豪雪の山村で思ったこと
2011年 伊達美徳

この冬はかなりの豪雪で、日本海側は38豪雪の1963年以来の降雪らしい。

長岡の山村の法末集落に、小正月年中行事「賽の神」に行ってきた。

昨冬も豪雪と思ったが、ことしはそれどころではない。人の背丈の倍以上も積っていて、毎日除雪するから道の両側に盛り上がって、まるで絶壁の峡谷の中を行くようになっている。家から道に出るには、この絶壁を掘り崩すかトンネルをつくらなければならない。

峠から集落を見下ろせば、どこもかしこも神々しいほどに真っ白で、この下に人間の営みがあるのだろうかと、疑いたくなるほどだ。わたしの仲間が拠点とている民家も、すっぽりと雪の中だ。道路は公共で除雪するが、自分の敷地内は自分で毎日毎日除雪しなければならないが、週末住民住民ではそれも不可能で、雪はどんどんと屋根にも庭にも降り積んで、屋根と庭の雪がつながってしまっている。屋根の雪おろしをしないと、軒が垂れ下がって折れてしまう。現実に昨冬の雪で、物置小屋の軒が折れてしまった。今年は2月はじめ現在、一部の屋根が抜けたし、部屋の建具が動きにくくなっている。柱が曲ったり梁がだれているのだろう。一部水道が凍結したままで台所の水が出ない。

    上と同じところの夏の風景


  活動拠点の民家

その夏の姿

大学時代に山岳部で深い雪山に行って合宿をしたけれど、それは遊びであって、雪国育ちでないわたしは、毎日を雪の中で暮すことを想像もできなかった。この集落に来るようになってはじめて知った雪国暮らしのいろいろな智恵に教えられると同時に、冬の生活の厳しさに驚嘆している。

春から秋にかけては、風景といい、気候といい、食べ物といい、そして集落の人たちといい、わたしは大好きである。それにしても大昔からこのような厳しい気候のところに人が住むということが、いまだに理解できないのが本音である。

上と同じところの初秋の風景

雪の季節は毎日のように朝から除雪しないと、外にでられないどころか家がつぶれる惧れさえもある。中越大震災から6年半だが、そのときから空き家が増えて、雪下ろしをしないから次第に傾いてやがてつぶれる。つぶれた家、つぶれかけている家をいくつか見てきている。集落は坂道ばかりだから、外で車の運転も歩くのも怖い。高齢になると外に出ることができなくなる。冬季は市街地で暮し、春から秋にかけて集落暮らしの人たちもいる。

棚田の美味い米は付加価値があるから、けっこう高く売れるのだが、後継者がいない。集落人口は震災前は120人がいて全員が避難したが、復旧して戻ってきたのは80人、その後は出て行く人、亡くなった人はいても入ってくる人はいないから、毎年ひとりふたりと減るばかりである。50年前の最盛期には600人もいたのであったことを思うと、大きな時代の変化を感じる。

わたしはそれを嘆くことではないと思っている。人間が年取り、日本全体の人口が減少し、社会も成熟した時代になり、ここだけが人口が増えることがあろうはずはない。農業食糧政策はグローバル時代に難しいことになりそうだが、農村政策は単に振興政策ばかりでは高齢化していく農民に対応することはできない。高齢を見越してハッピーに農業からリタイアできる政策がもとめられていると思うのだが、現地にみてもそれがないようだ。

団塊世代のリタイア層を呼び込んで農業の振興を図ろうとする政策はあるが、棚田で豪雪の地を選ぶものはかなりの物好きと言うほかはない。農業政策の全般についての知識はまったくないが、農業に突くとしても、彼等は他の条件の良い農村農地を選ぶに違いない。現地を見ると次第に耕作放棄される田畑が茅や草の覆われてきている。それらをそのままにしておいても豊かな日本の自然はやがて森林になっていく。そこに、できるならば森林と人間のあり方を考えて、放棄田畑の利用方法と自然に戻す不利用方法について、土地のあり方のマスタープランがいるような気がする。

ここで不利用方法と書いたように、かつては土地は利用するものとしてマスタープランを描いたが、これからは自然に戻して利用しない土地政策もいる時代である。豪雪の集落を現実に見てきて、さらにこのところ豪雪による被害のニュースを見聞きすると、撤退の地域政策も今は必要になっていると、つくづく思うのである。

●参照→368大雪の賽の神とお茶会

http://datey.blogspot.com/2011/01/368.html

  上と同じところの初秋の風景

    真冬の火の見櫓

春の火の見櫓

写真はすべて伊達美徳撮影