日本が世界に誇る兵器、航跡を残さない九三式酸素魚雷を改造し操縦席を設け、直接人間が操縦出来るようにした有人魚雷を回天といいます。
人間魚雷「回天」(レプリカ)
回天とは、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味です。
搭乗口のハッチは中からは開かず前進しかできない構造になっていたといいますが、実際には海軍は脱出装置の取付を義務付けており、ハッチは中からでも開く仕組みだったと言われていますが、沈没の際には水圧によりハッチを開ける事はほぼ不可能だったとも言われています。
この「回天」は前部に1550キログラムの炸薬を搭載し、敵艦船に体当たりさせる事により命中すれば戦艦をも轟沈する威力を持っていました。
回天の基地は山口県徳山市大津島にあり、ここから潜水艦に載せて敵艦までの航続距離に達した後に発進します。
航空機による神風特攻隊と異なり極秘任務であったため、搭乗員は誰にも見取られずに出撃して行きました。
当初海軍はこのような特攻兵器の開発には反対でしたが、回天提唱者である黒木博司中尉と仁科関夫少尉の再三に渡る上申「血書」などの嘆願により昭和19年8月1日、ようやく採用されました。
そして昭和19年9月1日より訓練が開始されます。
6日に黒木大尉(昇進)と樋口孝大尉は自ら試作機へ搭乗しますが荒波により故障、海底に沈没してしまいます。
彼らの最期の手記には遺書とともに、残りの酸素が少なくなり手足が痺れ意識がもうろうとする様子や、自分達の犠牲により回天だけではなく未来の日本の工業技術の進化発展を願う言葉と正確な事故報告が書き残されていました。
この故障事故での彼らの犠牲により回天は改良され、さらには 「黒木大尉に続け!」 と他の搭乗員たちの士気を高める結果となりました。
そして1944年(昭和19年)11月8日ついに回天特別攻撃隊「菊水隊」の潜水艦伊36・伊37・伊47は、回天を4基ずつ搭載し大津島を出航、初の出撃を果たします。
回天特別攻撃隊の特攻隊員はすべて志願者で、17才~28才の未来ある若者達でした。
回天特攻による戦死者は106名ですが、それを搭載する潜水艦で帰らなかったのは8隻で、その乗組員は810名にも及びます。
「回天」の上で軍刀を振り、別れを告げる特攻隊員たち
回天には「菊水」が描かれていました。
「菊水」とは、楠木正成(くすのき まさしげ)の家紋です。
楠木正成は後醍醐天皇につかえ、神戸湊川にて足利尊氏との戦いで敗れ自害した、鎌倉時代から室町時代初期の武将です。
楠木正成の生涯は、尊皇派武将としてだけではなく敵を目前とした戦いに死を覚悟して敵を都より遠ざけ、七生報国を唱えた潔い死に様を見せた事から、日本軍人の手本とされていました。