第1編第4話賃借都市の時代へ

まちもり叢書 街なかで暮らす 第1編あぶないマンション 伊達美徳

第4話 賃借都市の時代へ-体験的住宅論-

この稿は、2000年2月から書き初めて、社会の変化やわが身の変化に対応して、少しづつ書き足している。

わたしの実体験としての住宅論であるが、基本は都市計画家の泉耿介氏の唱える「賃貸都市論」の実践であるとしておこう。ただし、私は「賃借都市」の立ち場であるが。

●私の住宅体験

「借家」とかいて、「しゃくや」と読むか「しゃっか」と読むか、あなたはどちらですか。しゃくや派ならば庶民、しゃっか派なら金持ちか学究派かも、。これを書いているWPソフトは、「しゃくや」でないと「借家」と出してくれないから、庶民のつくったソフトでしょうね。

最近の借家の話題は、「定期借家法」(もちろんシャッカと読む)ができたことと、日本一の大大家の都市基盤公団の廃止問題です。これらがなにを意味するか分かる人は庶民、あるいは金持ちの貸し家や土地持ち。

ここで、わたしのこれまでの人生で体験した住み家の変転を数えてみる。

①持家(一戸建て:生家)→②間借り(大学寮)→③間借り(大学寮)→④間借り(大学寮)→⑤間借り(会社寮)→⑥間借り(民間木造アパート)→⑦間借り(民間木造アパート)→⑧借家 (公団中層集合住宅)→⑨借家(民間ブロック造テラスハウス)→⑩借家(公団中層集合住宅)→⑪持家(木造戸建住宅:現在の住居)→⑫借家(公団高層集合住宅)→⑬借家(民間高層集合住宅)→⑭借家(民間低層集合住宅)→⑮借家(民間高層集合住宅)-⑯借家(民間高層集合住宅)→⑰借家(民間高層集合住宅)→⑪。

エーッと自分でも驚きくが、特に転勤族でもないのに、17もの住宅に暮らして生きたことになる。

このスゴロクのような変転は、数回の転勤及び単身赴任と、引っ越し趣味(都市の暮らし方自主モルモット的実験)も兼ねた仕事場兼用の自主単身赴任住宅が混じっているから、普通の人よりはずいぶん多いだろう。

でも、この動きの順序は、日本の高度成長時代を駆け抜けて働いてきたものたちの、典型となるかもしれない。

ご覧のように借家のベテランである。そこで定期借家法が喧しい世になったので、体験的借家論をこの際書いておこうと思いついたのである。わざと資料を見ないで書くので、年代の誤りがあるかもしれない。

●団地族の出現

木賃アパート→公団賃貸住宅→郊外持ち家という、人生の住家遍歴典型的コースがある。この持ち家が人生の「上がり」になるとする政策が出たのは、1960年代中ごろだったろう。

そのころ、住宅公団(現在の都市基盤整備公団)の賃貸住宅は、戦後日本の都市化の中で大きな貢献をしてきた。

わたしは61年に大学を出てから4年ほどのうちに、⑤間借り(会社寮)→⑥間借り(民間木造アパート)→⑦間借り(民間木造アパート)→⑧借家 (公団中層集合住宅)ときて、公団賃借住宅にすんでいたが、建築・都市計画の専門家の卵として、その政策、その技術に大きな期待を持っていた。

ところが、政府が持ち家政策に転換して、公団も分譲マンション業に精をだすようになった。高度成長時代を流浪しながら働く都市住民として、持ち家政策は不自然な感じを持ったものである。

まず、持ち家を買えるようなサラリーの額でないこと、職場と遠いこと、転勤に対応しないことである。その一方では、安価な賃貸住宅が低質になってくることなど、生活の基本的な点で本当に困ったのであった。

公団が賃貸住宅から分譲住宅に事業の軸足を変えたのは、持ち家政策の根本のところが、政治的事情であることがその不自然さの大きな原因であった。いわゆる55年体制を維持するための保守政策に、日本人が乗せられてしまったのだ。

それが低質なアパート群と密集市街地を放置し、都心の空洞化を招いたのである。そのところを体験的にしっかりと言っておきたいのだ。

60年代初めに社会に出たわたしは、高度成長時代を都市漂流していた。勤めた小さな設計事務所(今は大会社になっている)に、社宅制度が整っているわけもない。仕事の場所と出身地と関係ないから、わが住家を自分で調達しなければならない。借家のベテランになるのは必然だ。

当時の日本住宅公団(今は都市基盤整備公団)は、賃貸住宅だけを供給していた。その集合住宅供給への態度は実に先進的であり、日本の今のマンションや住宅地づくり技術の基本は全てここにある。

60年代末から70年代前期までが、その賃貸住宅供給のピークだったろうか。

都市漂流民にとっては、結婚とともにその賃貸住宅に入るのが憧れだった。団地族という当時の流行語にはそれがこめられていた。

●政治にもてあそばれた持ち家政策

ところが、数十万戸にもなってくると、団地族がひとつの社会的な力を持ってくる。若くて旺盛な知識と労働力を振りかざす団地族は、身近な住宅政策をてこにして政治的な力さえ持ち始めた。

それが当時の社会党の支持層と重なり、都市を漂流する団地族予備軍もこれに加わって、ひとつの圧力団体の姿が垣間見えてきた。これはもしかすると、55年体制を危うくするという、保守的政治的観測が表面に出てきたようだ。

こうなると、自民党にとって55年体制を堅固にするためには、できるだけ早く団地族を分散させなければならない。予備軍には団地迂回ルートを作らなければならない。それが、持ち家政策への大転換であった、と、わたしは位置付けている。以後、分譲住宅で小さな小さな地主たちが輩出して、ミニ保守層となって中流と称する小市民社会日本を生み出したのである。

公団はそれまでの賃貸住宅供給を後回しにして、分譲宅地・分譲住宅をつくることへと転換した。もうひとつの大きな賃貸住宅政策だった自治体の公営住宅政策もも弱者対策的な方向へと変わり、その一方では住宅供給公社という自治体分譲不動産屋を行うのである。

列島改造ブームを煽りたててで、山を切り谷を埋めて土建屋の仕事が郊外宅地・郊外住宅・郊外マンションの分譲が進む。分譲というように、文字どおり切り売りである。集合住宅ならば大きな宅地開発をしなくても良いのに、小さな土地をたくさんつくるから郊外へ郊外へと広がる。それがいまの拡散都市問題となっているのだ。

これに団地族や予備軍が買えるようなローンシステムを用意して、借家を借金に置き換えるとともに、持ち家こそ日本人の基本的志向であるという嘘っぱちのキャンペーンもされて、小さな土地住宅持ちがやたらと増えてきた。

昔から地主は、持っている資産の大小に関わらず保守層なのだ。彼らはそれを守るために、小市民ながらも保守層あるいはその予備軍となって、55年体制は維持されることになった。

その陰には、わたしのような、この政策に乗りきれない都市標流民層と高齢者層が見捨てられ、その彼らを吸収したのが、今、問題とされている密集市街地であり、その主役の木造賃貸アパート群である。その問題は阪神淡路地震がみごとにあぶり出してくれた。

日本の政策が変わるには、人柱が立つか、外圧(地震も一種の外圧)が必要なのである。

持ち家政策が出された当時は、これほどに住宅漂流都市難民がいるのに、なんでこうなるんだろうと実に不思議に思い、その後も何回もの転勤・移転のたびに、日本の持ち家政策に腹を立てながらやってきた。

体験的には何が腹たつといって、貸し主や不動産屋の横柄にして無礼なることには、ほんとうに辟易する。

この庶民的世界の現実を知ってますか?、定期借家権万能論を唱える人たちは、、。あるいは、公団の借家事業は終わったという人たちは、一度でも民間賃貸住宅に入ったことありますか?(1、2、3 2000.2.19)

●とんでもない民間賃貸住宅の実態

日本で賃貸住宅がうまく行かないのは、借地借家法がおかしいからとか、日本人は持ち家志向だとか、どうも本質的でない議論、あるいは現場を知らない議論が横行しているようだ。

一度でも、個人の立場で民間住宅の借家をしてみると分かるが、その契約にあたって貸す側が示す書類内容の横暴さには、まったく腹立ちを通り越してあきれる。

業界統一らしい表向きの契約書にはとても書けないことを、念書として別の書類で出させるのだ。そこには、明らかに公序良俗に違反すると思われるようなことを平気で書いている。すべては借主側に責任が帰するようになっている。それにはんこ押さないと貸してくれないのだ。

これは、今の借地借家法では貸した方が弱いといわれる貸し主の自己防衛であろうと、弁解されよう。

しかし、それはおかしい。そもそも良質な賃貸住宅が大量に供給されていれば、市場はそれなりに動くはずであって、一方的な片務契約でないと貸さないといっていたら、借り手がいなくなり、困るのは貸し手だ。

今は、賃貸住宅の市場が貸し手側に有利だから、こんな屈辱的条件でも借りなければならない。法律がどうであろうと、今は貸すほうが絶対的に強いと、長年の借家経験がものを言わせる。これからだって弱くなるとは思えない。

60年代の終わりごろだったか、名古屋で入居していた木造賃借アパートで、家賃値上げを大家から出されて、納得できずに文句を言ったら、調停裁判(というのかどうか忘れたが)に持ち込まれたことがある。

家主のほうは裁判所に持ちこめば、借主のこちらは驚いて引っ込むと思ったらしいが、こちらは若くて好奇心いっぱい人間だし、その頃はヒマでもあったので、喜んで裁判所に通ったものだ。

裁判所に何回か通ううちに、こちらが転勤でうやむやになってしまったが、面白い経験をした。調停裁判とは、どうもいいかげんなものだ、とも知った。

分譲住宅政策のおかげで、借金を背負った国民がどーんと増えて、銀行が大もうけをして、いい気になったものだから、いまその報いを受けている(んだかどうかよくわからないなあ)。

そして、分譲価格だけが問題となって、安くするために小さな宅地ばかり増えて、都市はますます外的にも内的にも、スプロールを続けている。

ということで、賃貸住宅政策を捨てて持ち家政策にした背景と、そのもたらしたものを、わが体験的に書いた。

●地上げ屋の喜ぶ定期借家

バブルパンクの頃、定期借家権OKという法律(「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」という格好良く長たらしい名前)ができました。これによって、良質な民間賃貸住宅が供給されます、というのがうたい文句であるが、本当かしら?

わたしの感じでは、これは要するに、貸し主が借り主を追い出しやすい仕組みができただけのことに思えるのですがねえ。

なにしろ、早くからこの制度の必要性を声高くおっしゃったのが、バブル景気時代の地上げ屋さんと土建屋産さんたちだった記憶があるので、どうも気になります。

これを推し進めている不動産業の方がたは、今より法律上も強くなって、あんな不真面目な念書なくして、まじめな賃貸借契約してくれるのでしょうか。

もちろん、建て前としては、これで優良な集合型の賃貸住宅が、都心部に、中心市街地に、まちづくりとして大量に建設されるようになると期待しています。

本音としては、東京中央区か港区の、安い賃貸集合住宅ができるなら、わたしが一番に入居したいと、思って、先般できた晴海トリトンスクエア(都市公団再開発事業で、公団賃貸住宅もある)を見てきました。

いいですねえ、引っ越したい、と思ったけど、家賃がなんと月20万円以上もするのですね。国民の住宅政策のための公団が、こんな民間並み家賃を取るなんて、どこかおかしい。

そんなことするから、公団廃止といわれても、住宅政策がないとか、民間でできることをやってる、なんていわれるのでしょうよ。

かつて、戦後日本の住宅政策をリードしてきて、いまだに住宅問題だけが解決しない日本の住宅政策を担う役割を忘れはいけません。人口減少して超高齢社会になろうとする日本は、今の居住環境では構造的に生きてゆけないので、人口の大移動時代を迎えるのです。

それに対応する新たなしっかりした住宅政策が必要であるのは、もう焦眉の急です。

高齢者の暮らしの場は、なんと言っても管理の行き届いた賃貸住宅ですよ、そんなことも分からない政治家たちですか?

決して都市公団の賃貸住宅事業は終わったのではなく、これから正念場を迎えるはずなのに、ろくろく政策論議なくて廃止に至ろうとするは、残念至極です。

ここには、わたしの積年の住宅問題への体験的恨みが込められています。(4,5 2001.12.1)

●危うい分譲型都心共同住宅ブーム

ここからは2003年1月1日の記述であり、わが身の住宅環境にも大きな変化があったことを、報告したい。

その前に、この2年で何が変ったのだろうか。

世の行方はあいかわらず不況が続いていて地価の下落が続いている。要するに元に戻りつつあるのだ。

それで、都心立地のビル型集合住宅(通称マンションというが、私はそうはいわない)の一戸の値つけが、3000万円台で70平米程度になってきて、東京と横浜の都心部は分譲型共同住宅ブームである。

都市公団は、独立行政法人となることに決められて、賃貸住宅にその役割りを絞りつつあるのは、半分はよいが半分はよくない。

都心への回帰と言われるが、それは要するに、遠くに広がりすぎてた生活圏を収拾しなければ、これから高齢化してくると生きるのが大変だという郊外居住者の保身の策が、やっと社会的な潮流として見えてきたのである。

これまでわたしが唱えてきている、高齢化と人口減少社会における就業居住圏形成の方向が、現実に目に見えてきた。

ただ、どうも気に食わないのは、あいかわらずの分譲型集合住宅が流行していることだし、政策もその方向であることだ。

密度高い都心市街地に分譲共同住宅が数多く建ってくると、土地はますます細分化が進む。土地の有効高度利用というが、建築も持ち主もいつか寿命が来る。細分化した権利関係はその建築物の維持管理を難しくするので、資産としての老朽化をとめることが難しい。

典型的な事件は、阪神淡路大震災に見たように、倒壊した分譲型共同住宅の建て替えの難しさである。それは技術問題ではなく所有問題であった。

その教訓をまったくいかすことなく、あいかわらぬ都心分譲共同住宅ブームである。危ういかな。

管理の行き届かぬ分譲共同住宅が山のように出てくるからこそ、いわゆる「マンション建て替え法」が出てきたのである。

なぜ、公団公社のようなしっかりした公的な住宅管理団体による賃貸住宅を、みんなは求めないのだろうか。またいつの日にか、不動産を持っておけばよかったという時代が来ることを夢見ているのだろうか。その頃には私は生きていない。

●わが18番目は借家の生活拠点

くどいが、ここではじめ(1 私の住宅体験)において述べた、わが住宅変遷記をもう一度、すこし付加して書く。

1持家(37~56戸建て2階建:生家、高梁市)

2間借(57~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市)

3間借(58~60大学寮木造平屋長屋、目黒区)

4間借(60~61大学寮木造平屋長屋、目黒区)

5間借(61~62公団賃貸10階建て集合住宅4階、大阪市)

6間借(62~63民営木造2階建アパート2階、寝屋川市)

7間借(63~65民営木造2階建アパート2階、名古屋市)

8借家 (65~66公団5階建て集合住宅2階、名古屋市)

9借家(66~68民営ブロック造2階建テラスハウス、太田市)

10借家(68~79公団営5階建集合住宅2階、横浜市)

11借家(73~74公団営14階建集合住宅12階、堺市、単身赴任)

12借家(75~76民営10階建集合住宅3階、大阪市、単身赴任)

13持家(79~02自己所有木造2階戸建住宅、鎌倉市)

14借家(91~94民営3階建集合住宅2階、品川区、単身赴任)

15借家(94~96民営14階建集合住宅2階、大田区、単身赴任)

16借家(96~98民営14階建集合住宅7階、品川区、単身赴任)

17借家(98~99民営14階建集合住宅8階、目黒区、単身赴任)

18借家(02~ 公社営14階建集合住宅7階、横浜市中区)

ここで18番目に新たな借家を、はじめの記述に付け加えている。これは11、12と14から17番目までのような、13番目の持ち家に家族を置いての単身赴任ではなく、家族ともどもこの借家に生活本拠を移したのである。家族ともどもといっても実は妻と二人だけであり、息子たちはすでに出て行っている。

四半世紀ちかく暮らした鎌倉の静穏なる谷戸の米屋へ3里(ちょっとオーバー気味に)の住まいから、こんどは横浜の喧騒なる都心でコンビニへ3分の住まいである。ウグイスもホトトギスも鳴かぬに替えて、車騒音と陽射しはいっぱいだ。

偶然にも引越しちょっと前から左肢の故障(大腿骨頭壊死なるすごい名前)にて、いつの日か役だつかなあと客観視していたバリアーフリー仕様を、入居の日からヨタヨタと実体験する日々で、わが先見の明に感心というか情けないというか。チタンの骨に入れ替えるまでの騒ぎであるが、、。(2005.1注:この病気は2004年4月頃に自然治癒した。不治の病は誤診だったらしい)

子育てを終えて気がつけば、われら夫婦の身も老齢認定されて驚き、かねてからの持論「人口減少時代の少子高齢社会における就業居住圏形成論」を、自ら実践した次第である。まだ体力あるうち、ボケぬうちに。

このスゴロクの上がりはまだ来ていないが、多分19番目に来るのだろう、それは高齢者介護施設。

●父の家そして私の家

父が宮司をしていた神社の家がスゴロクの出発点だが、今思えば、あれは宗教法人の土地の上の資産だから借地で持家だったのである。

その生家はもう取り壊されてしまった。その高梁市の神社を父と母が出て岡山市内に移ったのは1965年だったろうか、ということは、今の私より(65歳)もずっと若い55歳であったのか。いったい、なにがそうさせたのだろうか、。

岡山市内に土地を買って、建築家の卵(孵ってみたら都市計画家)の私に設計をさせた小さな木造平屋の家は、私の処女作ともいうべき建築である。その家は今も建っているが、主であった父母は、80歳を超えたときに大阪市内に、人生のもう一度引越しをした。

そのとき以来ずっと無人のままで、庭には夏草がはびこり、冬はだれも採らない金柑の実がきらめいている。

そして今、横浜に移転したわたしにも、鎌倉にある家が父の家と同じ運命にあるのだ。金柑にかわるのは枇杷の実だが、野生化したタイワンリスが食している。

考えてみれば、これは日本の住宅地形成の典型なのだろう。田舎住まいで高齢化した者たちは、動けるうちに便利な市街地に移るのは、わが論のとおりであり、わが身のとおりであるとすれば、全国各地にこのような空家が増えているにちがいない。

一体どれほどそのような住宅あるのだろうか、そしてそれは静かに確実に増えつつある新たな不良資産なのだろう。これからもどんどん増えるに違いないこの空家群は、空き店舗問題と同じに社会問題となるに違いない。

重松清の描く「定年ゴジラ」の世界では、まだ新開発が売れそうであるが、次の定年世代が来ようとしている今は、それは空家になるばかりであるだろう。定年ゴジラたちは空き店舗ならぬ空家対策につていの町内会の活躍が語られるかもしれない。

それも人口減少時代には無理となるだろう。次の小説のテーマは高齢者の社会移動の喜悲劇になるに違いない。そうか、わたしがそれを小説に書くかあ、直木賞ねらいで。(6,7,8 2003.1.1)

●住宅循環ネットワークNPOはできるか

ここから2005年1月に書いている。

2002年9月から横浜に移っても、鎌倉の空家を売るか貸すか、特に決断もつかず、つける必要もなく、2年が過ぎようとしていた。空家の猫の額の庭でも、あっという間に背丈ほどにはびこる雑草の刈りとりと風入れに、年に3回は行っていた。

以前から、鎌倉のまちづくり仲間が集まると、鎌倉の空家空地問題を話し合っていたものだった。あちこちの空家がそのままに朽ち果てるとか、空き家が壊されて空地のままであるとか、どちらももったいない。

大きな屋敷地が細分化したり、周りと似合わぬ集合住宅になったりして、好ましくない環境になる。鎌倉山のような高級住宅地でも、私の家のような低級住宅も、ことは同じである。

こんな現象が大なり小なり全国各地で起きているに違いない。しかし、鎌倉には住みたい人はいるはずだからこそ、空地を細分化しても、集合住宅にしても、不動産屋と建設業者が儲かる仕組みである。

しかし、空家となった住宅を再利用すれば、居住環境を維持し、よけいな廃棄物も出さないで住む筈である。その空家をリニューアルして住みたい、借りたい、買いたい人が居るはずだ。不動産屋はそれでは儲からないから、そんなことはしないのだ。

これをなんとかならないものか。例えば、そのような空き家を借りたり買い取ったりして、リニューアルの上で借り手に貸すシステムを、NPOのような組織でやることができないものか。住宅循環ネットワークNPOである。

こんな話を飲みながらしていて、つい、それでは私の家が今は空家だから、それを実験台にしようか、特にアーティストに貸してね、などと冗談半分に言っていた。

これに相当する動きは、すでに京都に「京町家作事組」というNPOがやっていることを知った。また、世田谷では、ある大きな屋敷を、数人が別々に暮せるように改装して、共同住宅にしている例もあり、鎌倉にその実践者をよんで、実施の経緯や現状、諸課題などを訊く機会もあった。

やはり予想通りに、街でも山村でも、今、日本には空家問題はひしひしとし寄せている。先般の奥能登徒歩旅行で、崩壊する山村を見て切実だと思った。中越地震の山古志村などで、それがある特定の形をもって一度に露呈したケースといえよう。

●鎌倉の家をアーティストに貸した

2004年10月から、鎌倉の空き家となっていたわたしの所有の家が、貸家となった。借り手が来たのである。これまでは、借家側ばかりだったが、今度は貸家側にたっての賃貸借都市論の実行である。

鎌倉のまちづくり仲間のH氏から、Oさん夫妻がわが空き家を借りたいと言っているがどうだと、2004年8月に相談のメイルが来た。写真家である夫人が写真アトリエかつ作品展示もしたいのだという。

渡りに船とはこのこと、しかも、なんとアーティストだから、冗談が本当になる。話はとんとんと進んで、諸般の事情で10月から入居したいという。

いいでしょう、Oさん、ただし、私のほうで改修している時間がないから、あの家は私の最後の設計だから、あなたがどんなに手を入れて改造してもよろしい、基礎的な改修費用はこちらでもつから、貴方のほうで手配してほしい、という条件です。

これに若いアーティスト夫妻は、友人、仕事仲間、親、建築家たちを動員して、自分たちで挑んだのだった。一部の間仕切りを取っ払うなど改造して、ペンキマッシロシロに塗ってしまった。さすがに水道設備の取替えは専門業者に頼んだ。

私たちは二人の息子をここで育てたので、それなりに間仕切りなどもしたが、若いOさん二人は、1階から2階そして屋根裏部屋までまるでひとつの空間のようにしてしまった。1階の居間は、すっかり展示アトリエの雰囲気である。

これはまさに住宅循環ネットワークNPOへのモデルとなるはずだ。嘘と冗談は何回も言っていると本当になっちまうもんだなあ。

こうして、「Artist in Residence 明石谷」が実現したのである。さて次はこれをどう一般化するか、宿題を背負ったのである。(9、10 2005.1.24)

●鎌倉脱出の記その1(かまくら春秋リレーコラム)

「ほう、鎌倉ですか、良いところにお住まいですねえ、うらやましい」

こうよく言われたものが、夜は遅い帰宅だし、大阪などに単身赴任は長いし、わが鎌倉自慢を語るには自信がない。あるとき、紫陽花見物に来た故郷岡山の友人に、わたしが観光案内してもらったくらいだ。

この「良いとこ鎌倉」は、定年退職したら「老後鎌倉組」か、お寺見物したい「観光鎌倉組」かだろうが、イメージ先行の感もある。

この「老後鎌倉組」が多いらしく、一九六〇年代から急増して80年代に停止から減少に向かっていた鎌倉の人口は、二十一世紀になってまた増加傾向で、去年から今年にかけて二千人も増えたそうだ。鎌倉は年寄りの数が断然多いからあの世に移住する人は多いし、老女の方が多いからこの世にやってくる赤ちゃんは少ない。

だから外部から移住者、老後組が増加しているのだ。来年あたりは団塊老後組がどっとやってくる。そんなにジジババばかり増やしてどうする、ジジのわたしも思う。

そこで、鎌倉の人口増加が再度始まった二〇〇二年、「老後鎌倉組」からわたしは脱出したのだ。ついに脱鎌者になったのだ。「ついに」と言うところが、ちょっと微妙なる問題ではある。

このリレー連載はこれまで鎌倉を(多分)愛する住人たちの筆だったが、ここでは脱鎌者の外からの目で鎌倉の街について綴っていく。

概して脱出者は脱出元を辛口に言う傾向がある。旧鎌倉の滑川の上流、小さな谷戸奥に小さな家をわたしが建てたのは、三十年前の一九七八年のことだった。横浜日吉から越してきた。

日本の高度成長が始まろうとしていた一九六一年に社会に出て、わたしの都市漂流が始まり、日本の貧困な居住政策の谷間を泳いできた。鎌倉の谷戸は、「良いとこ鎌倉」の典型であるが、実はこの日本の谷間でもあることが分かったことを、おいおい書くつもりだ。

そもそも住宅は誰にも必要なもので基本的人権に属するから、西欧のように社会政策であるべきだ。日本でも戦後は公営公団公社による賃貸住宅政策が進められて、増加する人口にそれなりに効果を挙げてきた。ところが一九六〇年代後半から持ち家政策に大転換したのであった。政治の五十五年体制維持のため、庶民にも家という資産を持たせて保守層に取り込む作戦だ。

そうはいっても庶民は簡単に家を買えないから、低利の融資制度を設けて借金をさせる。公社公団も持ち家にシフト、開発業者を育成し、日本での居住政策は経済政策にされてしまった。しかし土地政策がないままだから、庶民が買える安い家は、郊外の狭い土地にしかない。谷戸の奥、山の上まで宅地開発が進み、鎌倉人口が急増したのはそのせいだ。鎌倉が高値になると三浦半島を南下していく。通勤地獄に乗る庶民の持ち家は借金の塊である。木賃アパート→公団賃貸→持ち家で上がりの双六人生を庶民は送るようになる。だが上がりは借金だ。

戦後六十二年、衣と食は足りたが、住はいまだに問題だらけだ。この居住政策の大失敗が今、人口減少超高齢社会に入った日本に起きている諸問題の根底に大きく横たわっている。

横浜日吉のわたしの公団住宅は、子どもが育ち狭くなったが、近くに広い賃貸や安い土地がない。鎌倉の谷戸の土地は、東京通勤は遠いが広さと借金能力の妥協で見つけ、持ち家政策に乗らざるを得なかった下流庶民の漂着先である。生まれて十一度目、結婚して六度目の家だ。

谷戸は緑の揺り籠である。鶯は四季を通じて啼き、不如帰や梟も聞こえる。栗鼠、薮蚊、百足、蜘蛛、蛇、蚯蚓そして狸さえも出る。

わが家は目の前が市街化調整区域の山林で、そこから流れる小川には竹やぶが繁る。初夏に萌えあがり侵食してくる緑は、美しいよりも恐ろしいほどだ。鼠の額ほどの庭にも花も草も木も繁らせ、落葉枯枝は焚き火、庭に覆いかかる山の木はできるだけ伐らない。わたしは鎮守の森の生まれ育ちだから、朝は九時過ぎでないと陽は照らないし、午後三時には山陰となっても、この緑の環境は親しくも懐かしいものである。

だが、そうも行かないのが世間様である。お隣の先住老女から、草を生やすな、木を繁らすな、葉を落とすな、焚き火するなとツッコミが来た。これで谷戸暮らしの魅力が激減した。

緑はその土地に還元して肥やしとなるべきだから、わたしは落ち葉や伐った枝を庭に積んで腐食させていた。ところが鎌倉の人たちはゴミ処理に出している。わざわざ余所に持っていって、金をかけて煙にするのは合点がいかない。車が入らない谷戸の奥から鎌倉駅まで買い物にバスで15分だが、休日は混雑で3時間だ。

そんなわけで、引っ越してきた早々に、「この次の家はねえ、もっと便利な、云々」と、ツレアイからダメ出しとなったものだ。それでもこの谷戸に四半世紀を暮らし、息子たちも巣立った。街づくり活動する多くの人たちと知り合い、鎌倉市のまちづくり審議会や深沢計画委員会の委員などもやったから、不在期も多かったが、それなりに鎌倉市民だった。

ある日、あなたも年金受給資格者となった旨の通知が来た。おお、ついにわたしも老年の分類に入ったかと見まわせば、隣の老女ばかりかその先も隣の谷戸も確実に老化、空家空き地が増え、その一方ではそれを細分化するミニ開発もある。谷戸は老朽マンションそっくりだ。

同年のツレアイは、買い物に駅前まで行くのはもう疲れる、便利な街に移りたい、少々空気が悪くて一年や二年寿命が縮んでも、ここまで生きたのでもうよいから、などと言い出した。

わたしもある時から、東京通勤片道二時間がつらくなって、東京単身赴任つまり仕事場近くの借家で平日都民、休日市民をしていた。

そんなわけで、ツレアイとわたしとは珍しく意見が一致した、鎌倉脱出して「次の家」へ行こう、まだ体力あるうちに、と。

そして脱出先が、横浜は伊勢佐木町近く、地下鉄駅徒歩四分、十階建て一棟が全部賃貸の共同住宅ビルの借家である。

世の常識というか多くの人は、老後は鎌倉に、老後は独立戸建て持ち家に、老後は空気の良い静かな田舎に、であろう。

なのにわが老後と来たら真反対で、わざわざ選んで、鎌倉を脱出、戸建て持ち家から共同住宅借家に、騒音と排気ガスの真っ只中だ。でも、世の常識はどこから来たのだろうか。わたしはある確信で脱鎌者となった。

(注:小論は、雑誌「かまくら春秋」(かまくら春秋社2007年2月号)に掲載した)

●鎌倉脱出の記その2(かまくら春秋リレーコラム)

前号で、わたしが横浜から〝緑のゆり籠の鎌倉谷戸に建てた家に移って四半世紀、老後の確信を持って、また横浜中心部の賃貸共同住宅の借家に移ったところまで書いた。なぜ老後鎌倉脱出都心共同住宅借家なのか。

通勤疲労から「東京・都心単身平日借家暮らし転々体験」は、わが身の老後鎌倉脱出を確認する実験でもあった。一年余のピッチで低層や中高層のいろいろな共同住宅借家に住んでみた。

管理面は大きい方がよいがコミュニティでは小さい方がある、新規建物の設備は格段に向上している。

その東京暮らしでもっとも気に入ったのは、文化イベント参加の便利さである。思い付けばすぐにオペラでもコンサートでも能楽(このところこれに凝っている)でも美術展でも選択自在である。鎌倉だってそれらはあるさ、と言われるだろうが、思い立ってすぐに行くには選択の幅も狭く機会も極端に少ない。いくら文化の鎌倉と誇っても、文化財があるだけでは文化都市とはならないのである。鎌倉の便利さは、ほどよい飲み屋が程よい場所に程よくあるくらいなものだろう、まあ、これを文化と言うのならばだが(わたしは言う)。

わたしの移った横浜都心も便利至極である。半径一キロ内に鉄道駅が五カ所、商店街、ホテル、総合病院、劇場映画館はもちろん、中華街やフーゾクの福富町にも歩いてゆける。もしも家を何かで追い出されても壽町ドヤ街にすぐシケ込めるから安心?だ。鎌倉ではこうはいかない。

また、共同住宅借家暮らしは安心である。いわゆるマンション(わたしはこの言葉は大嫌いで、MANSIONとは鎌倉文学館みたいな庭園のある豪邸のことなので、ここでは分譲型共同住宅という)を選ぶ気はなかった。

その理由は、他人の懐のリスクまで背負い込んで自分の不動産を保有管理するほど、わたしはお人よしでもないし、金持ちでもないからだ。

建物は地震で倒壊しなくとも部分的に壊れることで地震力を吸収し、人が死なないように設計するものだ。分譲型共同住宅は、震災や火災、機能も退化が生じ、いずれ大改修や建て替えをしなければならない。そうなれば共同所有者たちが同意しなければ修理も建て替えもできないが、それぞれに懐具合やら相続など個別事情を抱えている。簡単でない現実を、阪神大震災や姉歯震災(構造強度偽装事件)が明らかに証明している。

広くもない敷地と壊れるかもしれない建築構造体を何十人も、いや今は超高層建築で何百人もが細切れに共有している例がどんどん増えているのだから、その合意の困難さはますます大変である。

現に姉歯震災で、賃貸型共同住宅は早期に解決しているが、分譲型は建て替え着工したのはいまだにわずか二棟の立ち往生だ。

地震がなくとも仕事柄そういうことは知っていたので、脱出先に選んだ次の家は、一棟全部が賃貸の公共的経営の共同住宅である。管理体制がしっかりしているし、万一地震で壊れても、ご近所の人さまの懐まで考えながら建て直しをしなくても家主が次の家を保証するはずだ。

残念ながら鎌倉ではそのような住宅が見つからなかった。もっとも、選んだ家主の県公社がこのところちょっと怪しいのが気になるのだが。

鎌倉脱出の理由のひとつは、「谷戸」が建て直しの必要になっている分譲型共同住宅によく似てきたことだ。共同住宅の階段同様の狭い急坂の行き止まり道に、細分した土地に建つ日当たりの悪い小住宅群は、建て込んで建て替えも難しいし、南も北も向きにお構いなしに乱立する都心の共同住宅に似ている。エレベーターがないだけ谷戸の方が年寄りには暮らしにくい。

高度成長期につくられた住宅団地の四階建共同住宅にはエレベーターのない建物も多く、空き家化が進んでいる。今、それらは計画的な建て替えや修復による団地再生を始めつつあるのだが、さて、鎌倉の谷戸再生はどうするか。

谷戸住民の高齢化が進んで、わたしのように脱出後が空き家となっている例が多い。谷戸ばかりか鎌倉山でも街なかでもそうで、豪邸空き家が朽ち果てるままとか、空き地が突然に共同住宅開発とか、細分化されてミニ開発住宅とかいろいろ起きている。空き家が増えるとコミュニティがなくなるし犯罪も怖いから、跡地ミニ開発でも谷戸再生にはなるだろうが、もっと良い再生方法がありそうなものだ。

わたしの出た家は、幸いにして知人のアーティストが、自分向きに改修してアトリエ兼住居として借りてくれている。その谷戸には画家も住んでいて、うまく行けば芸術谷戸だ。

鎌倉に住みたい人は多いはずだから、空き家を借り手に合うように改修して貸すシステムができるとよいと思う。今の日本では持ち家政策ばかりやっていて、借主も貸主も安心できる賃貸住宅政策に全く欠けている。東京都心の借家暮らし実験で、賃貸住宅市場のひずみを実に腹立たしく体験したものだ。

ところで、中越大震災(二〇〇四年)のあった集落に復興支援のまねごとで通っているが、そこはまさに谷戸の大地が崩壊したのである。

この地の地質の本来的状態もあるが、人間が土を盛ったり伐ったりしてつくった田畑や宅地の地形を、自然がゆり戻しているのだ。鎌倉の谷戸でよく起きるがけ崩れも、実は人間が平地をつくるために自然地形を無理矢理に押し込んだことへの、自然からの押し戻しだ。

やがて来るという関東大地震で鎌倉の谷戸がどうなるのか、建物の構造強度ならぬ谷戸の土地強度問題を、中越でかいま見ているような気がしている。

長岡市山古志地区は震災崩落地復旧でガムテープの如くコンクリート壁がべたべた貼り付けられ、緑の揺り籠の鎌倉谷戸は急傾斜地崩壊対策事業でコンクリート要塞に変わりつつある。これも谷戸再生ではあるのだが、谷戸らしさがどんどん失われている。

そうやっている中越でも鎌倉でも、高齢化人口減少による村仕舞い、街仕舞いが避けられないはずだ。日本中が人口減少で鎌倉だけが増えるわけはないし、今の増加はやがて止んで減少に向かうのは確実だ。谷戸によっては、住戸を間引いて自然の緑の斜面地を戻す方法も鎌倉らしい谷戸再生かもしれない。

そう、人口増に対応して開発した谷戸も街も、人口減時代では美しく閉じる「谷戸仕舞い」、「街仕舞い」の時代が迫り来ているのである。それがこれからの大課題だ。

(この記事は「かまくら春秋」(2007年3 月号かまくら春秋社)に掲載した)

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