ネパール400㎞バスの旅
第4話
 ネパールの人々と暮らしをかいま見る

4-1 豊かな水、汚れた水

かなり奥の山村にも電線がきているが、水力発電がネパールの電源である。基本的にはヒマラヤから発する水が豊かにその南の地域に流れてくるので、電気も飲料水も問題ないかといえば、まったくそうでないらしい。

乾季だったが川にはそれなりに水は流れていた。ヒマラヤからの水は流れ流れて南部のタライ平野に吸い込まれてインドへ流れ出すばかりで、ネパールで利用するにはそのためのインフラの発電所、ダム、灌漑、用水や水道等のインフラストラクチャの施設が不足しているらしい。

それにしても、あの天に至る棚畑の山村で電力がないのはともかくとしても、生活用水を谷底まで汲みに行くのだろうか。日本のように簡易水道が普及している様子はない。飲んだ水の出て行く排水、下水道の施設はないらしい。下水道や浄化槽がないのは当たり前だが、便所がないらしい。

牛や山羊の糞は肥料として再利用するが、人間の下肥は肥料にはしないという。それは宗教上か習慣か知らないが、そういうものらしい。日本とは大違いである。江戸の町家の糞尿は近郊農村の肥料として、汲み取り代を汲み取る側の農家が支払っていたくらいである。

バス旅の途中でトイレ休憩なる時間があったが、あるところではちょっとした岩陰や林に入るありさまだし、あるところでは公衆便所があったが、その裏にまわってみたら谷にそのまま流していた。それがどうもカトマンズやポカラのような大都市の市街でもそうらしいのだ。さすがに便所はあるが下水道はなくて、よくて自然浄化槽、普通はほぼ垂れ流しらしい。

カトマンズ盆地の街の中のところどころに、深さが10mくらいのところに5m角ぐらいのサンクンガーデン(沈床庭)のようなスペース(ドゥング・ダーラという)があって、道から階段で降りるようになっている。
覗き込むと擁壁の一角から水が出ていて、子どもや女たちが並ぶように順番待ちで水汲みをしている。そばで洗濯もしている。地下の浅い帯水層からひきこんだ水汲み場で、枯れているダーラもあり、薄汚れた水がたまっている。

街角や裏町には、直径1.5mくらい、深さ10mくらいの井戸があり、子どもがポリタンクを紐でぶら下げて水を汲み上げている。そばで女たちは洗濯しながら井戸端会議をしていた。洗濯の流した水も、また井戸に戻っているようだから、まさか飲料水ではあるまい。

カトマンヅ市街には上水道はあるが、需要に供給が間に合わないらしく、今もダーラや井戸が生きている。だが人口の急増と汚水の地下浸透で、かなり汚染した水らしい。伝染病でも出たら大問題になりそうである。

その水道も時に断水があり、そのときは地下管路が負圧になるので汚染水が入り込んでくるそうだから、旅行者のわたしたちが飲んだらたちまちに下痢である。いつも市販の700mlペットボトルの水を飲んでいたが、これが日本なら150円はしそうだが、たったの20ルピー(24円)である。わたしはうっかりしてカトマンヅのホテルの水道水で歯磨きとうがいをして、ちょっと緩んだ腹になったが薬で強引に治した。

カトマンヅ盆地の中を流れる主要河川はバグマティ川とビシュヌマティ川だが、これを橋の上から見たらものすごいゴミだらけであった。日本もかつてそうだったように、川はゴミを捨てるところになっているらしい。うろついている野良牛が食べられるものは掃除をしてくれるらしいが、プラスチックゴミはどうしようもない。

バグマティ川のカトマンヅ市街の上流には、ヒンズー教の聖地パシュパティ寺院があり、川岸にある野外火葬場から骨灰を流すのだそうだ。わたしもここを訪ねたが、乾季で少ない流水は、人間のなれの果てと汚物とプラスチックゴミが一緒になって汚れに汚れている。

末はインドの聖なるガンジス川に至るのだが、それが死者と聖者の幸福になるのだという。その宗教的な思いと現実の汚染の間には、どんな橋がかかるのだろうかと、無宗教のわたしは戸惑うばかりである。三尺流れて水清しと、昔の日本はいったものだが、今はとてもそうはいえない。ネパールでも同じになりそうだ。

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ヒマラヤから水は豊富に流れてくる
(サランコットからマチャプチャレとアンナプルナを遠望


今は乾季で川に水が少ない

カトマンヅ市内ビシュヌマティ川


カトマンヅのダーラ


パタンのダーラ「マンガ・ヒティ」


バクタプルの枯れたダーラ


バクタプルの裏街の井戸


パシュパティナート火葬場のバグマティ川

4-2 レンガの家、土の家

みたところでは、ネパールの都市での建築の主流は、コンクリート・レンガ造であるらしい。柱梁床は鉄筋コンクリートで、壁はレンガを積むのである。

けっこう高層ビルでも2階建ての住宅でも、これがネパールの現代建築構造らしい。ただし、レンガ壁に鉄筋補強は見られない。

カトマンヅのスプロールする住宅市街地ではコンクリート・レンガ造の家がどんどん建っている。さしずめ日本なら木造住宅が建ち並ぶはずだが、それは一軒もない。

なかに3階か4階建ての、どこか似たように妙に派手な建物がところどころに見られる。ガイド氏に聞くと、それはイギリス出稼ぎ帰りの引退ゴルカ兵が建てるのだそうだ。

傭兵の給料はネパールのそれとは比べ物にならないくらい高額だし、その上に年金も入るので、成り上がり的な建物を建てたがるという。

農山村では最先端はこのコンクリート・レンガ造らしい。まず細い鉄筋コンクリート柱を周囲に数本立てて、このままの状態の建築中も多い。

一階部分だけ使っていて、将来増築予定らしく2階から上に鉄筋むき出しのままで赤錆びている建物も多い。

赤錆鉄筋で柱と梁が一体構造にならないビルは構造的にはなかなか怖いものだ。

日本でも沖縄では、2階や3階の屋根の上に柱だけが建っている家をよく見たから、基本的には同じだろう。

農村の典型的な住家は、レンガまたは割石積みの壁を建てまわし、木材の梁を渡した上に波板鉄板を置き石で押さえる形である。

壁は素材が見えていることもあれば、色付きの漆喰で固めてあることもある。牛の糞を混ぜたシックイだとも聞いたが、殺菌力があるのだそうだ。

セルフエイドの建築らしいが、割り石積みの壁をよく見ると、いろいろな大きさの割石を丹念に積上げていて、芸術的でさえある。

このいわば土蔵造りの家の外に、さし掛けの庇を木材で作り、半屋外の農作業空間としている。この空間構成は、日本の農家の土蔵と庇の関係と同じである。違いは日本では土蔵は倉庫だが、ネパールでは住家であることだ。

この形が伝統的な姿だろうかと疑問に思って、バスの中からやサランコットでの遠足中に山村を注意してみていたら、農家建築の昔の形は木造に漆喰塗り壁で、屋根は草葺らしいと思わせる建物にも出くわした。

ポカラの山岳博物館の庭にも、ゴルカの住家であると表示したそのような建築を展示してあった。

壁で閉鎖的なところは日本の農村建築とは違うが、やはり草葺(茅や稲藁)葺きであることは同じで、遠目にはあまり違わない姿である。

日本ではどこに行っても木造家屋が主流だが、なぜネパールではレンガ建築なのだろうか。

ネパールは気候的に木材になる樹木がない植生の国土ではなかったはずだ。山林が棚田になった今でも、太い木材がないわけではない。薪にするらしい太い丸太が家の庭に転がっているのを、ところどころで見た。

割石積みシックイ壁の家と木材の家を建てて、どちらが立派かと聞けば、日本では後者、ネパールでは前者というに違いない。文化の違いとしか言いようがない。

4-3 なんとまあよく働く女たちよ

ネパールでは女性のほうが男性よりも平均寿命が短いと聞いた。ネットでその統計資料を見たら、男は約60歳、女はそれより半年短い(2002年, Human Developmant Report 2004)。日本とは逆である。その理由は、ガイド氏によれば男性よりも女性のほうが肉体労働を多くしているからだそうだ。

それが本当かどうか分らないが、今回のネパールの旅で、男が働く姿よりも女性が働く姿ばかりが目に付いた。都市の土産物屋や街道筋の店先で忙しく立ち働くのも、農村で山に入り芝や薪を刈りとり運ぶのも女性ばかりであった。男はなにをしているのだろうか。

丸くて深い下すぼまりの大小の竹篭(ドコという)があり、これが一般的なもの入れらしい。背丈の半分もありそうな大きなドコに、山から取ってきたらしい薪やら木の葉、あるいは田畑の収穫物を詰め込んで、これをナムロという布紐で頭で支えて背負う。日本では荷物を背負うのは肩紐だが、こちらでは額紐なのである。あんなに重そうな荷物では、首の骨が圧縮されて痛みそうだ。この大荷物を背負って道を歩くものが、ほとんど女なのである。薪の採集や野良仕事は女の役目らしい。

タンコットのホテルから下を眺めていたら、横の斜面の森でがさがさと音がする。牛かと思ったら、赤い服の女が落ち葉をかき寄せて、ドコに詰め込んでいる。稲の田植えの最中の地域も通ったが、田圃で働く人たちの姿は女と子どもばかりで、男は水牛使って代掻きをしている者しかみなかった。だからネパールでは女が肉体労働を受け持つ役割なのだと、わたしの管見で言うわけにはいかないにしても、どうも不思議ではあった。

しかも働く姿が、裾を引きずるような、あるいはひるがえるような民族衣装で、労働するには不適切なのも腑に落ちない。
そもそもネパールでは都市でも農村でも、ほとんどの女は赤が主流の鮮やかな色模様の民族衣装であるのに、男ときたらどいつもこいつもいい加減な服装なのが不思議である。なにか規則あるいは風習でもあるのだろうか。

4-4 村の子どもとミニミニ交流した

初日はカトマンヅ飛行場に着いて、カトマンヅ旧王宮と街をちょっと見てから、西へ西へとバスの旅が始まった。この日はカトマンヅ盆地の西の峠の上にあるホテル泊りである。このあたりの地名はタンコットいうが、コットとは要塞とか出城のことだそうで、王国時代にはカトマンヅ盆地のひとつの入り口を守る拠点があったそうだ。中世の鎌倉七口の切り通しのひとつみたいなものだろう。

ホテルは街道筋から横に入って、急な斜面の段々畑の集落の中の山道を登った一番上にあった。集落を睥睨する位置にあるホテルは、日本の資本なのだろうか。次の日の朝、みんなで付近の山を歩く遠足だったのだが、わたしは体調不良で早々に落伍した。
ホテルに戻って寝たら回復したが、ヒマなので目の下に見える集落の探検に出かけた。急傾斜の段々畑の中に、煉瓦や割石を丹念に積み上げて赤い漆喰で固めた壁の小さな家が散在し、赤や黄色の派手な洗濯物がひるがえる。山羊3匹と幼児が3人、珍しげに見つめつつ寄ってくる。

ためしに「ナマステ」といってみたら、手を合わせて返事してくれる。2歳くらいの女の子は、はにかんだ顔を合わせた手で隠して「ニャマ~」と小さくいう。ちょっと彫りのある顔だちで、妙にあいくるしい。また少し歩いて谷向うのものすごい段々畑の景色を眺めていたら、少年が3人寄ってくる。こちらといい勝負のカタコト英語が分る子がいて、「ユアネーム?」「ハウオールド?」などといいながら、カメラ画面の顔写真を見せたり、飛行機での残り物スナックを一緒に食ったりと、ネパール日本ミニミニ交流をした。実はわたしは子どもを相手するは苦手である。それなのに、ひとりでこのタンコットの集落の子どもと国際交流をしてきたのだ。

この集落風景は、わたしが少年の頃に見た日本の山村とそれほど違う感じはしない。だが、赤土の荒地の段々畑にろくに作物がないのは乾季だからか。多分、雨季になったらトウモロコシ、シコクビエあるいはジャガイモなどが、緑の芽を出してくるのだろう。女と子どもばかりで男は2人しか見なかったが、カトマンヅ市街に働きに行っているのだろうか。

ホテル周りの段々畑では、ホテルで使うワインの葡萄栽培をしているから、そのうちにこの集落の畑もそうするのだろうか。集落を睥睨する位置に建つホテルは、地域になにをもたらしているのだろうか。ここの人たちと比較すると金持ちの外国人観光客としては、気になることである。戻り道をのろのろ登っていると、こざっぱりした風体の若者が追いついてきた。聞けばホテルのウェイターでただ今出勤中、「シーユーレイター」とスタスタと登っていった。ホテルは就業機会をもたらしている。

4-5 ネ日文化交流でちょっと謡を

旅の最後の朝は、カトマンヅ日本語学院での文化交流会であった。そこでわたしは日本文化紹介とて、能の謡いを披露したのである。岡山から参加の方が何かなさる予定が震災関連で不参加となり、ではその埋め草にわたしがしようか、と冗談につぶやいたら、本当にやるはめになった。

朝早くから教師や生徒が講堂に大勢集っている。学院側は教師と生徒が15名、こちらは10名でにぎやかな会であった。会場に日本からの寄贈品らしいお雛さまが飾ってある。見ればどうも三人官女や五人囃子の持ち物がおかしい。思い出しつつ持ちなおさせてあげた。宝塚から参加のⅠさんが華道の紹介で生花の実地指導をなさった後を受けて、わたしの番でもうひとつ日本文化紹介だ。

わたしの謡で、冨士の高嶺ならぬヒマラヤの雪山に、羽衣をまとう美女が舞い上がっていった……はずである。能楽は日本で15世紀に生まれた武士階級が好んだ芸能で、舞踊、合奏、合唱、対話、歌のあるシリアスな「能」とコミカルな「狂言」から構成され、伝説や古典文学をもとにした鬼や美女が出てくる仮面劇オペラである、などと話しながら、同じような芸能がネパールにもあるかと聞くと、やはりあるという。

旅の2日目に、タンコットのホテルで見た民俗舞踊にそれらしいものがあったことを思い出した。シバ神が悪魔をやっつける舞踊で、悪魔は鬼の仮面をつけていた。神話マハーバーラタの舞踊劇があるにちがいない。

能「羽衣」を例に、天女と漁夫のやり取りのストーリーを話し、最後の天女が舞い上がるあたりを朗々と(?)謡って収めた。

「♪♪~三五夜中の空に又 満月真如の影となり 御願円満国土成就 七宝充満の宝を降らし 国土にこれをほどこし給ふさるほどに 時移つて 天の羽衣 浦風にたなびきたなびく 三保の松原浮島が雲の 愛鷹山や富士の高嶺 かすかになりて 天つ御空の 霞にまぎれて 失せにけ~り♪♪」

謡っている当人もよく分らぬ古語では、日本語学校のお勉強にはなんの役にも立たないのであった。でも、みなさん興味もって(あっけにとられて)聞いてくださったようで嬉しかった。通訳してくださった校長先生に感謝申上げます。

カトマンズ日本語学院草の根校舎の会」のことを書いておこう。1965年に創設、1999年には校舎の建設をし、日本語学校として活動している。これを日本のNGO「草の根校舎の会」が支援を続けてきているそうである。その校舎でわたしたちの文化交流をしたのであった。カトマンヅには日本語学校が200以上もあるが、公的に認定されているのは20校とのこと。

この学院の今の生徒数は30人、盛時には150人もいたのだそうだ。日本人観光客が多かった時代はすぎて、いまは中国人が多くなってそちらの学校が増加中だそうだ。いずこも同じである。(110410)

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ネパールの能? タンコットのホテルにて


文化交流の能楽解説(写真:森英雄)


文化交流の生花実習


カトマンズ日本語学院


集落の少年たち


集落の子ども


集落の農家の庭


集落の畑


左上にホテルが見える


タンコットの集落の上空 向うはカトマンヅ盆地


田植えする女たち


道路舗装で働く女性たち


ドコをナムロで背負う農家の女性


シッダルタ街道で見た農家建築


建築用材になる木はあるが


ポカラ山岳博物館展示のゴルカ住宅


ポカラの山地にある農家


丹念な割石積み住宅(タンコット)


増築予定の鉄筋を出しておく(プリティヴィ街道)


まず柱を立てておくらしい(タンコットにて)


カトマンヅのスプロール住宅地

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