1943年(昭和18年)9月29日、船舶部隊の拡大にともない船舶兵種を創設し、11月に船舶特別幹部候補生制度が設けられました。
この頃、落下傘部隊の菅原久一陸軍大尉が自ら率いて敵に当たる為の速力50ノットくらいの高速艇の作製を陸軍省に意見具申します。
しかし軍中央部はこのような決死兵器には同意しませんでした。
翌年昭和19年4月、広島にある陸軍船舶司令部内で鈴木宗作(すずき そうさく)司令官以下関係者から、 「海上の防衛は航空部隊のみに任せることなく、船舶部隊自らの手によって実施すべきである」 との意見が強まり、簡単に製作でき軽量の攻撃艇の開発が実施されることになります。
これと同時期、大本営陸軍部でも同じような意見が出され、開発されたのが秘匿名称連絡艇マルレ(〇の中にレと書きます)です。
この船は長さ5.6m・幅1.8m・満載排水量1.5t・速力20~24ノット・航続時間3.5時間・自動車用の150馬力エンジン搭載で、250kgの爆雷一個を装備したベニヤ板で出来た、一人乗りで搭乗員自らが操縦し敵艦船に体当たりする特攻兵器でした。
この艇は非常に貧弱な構造で、敵に見つかるとほぼ確実に撃沈されることから、出撃は日没後としました。
主に陸軍の戦地に配備され、フィリピンや沖縄に多く配備されました。
搭乗員は16才~25才の若者達で、約1640名がこの特攻作戦で亡くなっています。
現在でも沖縄に行くと海岸沿いの洞窟に「マルレ」が置いてあり、実際に見る事ができます。