高梁:盆地の山並み風景

1.山あての風景

 盆地は周りが山だから、街に中のどこからも山が見える。外の通りからでも家の庭からでも、向こうに必ず緑の山があり、それが背景となって風景を作っている。
 高梁盆地にJR伯備線で高梁川をさかのぼって南から入ると、向こうに見えるのが臥牛山である。ああ、高梁だとこれではっきりと認識する。

 それは舟で海に出ている漁師が、自分の港に戻るときに陸にある山を目印にする「山あて」とおなじである。
  高梁に暮らして毎日見ていると何ということもないだろう。だが、久しぶりに故郷を訪ねて、駅前から稲荷山が、駅の向こうにお城山が、街の通りの向こうに高倉山が、小路の向こうに八幡山が、方谷橋のアーチの向こうに方谷林が、その反対からは御前神社のある秋葉山が、それぞれに特徴を持って見える。どれもこれもなるほどなるほどと、独りでうなづきたくなる。

 だからわたしはハイデルベルクで、同じような山あて風景に出会って、懐かしい風景であることを再認識したのであった。
 もちろんそれだけではなく、方谷林から見下ろすように、ハイデルベルクの哲学の道から見下ろし、あまりの類似に驚いたのだ。

 場所により背景に見える山の形が違うから、道を歩いていてボヤッとしていても、顔を上げて山を見ると、臥牛山なら北、愛宕山なら東、高倉山なら南、稲荷山なら西と、今どちらに向いて歩いているかわかる。自分のいる位置を知ることは、安心の基本である。
 もっとも、若者にとって鍋底の街から出てみたいと、 別世界にあこがれるのも仕方ないことだ。

 わたしの生家の御前神社で、最近らしいが境内の大木を数本伐った。上空を覆っていた枝葉がなくなって明るく見通しがよくなった。そうしたら本殿の北の裏山の樹林の上に、大きな山が見えるのである。はて、どこの山かと考えたら、それは臥牛山であった。

 そうか、ここは松山城鎮護の社だからそちらを拝むようになっていたのかと、今頃になって知ったのであった。これも明確なる山あてである。
 典型的な山あてによって風景をデザインしたのは、愛宕山を借景のとりこんでいる頼久寺庭園である。盆地という環境を生かして、これほど巧みな山あての例は少ないであろう。

2.高梁盆地の空間感覚

 高梁は川がつくった典型的な盆地である。盆の底に高梁川が北から流れこんできて、半月形の平地を盆の底のようにつくり、西よりを流れて南に下っていく。
 盆地の底の標高は、低いところで62m、高いところで75mくらい、盆の縁である周囲の山々は盆の底から急に立ち上がって、標高3~400mの尾根が取り囲む。

 その外側もほぼ同じ程度の高さの広い台地になっていて、吉備高原といわれる。盆というよりも板にうがたれた半月形の凹 みというほうが正しい。北と南にその流路がわずかにあいているほかは、四方とも方とも山が取り巻いている。
 その波打つような緑で覆われた尾根線の中での主なピークは、北に臥牛山、東に愛宕山、南に高倉山、西に稲荷山がそれぞれのランドマークとなっている。

 東の愛宕山から西の稲荷山までの頂上を結ぶ距離は約3km、その両方の山すその平地の距離、つまり盆地の底の東西長さはわずか1km程度である。
 南北方向は、北の臥牛山から南の高倉山までは約4km、その山すそからの平地部分の距離、つまり南北方向は2.5km程度である。

 そのような南北に細長いサツマイモ(胃袋にも見える)の形の盆の底には、西側に高梁川が幅100~150mを占め、残る東側に街がいっぱいにひろがる。
 その盆の底から見ると、まわりを300m前後の屏風がとりまいているのである。この空間感覚がわたしが生まれたときから身にしみこんでいるのである。

 わたしはこれまでにいろいろな街に行き、いろいろな街に住んできた。これまでたずねた印象的な盆地は、越前大野、人吉、湯村温泉(兵庫県美方郡新温泉町)、塩山(甲州市)、桐生、高遠(伊那市)、美濃など、たくさんある。
 だが、日本では高梁盆地と同じ空間感覚の盆地に、まだ出会っていない。

 ところが、1991年にドイツのハイデルベルク にいって、そこのかつての城下町であったアルトシュタットの盆地を歩いていて、高梁と同じ空間感覚に図らずも遭遇したのだった。
 川の下流部が開けているところは高梁盆地とは違うのだが、三方を囲む山並みの高さ、山と川と街の配置、その規模、街の中の道のつけ方などが、高梁盆地とほぼ同じであっ た。
 これには驚き、感激もした。このことはこれまでにも雑誌、同窓会誌、このサイト等に書いた。

考えてみたら、これまでの人生で一番長く暮らした鎌倉も、一方が海だが3方を山に囲まれる盆地であった。高梁盆地よりは広いが、周りの山並みが適度に取り囲む街である。
 そして今住んでいる横浜の都心部も、同じように3方を山に囲まれて一方が海の盆地地形である。そのようなところを特に選んだのでもないのだが、結果としてそうなったのは盆地生まれの何かがそうさせたのだろう。

 周囲の山々が緑に覆われていることが、盆地の空間感覚として重要である。盆の底とそれをとりまく山とは明らかに異なる空間として組み合わされていることが、盆地景観の基本条件であると思う。
 横浜郊外や那覇の郊外あるいは香港など、盆地地形でも周囲の山の斜面が上のほうまで住宅地となっていると、これを盆地景観とは言いにくい。

3.盆地中腹の神社から

 わたしの生家は、高梁盆地の東の小山の中腹にある御前神社である。御前(おんざき)という名前は、盆地を囲む山並みから突き出した半島状の秋葉山の先端部に位置することにちなんでいる。
 むかしから日本には岬信仰として半島の先に神社をたてる慣習があるそうだ。だから御前とか御崎とかの名がついて、オンザキ、ミサキと読む神社は多い。

 14世紀ごろまでの高梁盆地は、まだ町が発達していなくて、盆地の底を自由に川が流れいた。人々は山すそから中腹あたりに住んでいたらしく、古代の住居遺跡も出るそうだ。
 16世紀頃からこの地に定着する支配者が登場して、盆地の最上流部に支配者の館を作り、まわりに街を作り、次第に下流部へと広げていく。高梁川の流れを西に寄せ、町を積極的につくっていく。神社や寺院は主に東西の山腹に並べる。

 この城主の館と町割りは、ハイデルベルクの城下町とほとんど同じであるのは、その同じような地形がもたらした結果であろう。
 御前神社の境内から西南に眺望が開けていて、山で囲まれた典型的な盆地景観を見下ろすことができる。街の屋根が遠くまで開けていて、南には左から高倉山が回りこんで街をせきとめている。

 西の右から稲荷山がやってきて高梁川にすとんと落ちる。高倉山との間の切れ込みから高梁川が南に流れ出している。その切れ込みからは鉄道も道路も、そして人も流れ出しているのだ。
 少年のわたしは、あの先へいつか自分も流れ下って出て行くのだと、それが19歳で叶う日まで、あこがれつづけていたものだった。

 人は盆地を「籠国」(こもりく)とか「隠れ里」とか「小やまと」とか言うが、それは盆地外で生まれ育ったものの言のようにおもう。そこへの憧れがこめられている。
 19歳でわたしが関東平野に住んでみて、そのあまりに茫漠としてよりどころのない広さにあきれたものだった。たしかにそこの生まれ育った物から見れば盆地は別世界である。

 だが周囲を屏風で囲まれた街は、少年には文字通り閉塞感そのもので、脱出するべきところであった。それはどの若者も持つ感覚であろう。一度はそう思って盆地から出て行き、また戻るものもあれば、わたしのようにいまだに戻らないものもいる。

 盆地のその閉塞感は、要するに四周を閉鎖された物理的な空間感覚がもたらすものである。じつはわたしは閉所恐怖症のケがあるのだが、この盆地に由来するのだろうか。
 だが、その空間感覚がその後のわたしの心理的な故郷を想う感覚を醸成するのでもある。それは完結性をもった安息感に満ちた空間であり物語として表れたのであった。胃袋ではなくて、子宮かもしれない。

4.御前神社の境内の森

 高名な植生学者の宮脇昭さんは、今は合併して高梁市になっている成羽町の出身である。わたしとは旧知の間柄である。宮脇さんは、日本のどこでも神社の森には、その地域本来の植生相が保たれていて、それこそが地域の環境を形成する基本であるという。鎮守の森は地域の環境再生の原点になるというのである。

 鎮守の森は原則として斧を入れないで高木の森にしておき、神社の建て替え等のために材木が必要なときにだけ伐るのである。
 薪炭林のように数年おきに伐採をすることがなかったので、原始からの自然そのものではないにしても、かなり本来の自然環境に近いということである。
 わたしの生家の御前神社も、社殿のある境内の周りにはヒノキ、アラカシ、スダジイ、モミ、スギ、イチョウなどの大木が枝葉を茂らせて高く取り巻いていた。

 2011年の秋に久しぶりに訪ねたら、拝殿前に左右対称にあった2本の杉の大木がなくなって、ずいぶん明るくなったものだとおもった。あの枝や葉が落ちてきて、建物を傷めていたに違いない。
 それにしても、石段のそばで足場の悪いところなのに、どうやって伐ったのだろうか。今も樵職人がいるのだろうか、それともクレーン車を使ったのか。

 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級友人の建部君が遊びにきた。持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
 2012年春、伐られたこの木の行き先が、盆地の中に新しくできた養護老人ホームのホールに、大黒柱のごとくに立つっていることを、郷里の友人が教えてくれた。メタセコイヤもその老いた身を、老人ホーム癒しているのであった。

 更におもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を伐り倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに倒した。
 家にかぶさるように枝葉を張っていたモミの大木があった。幼年のわたしは、家の中から窓ガラス越しに枝葉とその間に見える空が描く複雑な模様を見上げて、なにか怪物の影にみたてて怖がったものだ。これを伐り倒したのは、いつだったのだろうか。

 1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのこと、周りの森は暗くて、その間にある空だけはやけに明るい境内を、大人たちが列になり黙りこくって参道の石段を下っていく風景を思い出す。
 社務所にいた芦屋からの疎開児童学級が持ってきているラジオで、敗戦の放送を聴いたばかりの近所の人たちであった。

 少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。少年のわたしは、ここを掃除させられるのに閉口していた。掃いても掃いても落ち葉はあるし、後から後から落ちてくる。むしってもむしっても草は生えてきて、一日中やっていても境内はきれいにならない。何日か順にやっていると、初めに草取りしたところはまた草が生えている。

 境内の西斜面はマダケの密生する竹やぶである。かつては竹藪の生育したマダケは、切り取って、竿や竹細工の材料使うことが多く街の人たちからも需要があった。今では誰も竹を伐らないらしく、藪は密集して大きく育っている。
 境内から街へ眺めは不可能となっている。眺めはともかくとしても、竹やぶはこれからどのように遷移していくのだろうか。

5.昔の山は薪炭や肥料をとる林

 高梁盆地は周りを豊かな緑の山にとりかこまれている。その緑の樹林の中身は、わたしが少年の頃は、標高の高い中腹や尾根あたりは、多くが常緑樹のアカマツであった。高梁盆地は林業地ではないからか、ヒノキや杉の植林地は見たことがなかった。

 中腹から山すそにかけては、ほとんどがコナラやクヌギのいわゆる落葉樹の雑木林であった。雑木林は燃料の薪や炭になるし、落ち葉は田畑の肥料になった。石油やガスがもとととなるエネルギー革命と化学肥料が普及するまでは、日本の山々はどこでもそうであった。

 御前神社の東にある裏山の社有林も、場所をくぎって毎年に順々に伐採していくクヌギを主体とする雑木林であった。5年くらいでまた高さ3~4mの樹林に戻るから、これをまた伐採するというサイクルで薪炭林として利用するのである。

 わたしも父の手伝いをして山に入り、木を伐り薪をつくったことがあるが、親にも子供 には重労働だった。炊事も風呂ももちろん薪である。父は境内の自宅のそばに炭焼き窯をつくって、自家用の炭を作っていた。

 農家では、毎年の落ち葉を集めてきて、堆肥にして田畑の肥料になるのであった。
 2011年の春にネパールに行ってきたが、そこの農村部では今も山々は薪となり肥料となる資源である生活が普通に行われていて、少年の頃を思い出させてくれた。

 少年頃に眺めていた高倉山や稲荷山の尾根の上は、松の疎林で向こうが透けて見えていた記憶がある。臥牛山もおねあたりは松林だった。
 また山肌のあちこちがまだらな虎刈りになっていたし、砂の山肌がいつも現れているところもあった。その頃、いつもどこも緑が濃かったのは、松山城のある臥牛山だけであった。国有林で伐採禁止だったのだろう。そのことは戦前の古写真をみても分かる。臥牛山は黒いのだが、ほかの山は総じて色が薄いのである。

 しかし、最近の高梁盆地の山々は、どこも緑が濃い。わたしは最近の高梁の山に入っていないからよくわかないが、かつての雑木林や松林は変化しつつあるはずだ。
 それは、いまでは薪炭はオイルやガスにとって代わり、堆肥は科学肥料になったから、高梁盆地の周りの山々を伐採することはなくなったからである。高梁ばかりか、日本のどこでも里山の山林を伐採しないままにしておくと、植物の自然遷移現象がおきるのである。

6.変化していく山の緑

 長い年月をかけてしだいに植生相がとり替わっていって、臥牛山のような照葉樹林となるのである。臥牛山は、アラカシ、シラカシ、スダジイ、タブノキ等が昼でもうす暗く樹冠をおおう照葉樹林となり、それに針葉樹のモミも多く混じり、林内にはサカキ、ヤブツバキ等がはびこり、稜線にはアカマツが多かった。
 これはこの地域の自然に近い植生相で、自然の本来の姿であり、人間の干渉がなくなると元の姿に戻っていくのである。盆地の周囲は今はどこも濃い緑であるが、緑の色に違いがあるのは、その遷移の時間差であろう。この植生の遷移についても、わたしは宮脇昭さんから教わったことだ。

 わたしが長らく住んだ鎌倉もまさにそうであった。鎌倉も街を丘陵がとりかこむのだが、50年ほど前までは松林と雑木林であったのは、薪炭林だったからだ。燃料や肥料の工業化によって山林に人手が入らなくなり、加えて古都として景観の保護として丘陵の開発や樹林伐採を厳しく規制したので、今では夏も冬も緑の濃い照葉樹の常緑樹林になりつつある。

 その豊かな緑が鎌倉の風格を維持しているともいえるのだが、それは高梁についてもいえるのである。
 高梁盆地の山々は山 林経営の場ではなかったらしく、わたしの少 年期にはヒノキやスギの植林を見たことがなかった。
 ところが、最近になって気がついたのは、わたしがいた頃の御前神社の裏山は薪炭林の雑木林だったのだが、それが今では大半がヒノキ植林地になっているのである。15~20mくらいの高さになっているが、1980年代ころに植林したのだろうか。

 これは多分、そのころからプロパンガスが普及して、裏山は薪炭林としての必要性がなくなったので、神社運営の資産となるようにとヒノキ植林をしたのであろう。だが、昔から林業が盛んではない高梁盆地で、枝打ちや間伐などきちんと保育しているのだろうかと気になる。

7.山々への思い出

 朝、境内から街を見渡すと盆地の中は一面の霧のなか、見回しても山々も家並みも見えない真っ白な世界となる日がたびたびあった。
 霧の中に沈みこむように、少年のわたしはなにかを期待しつつ石段を下って学校に行く。そんな霧の深い朝の日は、必ず一面に晴れ渡って青空が広がるからだ。
 その霧の上に出て周囲の山々から見下ろすと、盆地はまるで湖のように霧を湛えている。わたしは残念ながら、朝早く山に登ったことはないので、その夢幻的な風景を見たことはない。

●秋葉山(あきばさん)・御前山(おんざきやま)
 盆地周辺の山々の中で、もっとも親しみのあるのは秋葉山である。盆地の東から突き出している小山で、北半分を通称御前山といって御前神社の所有地であるから、わたしにとっては裏庭である。
 そこは薪を取り、栗を拾い、キノコを採り、あるいはなんとなく散歩がてらに登って南の秋葉山頂へまわってくる、日常の里山であった。その頃の秋葉山の山頂と尾根は、砂の山肌が出ていた。

  秋葉山については、特別な思い出がある。それはわたしが、多分、中学生の1年生かその前後の歳だっただろうか。
 ある日の昼まえ、境内の端からいつものように街を眺めていた頭を回して、秋葉山の中腹の雑木林に目を移していった。初夏だっただろう、新しい葉が黄緑に繁る林の樹冠からは、レモンイエロウの炎がたっているようだった。(昔の絵と現在の写真参照)。

 それはいつも見ている風景だが、突然、私の心のなかで何かが動いた。うまく言えないが、そう、四季が見えた、自然の移り変わりをはっきりと感じたのだ。 これまでいつも同じに見えていたこの風景は、じつは同じじゃなかったのだ、この世界には四季があり、いつも変化しているのだ、と、気がついたのである。 風が吹いている、こずえの葉がそよいでいる、色彩がある、雲が行く、陽光がふりそそいでいる、それらが見えてきた。いつも見ていた風景が、生き生きとわたしに語りかけてきたのである

 小さな子には四季なんてものはなくて、毎日毎日がそれぞれ別々の独立世界だったのが、その日から、私のまわりには毎日連続する時間が生れ、季節が巡りだした。思うに、そのときから思春期に入ったということだろうか。
 こう書いていると、なんだか自分でも絵空事のような奇妙な感じである。でも、そのときの風景は、もう半世紀を超える前のことなのに、いまもはっきりと目に浮かぶ。
 
 今、ふるさとの同じところに立っても、その雑木林の手前に家が立ち並んでいて、当時と同じ風景を見ることはできない。だが、まぶたの中の風景は昔のままに、畑の向うの林には若葉が萌え、いや、燃え立つのである。

 このことはこれまでも、ときどき思い出したように人に話したことがあり、わたしのウェブサイトにも書いた。ひとりだけだが仕事上の友人が、高校生になってそのような経験があったと教えてくれた。

 これに関連して、気になっていることがある。小説の主人公がこれと同じ経験をする場面があったのを、高校生の頃に読んだような気がする。おぼろげなのだが、ヘルマン・ヘッセが書いた小説だったような記憶がある。それがどの小説かその後に探しているが見つからない。春が来るたびに、老い行く身にもみずみずしい少年の日があったと、ちょっとロマンチック(センチメンタルか)な気分になる。

●臥牛山(がぎゅうざん)・お城山(おしろやま)
 盆地の北に立つお城山といっていた臥牛山は、御前山に次いでもっとも親しかった山である。城はまだ今のように美しく修復されていない天守と櫓と石垣だけであった。
 数えたことはないが、中学生になって以後は1年に10回以上は登っていたような気がする。もちろん今のような自動車ルートはないから、歩いて登るのである。

 郷土の歌人の藤本孝子さんの歌集「春楡のうた」に、このように臥牛山を詠う。

 頂上の城を目指してのぼりゆく抜け穴がきっとあるとおもひつつ

 実はこれには笑ってしまった。わたしも幼時からずっとそう思っていて、夢の中ではもう何回もその抜け穴を通って登り降りしたことがあるのだ。高梁盆地の誰もがそう思っているのかもしれないと嬉しくなった。さすがにこのごろはその夢を見ないのが残念である。
 夢といえば、むかしは空飛ぶ夢をよく見た。神社の境内から飛び出して、石段下の鳥居をこえて街の上空を飛びまわったものだが、、。

 それは高校生のときだったが、5~6人の同期悪がきたちと、夜中に臥牛山に登ったことがある。天守の前の広場で、もってきた食い物飲み物をひろげ、焚き火をしながら騒いだのであった。その帰り道で野猿が周りで鳴きさけんで怖かった。実は向こうも怖かったのだろう。
 ところが次の日に仲間が教えてくれたのだが、街から山上に見える天守の白壁が焚き火で赤く照らされていて、気づいた街の人たちで火事のようだとちょっとした騒ぎになっていたのだそうだ。あれは悪いことだったのだと、気がついた。

 またある日、数人の悪がきたちと共に、登山道の途中にあった身丈ほどの石地蔵を、ふもとまで転がして降ろしてきた。この地蔵はもともと頭が欠けていたので、替わりにバスケットボールに目鼻を書いて乗せ、高校の校庭の一角に安置しておいた。
 しばらくそこにあったが、ある日なくなっていた。まわりに聞けば、教師たちがこの地蔵尊に花水を供えて経を上げ、元の場所にもちあげて返して差し上げたのだという。あれは悪いことであったかと気がついたのであった。

●愛宕山(あたごさん)
 
東にある愛宕山にも、なんどもいった記憶があるが、臥牛山ほどではない。この山の上には寺院だったか神社だったがあった。臥牛山から尾根伝いに行ったこともある。
 ここで夏に花火を打ち上げる日があった。遠く暗い夜空に小さく花火がはじけると、山容がぼ~っと浮かび上がるのも、はじける音がずいぶん遅れて聞こえるのも、幻想的であった。

●高倉山(たかくらやま)
 南の高倉山には、多分、1回しか登ったことはない。一面の松林であった記憶がある。
 一緒に行った三峰という男が、島崎藤村の「唐松の林にいりて、唐松の林を出でぬ、唐松はさびしかりけり、云々」という(もううろ覚えだが)詩を吟じたのは、ロマンチックが好きな高校時代の記憶である。
 もう今は、植生遷移で松林は残っていないか、あってもわずかだろう。

●稲荷山(いなりやま)・方谷林(ほうこくりん)
 西の稲荷山から北に続く尾根筋には一度も登ったことはない。わたし生家からはそちらが良く見えるので、あの向こうには何があるのだろうとなんとなくあこがれていた。その向こうに初めて行ったのは、ずっと後の1996年の高校同期会のときであった。

 西の山はなんといっても方谷林である。母の里が鍛冶屋町だったし、その墓が蓮華寺にあったから、方谷林は親しみやすい。ここは幼稚園で遠足にいったような気がする。今はどうか知らないが桜の名所であり、一家で弁当を持って花見にいった記憶がある。

 ここからの盆地の眺めが、生家の境内からの眺めとがセットになって、わたしの脳裏に宿った盆地景観の原点である。

  降り立ちて城山を問ふ人あれば鞴峠のあたりを指さす

緞帳を上ぐるがに霧晴れゆきて緞帳のごとき秋の山見ゆ

結局はこの山山に守られてゆったりと我は子を育て来し

晩秋の山から山へ虹が渡り盆地の町の華やぐ夕べ

 藤本孝子さんの歌集「春楡のうた」に詠う山の歌で、この駄文エッセイでも格調高く閉じることができた。

(2012.01.03)

●参照→ふるさと高梁の風景