士官学校時代の小野田寛郎
終戦の前年1944年12月31日 、小野田の部隊はフィリピンのルバング島へ派遣されました。
小野田はマニラがあるルソン島に上陸を試みるアメリカ軍の進撃を阻止するため、マニラから南西約150km先にあるルバング島の飛行場の破壊などの命令を受け、長期持久戦の準備やゲリラ戦術の指導に着手しました。
小野田は陸軍中野学校二俣分校を出ており、ゲリラ戦 の訓練を受けていました。
陸軍中野学校とはゲリラやスパイを養成する、帝国陸軍の特殊機関です。
そこで小野田が学んだのは、本来の帝国軍人は戦陣訓に書かれていた「生きて虜囚の辱めを受けず」(不利な立場に陥った場合は潔く名誉の自決をせよ)という通常の教えとは正反対の「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延び、できる限り生きて必ず任務を遂行せよ」という教えでした。
1945年2月27日、小野田たちは訓練の効果が十分に上がらないままアメリカ軍の来襲を迎え、海兵隊50名の上陸を許すことになります。
翌日にはさらに1個大隊のアメリカ兵約1000名が上陸し、日本軍の各隊はアメリカ軍の艦砲射撃の大火力に次々に撃退されていき3日間の戦闘の後、総指揮官・月井大尉の命令で組織的戦闘は終了、各隊は個別行動に移行します。
小野田はマニラ出発時に受けていた「飛行場と桟橋を爆破せよ」という命令を果たせぬまま、島田庄一伍長、小塚金七上等兵とともに島の山間部に避難しそのまま攻撃の機会をうかがい続けましたが、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し武装解除してしまいました。
3人は上官からの武装解除の命令がないということでそのまま作戦を継続し、島が再び日本軍の制圧下に戻った時に備えて密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をします。
しかし日本軍は小野田たち3人とまったく連絡が取れない状態だということで、1945年9月に小野田たち3人の戦死公報を出しました。
小野田たちが玉砕したと判断したのです。
ところが1950年、地元警察へ投降した他の日本軍兵士の証言により、小野田たち3人の存在が明らかにされました。
しかも小野田たち3人はその後も持久戦により、アメリカ軍を百数十回も襲撃しています。
1954年には小野田と同行していた 島田庄一伍長が死亡します。
その後フィリピン山岳部隊が島田庄一の遺体を発見し、フィリピン政府は日本の残留兵捜索隊とともに小野田たちの捜索を行いましたが、小野田たちを見つけることはできませんでした。
その間にも小野田たちは山に籠り、粛々と作戦遂行の機会を伺っていました。
1972年10月19日 、小塚金七元上等兵が現地警察官に射殺されます。
その後すぐに日本政府は小野田の家族を連れてルバング島へ赴き、大規模な捜索をしました。
実は小野田はその様子を山奥から見ていましたが「家族はアメリカ軍に脅かされて自分を探しにきた」と勘違いし、再び山奥へ籠って一人でアメリカ軍を攻撃する機会を伺いつづけました。
その後捜索活動は何度も行われましたが、作戦を遂行できていない小野田は呼びかけには一切応じませんでした。
1974年 2月20日、一連の捜索活動に興味を持った日本の冒険家青年の鈴木紀夫が、山中で小野田との接触に成功します。
日の丸を掲げてテントを設営していた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられました。
鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えました。
落ち着きを取り戻し銃を置いた小野田は鈴木に「上官の命令解除があれば任務を離れる」といい、翌朝まで一緒に語りあっています。
小野田寛郎を発見した時の鈴木紀夫
小野田は終戦を知っていました。
それどころか、皇太子(平成天皇)のご成婚をはじめ東京オリンピックの開幕、東海道新幹線開業まで知っていました。
情報源は現地の住民から奪った短波ラジオや、日本からの残留兵捜索隊が山に残していった日本の新聞や雑誌でした。
それでも彼は、情報はすべてアメリカの謀略であり、友軍が密かに攻撃の機会を伺っていると考えていました。
なによりも彼に下された命令は、「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延び、できる限り生きて任務を遂行せよ」であり「日本敗戦後も機会を伺い、アメリカ軍飛行場を破壊壊滅せよ」だったのです。
3月9日、鈴木は小野田の元上官である谷口義美を連れてルバング島に再度上陸しました。
谷口は小野田に会って直接任務解除命令を伝達しました。
上官の命令を聞いた小野田は3月10日の夜、軍刀を持ってフィリピン軍基地に移動し、ホセ・ランクード司令官に対して投降を宣言しています。
このとき徒歩で移動する間、小野田を憎む住民らによる襲撃を予防するため、フィリピン空軍将校2名が小野田を護衛しながら移動しました。
小野田は30年間の作戦行動によって、フィリピン軍兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士など30人以上殺害したとされていますが、アメリカ軍には兵士の殺傷に関しての記録はなく、実際に殺傷したのは武器を持たない現地民間人が大半だったためです。
基地に着いた小野田は現地の司令官に軍刀を渡して投降しますが、司令官は「刀は武士の身体の一部であり、特別なものである」とし、その場で軍刀を小野田に返却しています。
その後小野田は記者会見などを終わらせ、マルコスフィリピン大統領へ再び軍刀を渡して、自らの投降を公の場で発表しましました。
そして1974年3月12日、日本の特別機で無事帰国を果たしました。
これにより約30年続いた小野田の長かった戦争は終わったのです。
余談ですが、小野田が投降した時に所持していた軍刀と三八式歩兵銃は非常に手入れされており、ピカピカだったといいます。
マルコス大統領に軍刀を渡す小野田寛郎
投降し敬礼する小野田寛郎陸軍少尉
日本政府は見舞金として当時の金額で100万円を贈呈しましたが、小野田は受け取りを拒否しています。
ところが半ば無理やりに見舞金を渡された小野田は、見舞金とその後方々から寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付してしまいました。
あるとき昭和天皇が是非ともお会いしたいとおっしゃられましたが、小野田は謁見を断ります。
理由は、万が一、天皇陛下が自分に謝罪することがあってはならないと考えたためでした。
私生活ではマスコミに追われる日々が続き、実家の上を飛ぶ取材ヘリコプターの音がゲリラ戦時の敵軍航空機の音となってフラッシュバックされるなど、平穏な生活は送れなかったそうです。
また、 30年たった日本の現状を受け入れられずに居ました。
そして帰国から半年後の1975年 、新生日本になじむことができなかった小野田は、ブラジルに住む兄を頼って日本を離れて移住し牧場を経営して過ごしました。
1984年からは「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰し日本とブラジルを行き来し、全国の子どもたちにキャンプ生活の極意や初歩的なサバイバル術などを指導しました。
小野田自然塾でロープワークを教える、晩年の小野田寛郎
そして2014年1月16日、帝国軍人として史上最長の戦争を戦い、自らが受けた軍国教育と大きくかけ離れてしまった祖国や国民に翻弄された壮絶な人生は幕を閉じました。91歳でした。