近代国家となった日本が歩んできた歴史は、まさに戦いの歴史だったと言えます。
明治に入ると幾度となく外敵による国家存亡の危機に直面します。
かつての日本人は外国の侵略に対して一致団結し、家族や祖国を守る為に命を懸け勇敢に立ち向かったのです。
しかし最後には、アジアで唯一軍事力を持つ日本は世界中のアジア侵略の野望を相手に、アジアの為に、そしてなによりも日本を侵略から守る為に戦い、遂には敗れてしまいます。
ですが日本の奮闘はアジア諸国民の心を動かし、アジア侵略を夢見る白人達の野望はその後、彼らの勇気により敗れ去る事となります。
日本は大東亜戦争に敗れましたが、アジアすべての国々は日本の勇気ある戦いぶりを見てそこから学び、自分達の力で独立を果たしたのです。
日本も1952年(昭和27年)には待望の独立を果たし、その後アジアの国々はかつての日本が夢見た通りに、すべて独立を果たしました。
みなさんは学校で「日本は侵略戦争をした」と習うと思いますが、それは大変な誤りです。
本当は侵略をしようてしたのはイギリスをはじめアメリカ・オランダ・フランス・ロシア等の白人達だったと言う事を知らなくてはいけません。
このページでは、日本が「大東亜共栄圏構想」のもとにアジア諸国の独立の為に行った事、アジア諸国が行った事を一部ですがご紹介したいと思います。
1941年(昭和16年)12月8日未明、日本はアメリカ・イギリスに対して宣戦を布告し、大東亜戦争に突入しました。
しかしミッドウェー海戦の敗北を機に次第に戦況は悪化の一途をたどり日本に敗北の兆しが見えてきた頃、イギリスの植民地支配からの独立を願うインドの指導者チャンドラ・ボーズが日本に支援を求めてきました。
チャンドラ・ボーズ
日本軍はインドの反イギリス独立勢力の支援と、混迷する戦局を打開するために3個師団によるインド要衝インパールの奪取を目指しました。
これをインパール作戦といいます。
日本軍はインド国民軍と協力し、河幅600mのチンドウィン河、標高2000mを超えるアラカン山脈を越え、イギリス軍とイギリス軍インド部隊を圧倒します。
そのうちイギリス軍インド部隊25万人は日本軍と協力しインドを独立させようと方針を変え、日本軍に協力しだしました。
そして、ついにイギリス領であるインド国内に念願のインド国旗を掲げます。
ところがイギリス軍の抵抗は頑強で、空輸による食料や弾薬の補給を行い連日反撃してきます。
しだいに日本軍は補給線を断たれ、飢えと病気に苦しめられていきます。
この頃の日本兵の一日の食糧は一人米粒5個だったといいます。
極限を迎える日本軍に雨季の豪雨が襲い、牛や馬は流され、死者が続出し、ついに撤退を余儀なくされます。
これを指揮した牟田口廉也(むたぐち れんや)陸軍中将は、始めから「補給線無しのこの作戦は成功の見込みは無い」と反対する他の参謀達の意見を聞かず、言わば自身の手柄の為に無理矢理作戦を決行したのでした。
牟田口廉也 陸軍中将
この作戦で亡くなった日本兵は約50000人、インド国民軍兵は約3000人にものぼり、戦後も大東亜戦争で最も無謀な作戦の一つとして語られています。
しかしこの作戦による日本軍の勇気は、後のインド人達に独立に対して立ち向かう勇気と決断を与える事となりました。
戦後イギリスは 「インパール作戦に参加したインド国民軍は反逆者である」 として、3名の将校を処刑しようとしましたが、これがインド国民の怒りを買い抗議運動がインド全域に広がっていきました。
この抗議運動はインド国民軍の暴動にまで発展し、事態収拾が困難になったとしてイギリスは統治権を譲渡し、相当な年月がかかると思われたインド独立はパキスタンと共に1947年(昭和22年)8月15日に実現しました。
インド国民軍退役軍人デロン中佐は、その後日本に手紙を出しています。
「日本はインドにとっては良い国だと思います。 日本はチャンドラ・ボーズと共にインド独立の為に戦ってくれました。 これははっきり言えます。 インドは日本軍の犠牲により独立する事が出来たのです。 もしあんなに犠牲者を出さず、又インド国民軍に協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は自分達の方針を変えなかったでしょう。 25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ・ボーズの軍となったことにより、イギリスから独立することが出来たのです。 私達は常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。 最後にもう一度、ありがとうございました。」
インド最高裁弁護士P・N・Lekhiの手紙
「太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。」
日本軍の勇気がインドの独立のきっかけとなった事は確かです。
インドネシアは350年以上もオランダの植民地になっており、その文明はかなり遅れたものでした。
彼らはインドネシア語の使用を禁じられており、オランダ語の使用を強いられていました。
また彼らはオランダ人の奴隷のような生活を強いられていました。
一説によれば彼らの平均寿命は35歳にまで低下し、文字を読み書きできる人はインドネシア全人口でわずか5%程だったと言われています。
そのインドネシアには、12世紀頃の国王ジョボヨヨによる一つの言い伝えがありました。
「今に北方より黄色い強者が白い布をまとい空から降り、圧政者を追放してくれるだろう」
その後日露戦争での日本の勝利を耳にしたインドネシア人達は、その黄色い強者が日本軍の事だと、にわか信じるようになっていきます。
そして30数年後、大東亜戦争開戦によりオランダ軍制圧のために空から降りて来たのは、白い落下傘を身にまとった黄色人種である、無数の日本軍兵士達でした。
ジャワに降り立つ、日本軍落下傘部隊
日本軍空挺(落下傘)部隊を見た彼らは、 「これがまさに伝説の白い布をまとった黄色い救世主だ」 と思ったと言います。
インドネシアに降り立った日本軍は、わずか9日あまりでオランダ軍を追い払ってしまいました。
その後駐留した今村 均(いまむら ひとし)陸軍中将をはじめとする日本軍は、オランダ軍が降伏する直前に破壊した石油施設を復旧させると、オランダ統治時代の約半額で石油を販売して、それまで許されていなかった様々な物造りを教育し、一日でも早くインドネシア人が自立できる環境を作り、インドネシアの工業発展に貢献します。
今村均 陸軍中将
また、道路を整備したり鉄道をひいたり、学校を設立し子供たちを教育したりインフラ整備に努めると共に、青年道場を設立しインドネシア人にオランダが禁止していた軍事訓練を施し、銃の使い方を教えペタ(祖国防衛義勇軍)を結成させ、それまでオランダ語を強要されてきた彼らにインドネシア語を使うよう命じました。
インドネシアの若者に銃の使い方を教える日本兵
つまり彼らに、民族の誇りと自信を持つ事が独立への第一歩であると教育したのです。
こうして今村中将率いる日本軍のもとに軍事教育を受けた青年達は、後の独立戦争時に結成される軍事組織で中心的な役割を果たすことになります。
同時期に日本はインドネシア独立の方針を推し進め、インドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁し、独立準備委員会を発足させ、オランダにより流刑されていたスカルノやハッタ等の指導者を呼び戻し、インドネシア独立宣言をさせました。
その後大東亜戦争に敗れた日本軍は、インドネシアから撤退する事となります。
そこへまた、オランダ・イギリスをはじめ白人達がインドネシアを取り戻そうと攻め込んで来ましたが、そこには日本に帰らなかった日本軍将兵達がいました。
なんと彼らはインドネシア人達に、
「我々は日本には帰らない。 我々にはこのインドネシアの独立を果たす義務と責任がある。」
と言い、残った弾薬をかき集めて自分達が軍事訓練をしたインドネシア人達に渡し、銃だけではなく日本刀や竹槍、毒矢等まで使ってインドネシア人と共に戦ったのです。
それを見たインドネシア人の群衆も「ムルデカ(インドネシア語で独立の意味)」を合言葉に勇気を振り絞り、共に白人達へ立ち向かったのです。
そして遂にその勇気に恐れをなしたオランダ・イギリス軍は、インドネシアから撤退を余儀なくされたのです。
こうしてインドネシア人と共に戦い、インドネシア独立を見届けた日本軍将兵達はその後日本へ帰った者もいましたが、生涯をインドネシアで過ごした人もいました。
そして現在でも、独立記念日のパレードでは日本の軍歌が誇らしげに歌われ、独立戦争で命を落とした日本人のお墓へみんな揃って花を供え、日本人に感謝の誠を捧げています。
ちなみに独立戦争で戦死した日本人の墓石は、インドネシア人の墓石より大きく、日本人の墓石に向かってインドネシア人戦死者の墓石が整列する形で並べられています。
パラオ共和国は南洋のマリアナ諸島にある、珊瑚礁が美しい小さな島国です。
ここもまた大東亜戦争時には激戦地となった場所です。
現在のペリリュー島
パラオは第一次世界大戦までドイツ領でしたが、ドイツが敗戦した後に国際連盟からの委任により、1914年(大正3年)から31年間日本統治下に置かれました。
日本統治となったパラオに対し、政府は農業を促進し、缶詰工場等を建設し雇用を促進、道路の舗装をはじめ電気や電話を通し、日本式教育方法等インフラ整備を積極的に行いパラオ人すべてに伝染病数種の予防接種を受けさせ、日本国民として対応しました。
日本統治下のパラオの学校
当時のパラオ南洋神社
パラオの人々は 「日本式の学校教育は厳しかったが、小学校1年生になると全員が掛け算の九九を暗記し、文字の読み書きが出来るようになった」 と当時を振り返ります。
パラオでは現在でも神輿(みこし)をみんなで担いで日本式の祭を行っており、昭和天皇即位六十周年記念祭や今上天皇即位二十周年記念祭を行っているほど、日本文化が根付いています。
大東亜戦争時の1944年(昭和19年)9月、ペリリュー島には日本軍守備隊が地下要塞を築き上げ、迫り来るアメリカ軍を待ち構えていました。
パラオ人は日本兵と共に生活し仲良くなり、日本の歌を教わり一緒に歌ったりして楽しく過ごしていました。
アメリカ軍との戦いを目前にパラオ人達は相談し、日本軍と共に戦う事を決意します。
そしてパラオ代表ら数名が日本軍守備隊指揮官・中川州男(なかがわ くにお)大佐にその事を申し出ます。
中川州男 陸軍大佐
ところが中川はそれを聞くなり激高し
「我ら帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
と叫びました。
日本人は仲間だと思っていたパラオ人達は裏切られた思いで、みな悔し涙を流しながらがっかりしました。
数日後、戦闘を前に避難のするため船に乗って島を離れる時がきましたが、日本兵は誰一人見送りに来ませんでした。
「やはり日本人は我々を見下していたのか・・・」
パラオの若者達は再び肩を落とし、悔しさと悲しみにくれて船を出発させました。
船が島を離れた瞬間日本兵全員が浜に走り寄り、共に歌った日本の歌を歌いながら手を振り彼らを見送りました。
なんとその先頭には、笑顔で手を振る中川の姿がありました。
その時彼らは初めて中川の気持ちを悟りました。
あの時の言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・
その後9月15日より始まるアメリカ軍との死闘の末、「サクラ サクラ」の電文(重要機密書類の廃棄後に全軍玉砕、の暗号)を日本本土へ打電した後、日本軍守備隊は玉砕しました。
戦闘が終わり島へ帰ったパラオ人達の目に映ったのは、この間まで一緒に過ごしていた日本兵達の遺体の山、そしてアメリカ兵達の遺体の山でした。
その時、島に帰った彼らは確かに見たのです。
「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。 我らはここに、征服民族の本性を見る。」
その後彼らは日本兵の遺体をすべて手厚く葬り、日本人達がいつ来てもいいようにと、その後も墓地の清掃を心掛けているといいます。
現在パラオ共和国で使用されている切手には日本軍戦闘機が描かれており、パラオ国旗は「水色地に黄色い丸」で、これは日本国旗である「日章旗」をモチーフにデザインしたもので、太陽(日の国である日本の意)に照らされた青い海の上の月をイメージし、中心に「丸」を持ってくると日章旗と同じになる事をおそれ多いとし、少し左にずらしてあります。
1990年代には、日本敗戦後にアメリカ軍により取り壊された「南洋神社」「ぺリリュー神社」がパラオ人の手によって再建され、パラオ本島とコロール島を結ぶ連絡船(戦後日本の資金援助により建造)の名前をパラオ人は「YAMATO」と命名しています。
当然これらは日本人が押し付けたものではなく、パラオ人自らが決定したものです。
日本は自国はもちろんアジアを守る為に必死に戦いましたが、遂には白人達に敗れてしまいました。
しかし、開戦当初の「大東亜共栄圏」の理念によるアジア解放の本当の意味での戦いには勝利を収めたのかもしれません。
日本人やアジア諸国の勇気の末、白人達はすべての植民地を失ってしまったのですから・・・・