第6章 電気自動車が分からん

電気自動車は地球環境を救うものなのか

2008年5月からい年間、横浜国立大学に週2回通って、各1コマの講義を聴講した。

外部評価モニターなる制度があって、大学も外から評価を受ける時代になって大変である。その評価する側の立場になってみたのだが、実のところまだよく分からない。

2コマのうちにひとつは、「地域連携と都市再生」なる科目で、学生は1年から4年生まで聴いている。

もうひとつは「地域経済学」で、こちらは評価対象ではないのだが、機に乗じてお願いして、中村鋼治郎先生の講義を聴講している。これまで地場産業を生かす街づくりの現場で仕事をしてきたが、その理論はこうなのかと、改めて思うことが多い。

さて、ある日の「地域連携と都市再生」で、神奈川県の電気自動車の開発と普及に取り組む官民共同団体の方をゲストにして講義だった。

電気自動車とは要するに電気モーターで走る車で、エンジンの代わりに電池を積んで、ガソリンスタンドの代わりにコンセントで充電する。エネルギーと地球環境対策として導入しようとしているのだそうだ。

自動車の技術的なこともよく分からないが、それよりも本質的によくわからないことがある。

自動車を動かすエネルギーは、自動車の台数が変わらないとしたら同量が要るはずだ。そのエネルギー源をガソリンから電気に変えても大丈夫なだけの発電量があるのだろうか。

そして、その源の発電を石油を燃してやっていては意味がないから、風力か水力発電にするのだろうか。それだけ開発余地があるのか。

そうではなくて、すべて原子力発電に変えようとしているのだろうか。でも、安全性も廃棄物問題も解決しないままで 、これも開発余地があるのか。

電気自動車になっても自動車を動かす限り、環境やエネルギー問題の基本的な解決にはなりえないような気がする。

自動車産業のような世界企業は、地球規模の環境対策に対応しなければ、国際的に生き残れない時代となりつつあるが、官民共同の開発普及プロジェクトは、官が絡む限りは環境問題に名を借りざるを得ないが、実は自動車産業の生き残り策に官が手を貸しているような気がする。

それと、電力産業の原子力発電の促進にも手を貸しているような気もする。

コンセントで電気をとるシステム の電気自動車はなんだかうさんくさいと思ったが、ほかに自家発電型の燃料電池で走るシステムもあるらしい。これも水素を作るエネルギーが要るので難ありとか。

いずれにせよ、自動車そのもののもたらす本質的な社会問題(例えば都市拡散による高齢社会や環境問題)に目を向けて、その総合的な展望を持っていないと、特定大企業の生き残り開発競争に官側が税金を使ってはまりこむおそれがある。

それにしても、自動車に限らずなんでも石油漬けの今日では、毎日食っている日本の米だって、農業機械や農薬や肥料などで石油の産物だそうである。「1キロカロリーのお米を作るのに石油を2.6キロカロリー使う」という記事を読むと、先が思いやられる。

電気自動車の開発もそれはそれで結構なことだが、その前に石油生活をナントカしないと、つまり自動車を減らすほうが先であると思う。

このような疑問が晴れないままに、聴講レポートを出すことになり、それが次の一文である(小見出しは省略した)。

電気自動車に税の投入は適切か

ーかながわEV普及推進への疑問

神奈川県は、県内にEV関連産業や大学が集積しているので、環境保全政策のひとつとしてEV普及推進に取り組むとして、2006年9月に「神奈川県電気自動車(EV)普及構想」(市販後5以内に県内3千台普及)を全国の自治体に先駆けて発表した。

その延長上に、同年11月に産学公からなる協議会を設置し、EV開発普及の活動をしている。

協議会は、神奈川県内の自動車メーカー・電池メーカー、電力供給者、ユーザー企業、大学研究者に加えて、公共セクターの国・県・市が参加している。

その目的は、「産学公の連携により、地球温暖化の防止、石油依存度の低減、都市環境の改善をはかるため、2014年度までに県内に3千台の電気自動車を普及させること」(協議会発行パンフレット)として、EV開発技術、充電インフラ整備、普及インセンティブ策について2006年から協議をはじめている。

EVは炭酸ガスの排出量がガソリン車の4分の1(発電排出も考慮)、騒音も低減、省エネルギーとなり、家庭の電気でも充電できるので便利で、しかも電気代はガソリンよりも安いという。店舗や病院内、住宅内に乗り入れるライフスタイルも提案している。

現段階ではEV技術開発は市場に対応できる商品として完成しておらず高価格であるため、初期需要創出のインセンティブとして公共セクターにEV率先購入や税の減免や補助金支給等による助成制度の整備を求めるとして、環境政策を進める国県市はそれに積極的に応えようとしている。(本件は、同協議会事務局の杉江氏からレクチャーをいただいた)

協議会メンバーは、EV開発企業等(自動車2、電池2、電力1、大学工学系研究室3)、車両ユーザー企業(損害保険、中小企業団体、レンタカー協会、NTT東)、公共セクター(環境省、県、県市長会、川崎市、横浜市)の3種に大別できる。

これを見ると、神奈川県におけるEV関連企業による産業クラスター(M.E.ポーターによる)が形成され、国際競争力のある地域経済振興のひとつのモデルといえる。

技術と市場開発に目が向きやすいこの産業クラスターに、地域社会への新たな視点があるとすれば、公共セクターの環境行政当局を加えて地域環境政策との連携である。

成熟期に入った日本を含む先進国では自動車販売台数は停滞漸減傾向にある一方で、自動車産業は勃興するアジア諸地域で今後の大市場を期待している国際状況にある。

激しい国際競争の市場展開とともに成熟した国内市場にむけて環境対応という付加価値のある新技術車で買い替え市場を狙う産業界と、地域有力企業の存続による地域再生と環境政策の展開を意図する自治体が、地域社会での産業政策と環境政策の連携として浮上している。

エネルギー資源の枯渇や価格高騰、排ガスによる大気汚染と温暖化問題、そして自動車がもたらした20世紀の都市構造の諸問題が明確になってきて、自動車交通に頼る生活圏の見直しも、人口減少と超高齢化する21世紀日本の地域再生の大きな課題である。

そのようなときに、この協議会に国や自治体がいずれも産業政策部門ではなく環境政策部門として加わっていることに、その地域社会における今日的な意義を見ることができる。

地域連携の視点からの意義は、県内の多様な産学公の団体が連携して21世紀の環境対策へと動くことで、地域の産業と生活に活力を再生することを高く評価して期待しよう。

20世紀後半からの急激な人口増加による都市の拡大の必要性と、工業化の先端を行く自動車産業の進展とがマッチして、自動車の急激な普及で都市圏はスプロール的に拡大したが、今は人口減少時代となって都市縮退の時代に入った。

都市再生の視点からの意義は、これらを踏まえて「都市環境の改善をはかるため」(協議会パンフ)の方策をEV関連企業側からの視点のみでなく、地域の生活者の視点からの提起も期待する。

EVの開発に関しては産業クラスターとして動きはひとつの成果であるが、EVの普及による大気汚染や都市環境の改善も、その成果を見るにはまだ数十年が必要であろう。

むしろ問題点と課題のほうが多い。大気汚染、エネルギー消費、人身事故、都市拡散による自然破壊と地域活力停滞等の都市問題は、多くを自動車に起因する社会的費用となっている。

EVそのものは排ガスセロとしても、発電量増による排ガスと原電核廃棄物増、買換えによる古車処分、EV製造、現インフラ廃棄、新インフラ投資等による環境負荷増を見込んでも、なおEVは本当に有効なのか。

環境問題起因者にその解決策として公共セクターが税投入できるか。

ポスト工業化と人口減少時代に大量の自動車が必要か。

これらのわたしの疑問に対して協議会やその他の関連資料では、納得ある回答を見出せない。

産業クラスターとして、縮小する自動車市場をEV新技術によって回復を図ろうとする供給者側の事情が見える中で、行政からの税投入のインセンティブを環境政策として求めるならば、EVと環境政策が本当にマッチングするのか。

産業側の論理だけでない都市問題までの広い視点で、その蓋然性を県民市民の理解できる説得性をもって示すべきである。

産業クラスターに行政の環境政策が関わる動きならば、民と公の境界にある「新しい公」のあり方として、「新アジェンダ21かながわ」ビジョンに則り、消費者あるいは生活者たるユーザー、環境問題専門家、環境・まちづくりNPO等も参加し、脱工業化する21世紀の人口減少社会におけるモビリティを構想し、自動車の普及がもたらした地域社会の基本的問題を検討することから「都市環境の改善」に取り組むべきである。

(注:本論は横浜国立大学『地域交流科目』教養教育科目の「コア科目・地域連携と都市再生」2008年度前期講義への外部評価モニターレポートとして提出した)

オレにこそエコ補助金よこせ

もう、怒ったぞ、自家用車に乗らないわたしに税金(補助金)をよこせ。

新聞(2009年6月6日、朝日、東京版)を見ると、三菱自動車が電気自動車(EV)を売り出す記事がある。

なんだかもてはやしている感があるのが、気に食わない。

「発電過程時などを含めても排出量はガソリンの3分の1」ですみ、「東京電力の試算では全ての乗用車がEVになると日本の炭酸ガス排出量は8%減少する」とある。

本当だろうか、根拠を知りたい。

EVの生産、買替え廃棄車の処理、原子力発電の廃棄核物質の処理(処理方法がないから未来にツケを送っている)にかかる排出やコストを計算した上でのことだろうか。

あちこちの関連ウェブサイトを見ても、それが具体的に分かるものはない。製造業者や政策担当者は、それをぜひとも示してほしいものだ。

一番気に食わないのは、その三菱のEVは460万円のところを、例えば横浜市で買うと国と県市補助金を合わせ240万円も出るので、220万円で買うことができると書いてあることだ。エコ政策らしい。

これってホントかよ~、おい、でもこれってホントならずいぶんおかしいぞ。

だって、自家用車を持たないで、普段は歩くか電車かバスに乗るわたしが一番のエコなんだぞ、おれに240万円よこすのが当たり前だろ、何でくれないんだよ。

220万円も払える金持ちの個人の所有物に税金をやってどうするのだよ~、わたしのような貧乏人で自家用車にも乗れない者には、大大大不公平である。

憲法89条違反だぞ、、、でも、オレにもくれたら違反じゃない、低額(定額だったかしら)給付金みたいにね。

そこのけお車様が通る

電気モーター自動車とか電気ガソリン併用自動車とか、要するに電気モーター走行自動車がもてはやされつつある。

そこには排気ガスがない(これは疑問であるが)とか、騒音がないとかの利点があるそうだ。

2009年8月6日の朝日新聞社会面に「静かすぎ車 音出す実験 電子音・擬似エンジン音・・「わかりにくい」多く」との見出しの記事がある。

電気モーター走行の自動車が歩行者のそばにやってくるとき、騒音がないので歩行者が気づかないので危険であるから、気がついてよけてくれるように、安全のために騒音をわざと出すのだそうだ。

全くもって世の中には、とんでもないバカなことを考える人たちがいるものである。

だって、自動車の騒音が深刻な社会的公害問題であることは明々白々であり、自動車のほうが歩行者よりも絶大に強くて加害者になることも明々白々であるのに、この記事はそのどちらも否定しているのである。

国交省の委員とかの意見として「音だけで車だとわかり、、、」と、騒音発生を肯定し、音を出して歩行者がよけることを前提にしているのである。

絶対的に強い自動車のほうが注意して歩行者を回避するべきが前提なのに、その逆を前提にものごとを考えている。

自動車が歩行者を回避できないときは、停まればよいのだ。そして窓から首を出して、「恐縮ですがそこを通してください」って言いなさいよ。

刃物を振り回しているヤツの刃物を取り上げるのじゃなくて、振り回すと刃物から音が出るようにして、近くにいるものが逃げやすいようにしようって発想である。

バックしてくる自動車が「バックします、注意してください」と、甲高く機械発音するのがいつも癪に障る。注意するのはそっちだろうが。昔々、京都で路面電車がはじめて走ったとき、電車の前を「電車が来ます」と大声で言う先触れ人が走ったそうだ。

「そこのけそこのけ車が通る」思想は、抜きがたい20世紀型発展神話として、日本人の脳裏に植えつけられてしまったのだろう。 頭の中はいまだに発展途上国である。

そういえば、60年代に自動車が普及し始め頃、車を運転するヤツはやたらとクラクションを鳴らしていたものだ。日本が発展途上国の頃、自動車が発展神話の象徴だった。今は中国だろうか。

電気自動車の出現で空気がきれいになるというのは嘘でも、騒音はなくなるのは本当らしいと思っていたら、なんとわざわざ騒音発生装置をつけるんだとさ。

それがいかにも歩行者の安全のためにというおためごかしの理由で、、、バッカジャナカロカ、、、静かに走って自動車のほうで気をつけてよけろよっ!。

そのうちに携帯電話の着信音みたいに、それぞれ自動車ごとにてんで勝手な音を出して、そこのけそこのけって走るんでしょうな。、、、いやだいやだ。

出て来い鰤臼設計者

奴与太自動車の鰤臼なる電気で動く新車に仕込んだコンピューター制御に誤りがあり、ブレーキ踏み込みへの反応が遅くなって、普通よりも停止が数メートル先になるので危険だとて、リコールをすることになったそうだ。

そうは言われても自動車運転しないわたしには、どうもよく分からない。

ブレーキかけたらすぐ停止、それが原則だろう。なのに、コンピューターに任せておけばいつか停まるだろうっていう時代になっているらしい。つまり人間の運転能力はコンピューターの後回しされているってことである。

もう、人間の運転能力は問われないらしい。これは怖いことである。わたしたちはいつのまにか、機械が支配するSF的世界に入り込んでしまっているらしい。

そうやって機械が支配するのならば、その機械を設計した人、つまり今回はコンピューター制御システムを仕込んだ人たちに重大な責任がある。

それなのに奴与太の社長やら副社長など素人ばかり出てきて、技術者は出てこないのはどういうわけか。会社ぐるみで技術者をかばっているんだろう。技術者は組織の中に隠れていて、それでよいのか。

車を買った客やそれに轢かれる歩行者は個人だから、なにかあっても巨大組織相手には勝ち目が無い。ところが建築の設計を見てみろ、あのアホの姉歯建築士でさえも責任とらされたではないか。

それなのに2009年に20万台も世界に売った疵物の設計技術者が出てこない、社会的責任を取らないって、自動車産業の世界は奇妙奇天烈である。

わたしにこれをいう資格があるのは、そのブレーキのきかない自動車ではねられて死ぬ危険性を、今日も明日も歩く道で抱いているからである。

轢き殺される側はどうしてくれる?

世界一に成り上がった自動車メーカーのトヨタが、なんだか知らないが欠陥車を売ったとて、アメリカから叱られているらしい記事が新聞に載っている。

運転していると突然スピードが出るとか、ブレーキが利かなくて暴走するとからしい。それで欠陥商品だ、いや運転が悪い、とか言い争っていて、アメリカの国会からお呼びだし食らった社長が、とうとう「謝罪」したとある。

謝「罪」だから犯「罪」行為だったということなんだろうなあ。なんでもアメリカあたりじゃあ、謝ったほうが悪いって習慣らしいよ。

あれ?、日本の国会はどうして呼ばないのかしら。

で、気に入らないのが、車を買った客に謝っただけらしいってことだ。新聞論調も、消費者の立場で作ってるのかって口調であるのも気にくわない。あまりに一面的だぞ、その暴走車に轢き殺される側の身にもなってみろってんだ。

何の関係も無い歩行者が、道端で突然に襲ってくる車に殺されることは、日常茶飯事で起きている。それが運転過誤で起きている現状に加えて、運転者も知らない原因での襲撃も加わってきたとなると、そんな通り魔型大量殺人機械に進化されては、こちとらはどうしようもないぞ。

ついでに言えば、排気ガスによる長期的殺人装置でもあるし、騒音による慢性痴呆化促進装置でもあるぞ。

こんな殺人機が、日常的にそこいらじゅうを走り回っているのが不思議である。

もしもこれまでに世の中に自動車がなかったとする。そこに突然、こんなものを発明しました、超便利だがこんな害毒もあるってわかって売り出すとなると、はたして世のに受け入れられるだろうか。

自動車は長い年月をかけて徐々に既成事実を積み上げ、素人も使うことができる殺人機であることをデファクトスタンダードとして世に公認させた稀有な商品である。

それには戦争という天下公認の殺人ごっこが、大きなドライブとなったことを忘れてはならない。特に第1次世界大戦(1914~18)では、自動車が兵器として大きな役割を果たし、その後の普及を促進した。

殺人機であるからこそ、厳重な法的規制がかかっている。運転免許という国家が運転を許す仕組みがその最たるものである。

とにかく、わたしもあなたも、この殺人機に、今日か明日には轢き殺されるか、排ガスで喘息窒息死するかもしれない運命にあるのだ。

メーカーもマスメディアも、轢き殺される側の視点が欠けている。

とりあえずやるべきことは、法律を変えて運転免許を厳格なる審査を経たプロフェショナルにしか交付しないこととせよ。ド素人でも殺人機を運転できる今の制度は間違っている。これじゃピストル売買自由と同じだ。

2つ目は、自動車は何か異常があると、とにかく停止するフェイルセイフ設計とすること。例えば50キロ以上の速度が出たら自動的に停まるのだ。これがほんとの自動車だ。

3つ目は運転者が最も衝突リスクを負う設計にせよ。運転者がまず安全とする設計にするからスピード出すのだ。ぶつかって一番先に死ぬのは運転者にせよ。ぶつかられたこちらが安全な設計にしなさいよ。

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