高梁盆地まちづくり史年表

高梁盆地まちづくり歴史年表

作成:伊達美徳 2012年5月(2020年8月一部修正追加)

●印:筆者の生家の御前神社関係

参考資料:高梁市史(2004)ほか

775年(宝亀6年)●御前神社が、「吉備真備が唐から無事帰国できたことに対しての神恩に報い、徳に謝するために建立した」と総研の話が社殿に伝えられている(「御前神社明細帳」)

859 八幡神社創建

1004 近似稲荷神社創建

1240 有漢郷地頭の秋庭三郎重信が臥牛山大松山に城を築く。このころは高梁川は盆地の東を流れていた。城主や家臣団は東や西の標高60m以上の山腹に住んでいた。●御前神社八幡神社が松山城鎮守社となる。

1331 高橋九郎左衛門宗康が備中守護職になる。高橋であった地名を松山と改名、「高橋又四郎、実名知れず、元弘正慶頃居城の由。これまでは松山を高橋といえり。これより松山と改む」(寛政2年(1790)年版 柳井重法編著「備中州巡礼略記」)。しかしその後も高橋の地名が一部に残り、松山川は高橋川とも言われた。高橋を高梁というのは文人墨客の風雅の慣わしであり、頼山陽に1819年に「七月十五日夜高梁川に船を泛かべる」という漢詩を詠んでいる。小松山に築城。

1339 寂室天柱山安国頼久寺を開く。

1356 高越前守師秀が松山城主となる、執事は秋葉重明。

1362 秋庭三郎重明が高師秀を追放して城主となる。

1428 秋葉修理亮元明が松山城主となる。

1442 ●御前神社の今の社領が決まる:「人皇四十九代光仁天皇(中略)社領のため永代古瀬庄を当て給ふ」(「御前神社縁起1442」)。

1444(文安元)この頃は高梁川は御前神社のすぐ東前を流れていたとの御前神社神職名方宗治による「御前神社祭礼次第」記録あり。「神馬員数ノ事/従太守六疋被奉引之/従上房郡三十二疋奉引之/於神屋 二十一日 御馬揃/神輿一鳥井之前一町大川之端奉安置之御前神主奉捧神馬於鳥井之前三度引廻云々/文安元年三月中旬/名方神主/宗時 書 判」(「御前神社縁起1444年」)。高梁の町は高梁川の西側の近似地区に開けていたらしい(東側が開けるのは1500頃か)

1509 上野頼久が備中守護代として松山城に入る。

1533 矢掛あたりの守護からのしあがった猿掛城主庄為資が備中松山城を攻め落とし、上野伊豆守兄弟を討ち取り松山城主となる。松山城をめぐり庄氏と三村氏の抗争に戦国大名の毛利氏と尼子氏が介入して諸合戦はじまる。

1553 備中松山城主の荘氏が出雲の戦国大名尼子氏の勢力下にはいる。

1568 備前の戦国大名宇喜多直家が備中侵攻、備中松山城の庄高貴は敗北して宇喜多の傘下に。

1571 毛利元就の支援で成羽の三村元親が庄高資を討ち取り松山城に入る。

1574 備中兵乱、毛利軍が松山城をせめる。

1575 松山城の三村元親が毛利・宇喜多連合軍の攻撃で落城、尾根小屋は炎上、三村元親が松蓮寺で切腹、備前と備中は毛利の幕下となる。これより毛利と織田そして豊臣秀吉の覇権争いに。松山城城代は天野五郎右衛門、桂民部大輔。

1583 備中外軍を秀吉に、備中松山城を毛利氏とする妥協成立。

1594 川東地区のみ太閤検地が行われた。

1600 関ヶ原の戦いで西軍敗北、毛利領備中は闕国となる。庄氏は武士を捨てて津々村で百姓身分となり、呰部・有漢・松山へ分家を配して庄屋として農民階級のリーダーとなる。

1583 寺町に龍徳院建立。

1592 内山下に正善寺建立。

1594 和田に道源寺建立 松蓮寺建立。

1600 毛利氏が関が原の戦いに敗れて西に去り、松山領は徳川直轄領となり、幕府は小堀新介正次を備中国奉行として松山に派遣して治めさせる。小堀氏は頼久寺を整備して陣屋とする。

1602 小堀政次が備中検地を行った。

1604 小堀政次が急逝し小堀作介政一(遠州)が継ぐ、頼久寺庭園整備、ただし小堀遠州は幕府の作事奉行でもあり多忙のため、備中滞在は正月を中心とした短期間だった(「増補版高梁市史」)。

1614 小堀政一が備中松山城を修理。

1616(元和4) 小堀政一が河内国奉行に転出。この頃に川東に町:「新町本町元和二年に出来、下町・鍛冶町元和四年に出来」(「松山御城主歴代記」)。

1617(~1618) 鳥取から転封してきた池田長幸が6万5千石の大名として松山藩主になる。大勢の家臣団を配置する城下町都市計画を実行。御根小屋下の高梁川と小高下川に囲まれる地区に本丁川端丁を南北並行に設けて重臣屋敷地の内山下とし、出入りには4つの門を設ける。小高下側の南東山麓の御前丁、石火矢丁、片原丁、頼久寺丁、中之丁に家臣団上級武士の屋敷地。紺屋川の南山麓に寺町、向丁、柿木丁などの士分の屋敷地、その他軽輩足軽には中間町、鉄砲丁。武家屋敷の外に町人の本町、下町、新町、鍛冶町、紺屋町の商人町。紺屋町川を城濠に見立てて番所や木戸を設ける。紺屋町川以北の家中屋敷を上家中、以南を下家中という。家中屋敷の町名は丁(ちょう)、町屋は町(まち)と呼ぶ。池田氏の家臣団人数は約400人。

1621(元和7)●御前神社は古くは小高下泉が丘にあったものを初代藩主の池田長幸が再建して現在地に奉還。

1624 薬師院本堂建築。

1639 水谷勝隆が下館から成羽に転封。

1642 池田氏断絶、成羽から水谷勝隆が松山に転封5万石、この頃から小松山に築城、御根小屋完成、城下町整備。

1643 松山城下の継舟制を定めた、新見ー松山ー玉島の河道完成。

1650 新見まで河道を開く。

1651(慶安4年)●御前神社に城主が時鐘を設置。その時鐘銘は以下の通り

「吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億

慶安四歳次辛卯九月吉祥日

城主水谷伊勢守勝隆 敬白

冶工當国小田郡高草

惣領 彦之丞藤原守重」

1652 松山から新見まで高瀬舟が通じる。

1653 松山踊りの地踊りが始まる。

1655 明暦の大洪水で4.5mまで満水。

1657 松連寺を奥万田から現在地に移設し本堂建築。

1658 ●御前神社の時鐘制、朝六ッ、暮六ッなど報時鐘(1940年まで)。

1659 玉島新田開発、玉島築港、高梁川と結ぶ運河建設。

1664 水谷勝隆が没して隆宗が継ぐ。

1670 南町を取り立てて牛市を開く、玉島干拓新田開発による牛馬の需要増。松山は流通拠点として繁栄。南町と高梁川の間に下級武士居住地の弓之丁・鉄砲丁をとりたて。

1683 御根小屋および小松山の松山城を改築完成。

1684 松山市中に大火。

1685 鍛冶町の南に東町を取り立てて6町とし、城下町の形成ほぼ完成。

1693 家中屋敷216軒、444人 水谷家断絶。

1694 幕府が姫路本多家に命じて松山領を検地、表高5万石が11万石に、百姓も藩政も窮乏。領内人口105210人、検地による松山城下百姓5603人(男2959人、女2644人)、藩士家族1974世帯6043人。浅野長矩が大石蔵之助らと松山に入り、松山城受取り。水谷家退出時家臣屋敷338軒・338人、町家1148世帯・3597人(城下町概略世帯数1500戸・4000人)。

1695 上州高崎から転封の安藤重博が新藩主として入封6万5千石。

1711 山城国淀から石川総慶が入封。

1721 享保の大洪水で3mまで満水。

1744 石川総慶が伊勢亀山に移封され、同国から板倉勝澄が入国して藩主に、このとき2900人が松山に入国(藩士が増えて城下町人口7,000人程度か)。松山藩士子弟による松山踊りの仕組み踊りが始まる。

1746 内山下に藩校有終館を創立。

1756 城下市中大火190軒焼失。

1768 城下市中大火同心町から出火して88軒を焼く。

1793 八重籬神社創建。

1830 八重籬神社を御根小屋馬場から移して現在地に建立。

1831 学問所有終館を中之町に移す。

1832 城下市中大火鷹匠町出火して370軒消失。

1836 大洪水・長雨で不作となり餓死者多数(天保の大飢饉)。

1839 城下市中大火城下間之町から出火、600軒焼失、頼久寺、有終館、●御前神社も類焼。

1845 ●藩主板倉勝職が御前神社社殿を再建。

1849 板倉勝静が藩主、山田方谷を重用。

1850 方谷による藩政改革はじまる。

1853 大川の西に鍛冶屋町取り立て。

1862 藩主板倉勝静が幕府老中となる。

1864 長州征伐群に松山藩士も953人が広島へ出陣(~65)。

1866 ●火災で御前神社の社殿焼失。

1868 松山藩主板倉勝静が幕府老中として東北列藩軍に加わり更に榎本武揚の函館戦争に関係して明治新政府から備中松山藩は朝敵とされ、朝敵征討軍の備前池田藩に帰順して備前藩鎮撫使による統治。松山城も武家屋敷も明け渡し、藩士は川向うの高倉など3村に退去させられて、藩再興後も戻った人は少なかった。藩財政により生計を維持していた商人たちも経済的に行き詰まり他の地へ出て行ったものも多かった。後の屋敷には他の地から転居してきた人たちが入った。

1869 板倉家2万石で板倉栄二郎勝弼が再興、高梁に地名変更。

1871 廃藩、高梁小学校創設。

1872 郵便役所設置(鍛治町)。

1873 松山城が競売された。

1875 岡山県となる。上房郡高梁東村と同西村を合併して高梁村に。

1877 ●御前神社拝殿建築(現存)。

1878 高梁村を松山村に改称、上房郡役所、裁判所、高梁警察署設置、第八十六銀行設立。

1880 風水害で近似から松蓮寺下まで浸水。

1881 順正女学校開校、●御前神社本殿建築(現存)

1883 中村三平が麦稈真田工場設立。

1884 この頃、南町に芝居小屋「高楽座」。

1885 高梁家畜市場設立。

1886 風水害で3m余の浸水、死者十数人。

1889 高梁盆地は農山村部は松山村に、城下町部は高梁町となる(人口5612人、1209戸)。高梁キリスト教会会堂建設。

1893 風水害で片原丁・石火矢丁のほかは浸水、水深3m。

1895 高梁中学校開校(向町安正寺内)、順正女学校校舎建築(現存順正寮)。

1897 高梁一等煙草販売所(のちの専売公社高梁工場)開設。

1900 高梁中学校校舎が御根小屋跡に完成。

1902 荘直温松山村長が桜土手を作り花見の名所に(1940年伐採か)。

1904 高梁小学校本館建築(現郷土資料館)、高梁川沿い桜土手をつくる。

1909 この年に経木真田生産が全国の70%を占る。

1911 高梁町人口6681人、1561戸。方谷林公園設置のために近似の落合村有林を無期限貸与。

1912 高梁と湛井間に乗合馬車開設。

1914 方谷橋(木造)が架かった。

1918 米騒動が高梁にも波及し難民救済活動。高梁と湛井間に乗合自動車運行。

1925 高梁町人口6207人、1422戸。

1926 伯備南線(宍栗ー備中高梁ー木野山)が開通し備中高梁駅開業(この年の乗車人員143千人)。

1928 伯備線が全通(岡山-米子)して山陰と山陽が結ばれた。

1929 高梁町と松山村が合併して高梁町に(人口約10000人<旧高梁町6500人、松山村3500人>、約2000戸)。

1930 栄町など駅周辺の市街地が形成。

1933 南町の高楽劇場が焼けて栄町に高梁劇場を建設。

1934 室戸台風大水害で町の2100戸中1500戸浸水(床上1278、床下254)、死者26名、流失家屋54戸、倒壊家屋47戸、おおむね海抜70m以下は浸水、方谷橋流失、山際の寺社群は無事、●御前神社も避難所となり炊き出し。

1937 日中戦争に400人余徴兵、戦死者も出てこの年から松山踊り中断。方谷橋が鉄橋で再建完成。

1940 備中松山城を修復(天守、2重櫓、土塀)。●御前神社の時鐘を軍事供出、290年の時鐘の響きが絶えた(この件1944年か)。

1941 松山城が国宝指定(戦後に重要文化財に指定替え)。

1943 備北バス会社設立。

1945 神戸、芦屋から学童疎開(芦屋市精道校から御前神社に初等科6年女20名と職員1名、頼久寺に学童男女143・職員8、金光教会に女21・職員1)。

1947 全国巡行中の昭和天皇が備中高梁駅前で町民を激励。新制高梁中学校開校(校舎は当初は松山小学校、48年新校舎)。

1948 高梁商工会議所設立。

1949 高梁中学校と順正女学校を合併して高梁高等学校。

1954 5月、高梁市発足(近隣9町村と合併してとなり人口34275人、高梁市発足直前の高梁町人口12722人、3000戸)。

1955 中井村を合併、人口37030人、7340戸。人力車が姿を消した。

1959 新市庁舎完成(鉄筋コンクリート3階建て)。

1960 松山城解体修理。

1963 駅前貫通道路完成。

1967 順正短期大学開学

1969 都市計画道路高梁駅柿木町線(城見通り)着工、国道180号改良工事川端町付近で開始。

1970 高梁北・南小学校統合して高梁小学校。

1971 風水害、伊賀町の順正短大の音楽教室全壊、伯備線が不通20日間。

1972 旧高梁北小学校本館を郷土館として保存決定。高梁小学校が新校舎に移転。集中豪雨災害。国道180号を4車線に拡幅。

1973 伯備線が高梁岡山間を複線運転開始、高梁大橋架橋。

1974 頼久寺庭園が重要文化財名勝指定。

1975 都市計画用途地域指定

1977 高梁駅‐市役所都市計画街路事業第1期間完成。

1979 岡山県指定「石火矢町ふるさと村」が開村。

1983 高橋運動公園完成。

1985 国勢調査による都市計画区域人口18350人。

1990 国勢調査による都市計画区域人口18387人。大型店「天満屋ハピータウン」が盆地南端部に開業。旧城下町市街が景観もデル地区になった。吉備国際大学が開学した。

1993 景観形成基本方針を策定。

1995 国勢調査による都市計画区域人口18928人。奥万田地区地区計画決定都市計画道路高梁駅柿ノ木町線開通。

1997 岡山自動車道が全線開通。備中松山城本丸復元完成。国際ホテル完成。

2000 国勢調査による都市計画区域人口18845人、その内盆地人口約11000人。都市計画街路下町薬師寺線(花水木通り:旧牢屋小路)開通。

2005 国勢調査による都市計画区域人口18607人、その内盆地人口約11000人

(参考資料:「高梁市史」1979ほか)