満州事変後の「塘沽(タンクー)停戦協定」はある問題を抱えていました。
日中両国には特に問題はありませんでしたが、共産主義を世界に広めたいソ連にしてみれば、この日中両国の停戦は日本軍が対ソ連への軍備を整える余裕を与える、と考え焦りました。
その頃中国では、蒋介石率いる国民党軍が中国共産党軍を華北まで追いやり、共産党軍はほぼ壊滅状態でした。
それを知ったコミンテルン(国際共産党)は、この危機を打開するために中国共産党軍へ蒋介石と妥協して日本軍と戦うようにとの指令を出しました。
そのためには、蒋介石の国民党軍と日本軍を戦争状態へ持ち込むのが手っ取り早いと考え、1937年(昭和12年)7月7日、北京にある廬溝橋で演習中の日本軍へ発砲したのです。
廬溝橋事件です。
日本軍にとっては攻撃してきたのが、中国共産党軍なのか国民党軍なのかは区別がつきませんでしたが、発砲してきたのが中国の軍隊というのは確かです。
中国との関係が崩れてはいけないと考えた日本政府は、直ちに不拡大方針を発令し、廬溝橋近辺では停戦協定が結ばれました。
しかし、中国側はこの協定を守らずに攻撃を繰り返しました。
7月29日には約300人の日本人が虐殺された通州事件が勃発、8月には上海事変が起こり、双方が宣戦布告なしに全面戦争へと突入していきました。
日本政府は、この戦争により日本軍の武力を見せつけ、日中両国の問題を一気に解決しようと考えました。
当時、武力は政治の一手段でしたので、世界第三位の軍事力を持つ日本はその力にものを言わせ、合法的に中国との関係を元通りにしようとしたのです。
日本軍は一気に上海を占領し、12月13日には国民党政府の首都である南京を占領しました。
実はこの時、既に南京防衛軍司令官は逃亡しており、国民党兵士も服を脱ぎ捨て安全区へ逃げ込みましたので、大した戦闘もなく日本は南京を陥落する事ができました。
日本はこの圧倒的武力を背景にドイツのトラウトマン駐華大使の仲介で、国民党政府の蒋介石に和平を迫りました。
この時の和平条件は、日本軍がこれまで抑えていた華北にて国民党政府・行政の保証、国民党政府と協力し中国の共産化阻止などで妥協し、蒋介石へ対し紳士的に対応しました。
蒋介石は和平を討議する基礎とし、この案を受け入れると連絡してきましたが、日本は政府と軍部の連絡調整がうまくいかず陸軍が南京を占領してしまい、交渉は決裂してしまいました。
すでにこの頃になると、日本国内では陸軍が権力を持ち始め、軍部の暴走が始まっていました。
戦争は激化し、戦火は徐州・広東・武漢など中国全域に拡がっていきました。
日本軍が南京を占領した後、国民党政府は首都を重慶に移し徹底交戦の構えを見せていました。
日本軍は重慶をも攻撃しますが、なかなか占領する事ができませんでした。
実は、イギリスやアメリカ、ソ連が大量の資金や弾薬、食糧等の物資を蒋介石政府に援助していたのです。
イギリスは以前より中国にたくさん利権を持っており、日本が中国に勝つと自分達の利権を奪われることを恐れました。
アメリカは日本のこれ以上の大陸への進出を阻止したかったのです。
そしてソ連は先に書いた理由ともう一つ、なんとしても中国を勝たせた後、中国共産党軍を使い蒋介石の国民党政府を潰して中国を共産主義にし、すべての利権を手に入れたかったのです。
1940年(昭和15年)、日本軍は蒋介石を援助する為のルート「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断するために、ビルマ(現在のミャンマー)に進駐します。
イギリスはビルマから、フランスはインドシナ(現在のベトナム)から中国へ援助物資を送っていました。
翌1940年(昭和15年)6月には前年より始まった第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏し、9月に日本軍はインドシナ北部に進駐します。
その同じ月に日本はドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結します。
そして日本軍は、翌1941年(昭和16年)7月にはインドシナ南部へと進駐します。
インドシナはフランス領でしたが、その時すでにフランスはドイツ占領下に置かれていたので、日本はドイツとフランス本国の合意を得てインドシナへ進駐したのですが、かねてから日本に対して警戒心を強めていたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、日本への石油輸出全面禁止措置をとります。
フランクリン・ルーズベルト
当時(現在も同じですが)資源が乏しい日本は石油を海外から輸入しており、そのうち約80%をアメリカから輸入していました。
石油が無ければ軍艦も飛行機も動く事ができません。
アメリカとの戦争を危ぶみ、外交交渉の継続を希望していた時の首相・近衛文麿(このえ ふみまろ)は、一部の軍部の強行論を押さえきれずに10月に辞職し、後任に陸軍大臣だった東条英機(とうじょう ひでき)が首相となります。
こうして窮地に追い込まれていった日本は、中国との泥沼化した戦争のさなかアメリカとの関係までもを戦争により打開せざるを得なくなっていきます。
そして遂に1941年(昭和16年)12月8日、ハワイ真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃、同日マレー半島のイギリス軍を攻撃し、対米英戦争を開始しました。(大東亜戦争)
その後、日中戦争は大東亜戦争と並行して行われ、1945年(昭和20年)8月15日に大東亜戦争と共に日本軍の敗北により終結します。
※日中戦争での日本の対戦国は、現在の中華民国(台湾)であり中華人民共和国(中国)ではありません。
日本は現在の中国とは一度も戦争状態になったことはございません。