北省に入り、長城の南地域の中国軍を掃討していった。

河北省に進入しない政府方針であったために、関内に攻め込んだ日本軍が河北・熱河省境界の長城線に引くと、こんどは中国軍が長城線に反攻することを繰り返していた。

十六日 撫寧入城。ここは大城壁をめぐらし、ここに居れば堅固なものだ。昨日五百名からの苦力により飛行場建設さる。この町は略奪に会ひ、惨憺たる有様なり。我が宿舎の主人は剣身にてなぐられ、ほおを腫らし、我につらがり涙せり。妻は連れ去られたとの由。

4月19日に関東軍命令「軍は長城以南に於ける作戦部隊を直ちに長城の線に帰還せしめ、部隊を整頓して爾後の情勢変化に応ぜんとす」が出た。

実は4月16日に天皇が関東軍の関内進出に反対の意を示したので、軍はあわてて長城線までの撤退命令を出したのであった(『日中戦争2』186p)。

真直たちの第十聯隊は、4月21日に撫寧で36名の戦死者の慰霊祭を行い、4月22日に撫寧を出発、海陽鎮を経て山海関に行軍した。

4月25日に熱河作戦に一応の終わりを告げて山海関まで行軍した。

4月26日にそこから列車にのり、途中でゲリラの襲撃にあったりしながら、29日に駐屯地の敦化に居留民の歓迎の中を戻りついた。

三月二十五日 午前六時宿舎を攻撃される。すわと飛び起きる。屋上をビュービューと壁にもパンパンとあたる。皆前の塀にピッタリとヘバリついた。塀に登って見ていた河原君が「アヤラレタ」とボタと落ちた。すぐ起こして見たがどこもやられていない。「何だ鉄兜の上をこすっただけではないか」と言うと、漸く元気になったひとコマもあった。

午前八時に中隊前の山に突撃、撃退す。旅団ー聯隊間の線不通となり、我が構成班にて保線に出て、自分が断線箇所を発見、直ちに応急修理す。今朝の敵弾にあたった様でした。この部落民の密通により大行李奪取の目的で敵襲されたらしく苦力を強問中とのこと。

2.関内侵攻1933年3月27日~

●抬頭営

三月二十四日 弾丸飛来の中を第三線、四線と落し進撃し、初期の目的を達せしが、国境を越えて占領することはできず、午後十時界嶺口上に帰る。この戦で片山金一君負傷す。

3.間島移駐、帰還1933年4月25日~

●関内作戦から停戦へ

4月末半ばから日中両国側から停戦模索する動きが始まり、英米仏各国公使に調停依頼と日中両国の非公式な接触もあった。関東軍内部では対立もあったが、調停や斡旋に強く反対した。

中国側は停戦への可能性を表明していたが、日本側は応えずに5月3日には関東軍は「支那軍に対して徹底的打撃を反復」するとして長城の南に侵攻する「関内作戦」の展開を指令した。

中国側はアメリカに積極外交をおこなって、5月16日にローズベルト大統領に侵略戦争への抗議を示す声明を出させることに成功した。これがアメリカとことを構えたくない日本側に大きな影響を及ぼし、関東軍は停戦へと方向転換した。

5月20日ごろから北支の天津から北平(北京)にかけて、日本軍が居留民保護を理由に大挙侵攻して戦場となろうとする状況を迎えようとしていたが、23日午前零時から日中両方が交渉のテーブルにつき、5時間の激しい舌戦の末に一応の停戦の取り決めができた。

その内容は、河北省と熱河省境界の長城から河北省側に入って遥かに4~60km離れた線まで中国軍を後退させ、その線を両者の軍事境界とするという日本側が都合のよい一方的なものであった。

5月23日には日本軍は居留民保護として北平(北京)に軍隊を送り込んで、中国側を威圧した。

ようやく5月30日に塘沽(タンクー)で停戦協定が成立した。

後世になって、このタンクー協定が日本の対外戦略の重要な境界点であったとして、この辺で積極対外政策を中止しておくべきだったとされる(『近代日本戦争史第三編・第4節満州国の建国と発展』河野収)。

満州事変から上海事変を経て関内作戦に至るまでの日本軍の戦死は2530人、戦傷6896人、ほかに凍傷患者1860人であった(『日中戦争2』274p)。

●間島・局子街

6月25日に、真直の部隊はさらに東の朝鮮国境に近い吉林省東南部の間島・局子街に移駐した。

間島駐留時については真直の日記に記述がないが、激戦はなかったのだろう。

満州には日本の朝鮮統治で追われた農民や独立運動家たちが流れ込んで、満州族、モンゴル族、朝鮮族、漢族のあいだで軋轢のある地域であり、これに一旗あげたい日本族が加わって、「五族協和」(満州国スローガン)とは言いがたい複雑な様相を呈していた。

間島は、特に朝鮮族の多い地域であり、朝鮮総督府の出先もおかれていた。朝鮮族の反日運動も盛んで、朝鮮独立運動の拠点のようなところであった。

神社の維持管理として、時の鐘を定時に撞くこと、神社建物群の修理、境内の日常清掃、広い山林の定期的伐採などがある。

氏子の中の有力者があつまって神社の運営をおこなう会議の総代会への対応は、もっとも重要でありわずらわしいことであった。

しかし、神社境内や建物の維持、補修、新築などにかかる費用は、この総代会が中心となる寄附によるのだからこれが神社を左右する。

後にこの総代会と対立して御前神社宮司を辞めることになる。

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真直が結婚した1934年9月に強大な室戸台風が上陸した。

高梁川が氾濫して盆地の標高約70mあたりまで水没し、土地の低いところで280センチの大浸水だった(『高梁市史』)。

御前神社は標高約100mだから無事で、多くの住民が避難してきて、新婚の母は炊き出しをしたという。

神社の仕事は、夏と秋に例大祭があり、神輿が街なかを巡り、大勢の参拝客があり、境内では夜神楽が催され、夜店も出ていた。この祭には近隣の神社の神主も応援にきていた。

参拝客をもてなすために、家の中は近所の女性たちが料理手伝いにきていた。表の仕切りは真直、母は裏の仕切りをしてなかなか大変な仕事であった。

正月には大勢の初詣客があり、父は祈祷に母は接待のために忙しい。

氏子で誕生した子どもは宮参り、そのうちに七五三詣で、そして結婚式、厄除け祈祷、還暦や喜寿などの祝い事、あるいは地鎮祭や棟上式など、神社での祈祷やら出かけたりして鎮守の神社として昔はあれこれと神主の出番が多かった。

2月に田中さめ、つまりわたしの母となる人と結婚した。高梁川を隔てた対岸にある落合町近似(ちかのり)の人で、順正女学校を卒業して東京に行儀見習い奉公に出ていた。 母は結婚前から真直を知っていて、実家にきたこともあると言っていたが詳しいことは分からない。

1935年2月19日に初めての子の英子が生まれた。

この頃カメラを買ったらしく、たくさんのスナップ写真があるのは今どきの親と同じである。

平和な日々がすぎて行き、1937年5月5日には2人目の子・美徳、わたしが生まれた。

●神社の仕事

1920年には日本軍が間島に出兵して民側約3000、軍側6~800の死者を出す事件、1931年には万宝山事件で中国人と朝鮮人の対立(長春郊外の万宝山で朝鮮農民の水路を中国人が破壊。日本は中・朝両国民の離反を煽って大々的に報道。平壌、仁川などで中国人街に対する暴動発生)、32年にも朝鮮族弾圧事件など、吉林省は朝鮮族を巡る事件が多いところであった。 この1933年5月に、新京から東へ敦化までだった鉄道が、更に東に180km延伸して図們まで開通した。図們から南に100kmも行けば朝鮮との国境だから、この鉄路開通で多くの朝鮮族や日本人の一旗組も入ってきていた(『満州国の新動脈敦図線を試乗す』大阪毎日新聞 1933.4.28、同4.30)。

移駐当時この地方には共産党の勢力が強く、間島ソヴィェト地域を構成していた。しばしば日本軍に対してゲリラ戦を行なっており、第十聯隊はその対抗戦力増強のために移駐したのであった。11月にソヴィェト地域に掃討戦を行なっているので(「岡山郷土聯隊史」)、真直も参加したかもしれない。

通信兵は、本隊での勤務もあった様子は写真で感じられるし、界嶺口での戦闘を思えば特に危険なこともなくて日記に記すこともなかったのであろう。

真直は12月に帰国となったが、聯隊は次の年の5月まで駐留していた。

真直の間島にいた間にも情勢は変りつつあった。中国内部では蒋介石の国民政府軍と毛沢東の率いる共産党軍が両方とも日本軍とたたかいつつも、互いに内戦を続ける状態であった。10月には中国共産党軍約10万人が、後に長征といわれる9000km、2年間にわたる大移動を開始した。

日本国内では、5月に京大滝川事件がおこり、7月には右翼クーデター未遂事件など、キナ臭くなってきている。

●帰還、除隊

年末になって真直は兵役を終えて交代要員と替わることになり、ついに岡山への帰還の時が来た。

1933年12月15日に間島局子街から西に向って列車で出発、新京、奉天を経て南下し、18日に関東省境界を越えてここからは日本植民地である。

19日大連港を出航し、2月1日出発以来11ヶ月ぶりの12月25日に岡山の屯営に帰着し、真直は歩兵第十聯隊留守隊第二中隊に編入された。

次の26日に上等兵になり、除隊となった(軍歴書)。その日か次の日には高梁(たかはし)に戻ったであろう。

平時では2年間の服役後に上等兵になることも難しいことだったらしいが、真直の場合は戦時で3年目だから特に出世が早くもない。除隊で営門を出る直前に上等兵になるのを「営門上等兵」と揶揄した。

兵隊としては現役兵が終わって予備役兵となり、これは戦争になると随時に召集される身分である。事実、真直はこの後2度も召集される。

岡山第十聯隊の熱河作戦に参加した将兵は3075名で、全て2年兵以上の現役兵であった。そして戦死者は190名であった。

戦傷病者は死者のおよそ3倍とされるから戦死傷病者をあわせて約800名の多きに達した中で、わが父・真直は無傷で帰郷したのであった。

4.束の間の平和

●結婚

父の遺品の中に自分の葬儀用のために作成した「誄辞」がある。神道の葬儀で神官が死者の霊に奏上する弔辞である。そこにはこの帰還後から次の召集までを次のよう書いている。

昭和九年一月八日高梁市御前神社の宮司に任命され、社務に励まれ、その年二月九日に川上郡落合町近似の田中升之丞の三女田中さめと結婚し給い、妹背の仲も睦まじく昭和十年二月には長女英子誕生し、昭和十二年五月には長男美徳氏誕生と、家内は春風の長閑けく照る月の円満に過ごし給いけるに昭和十三年支那事変勃発して、再び召集令下り、・・・」(誄辞)

真直は1933年12月に中国戦場から帰還し、1934年1月から正式に御前(おんざき)神社の社掌として亡き鹿太郎の跡継ぎとなった。

この年、戦争協力の賞として満州建国功労賞、勲八等白色桐葉章及金弐百四拾五円、満州事変従軍徽章等を受けている。