明治の日本では徴兵制度がはじまり、健康な男子はある年齢になると軍隊に入隊しなければいけませんでした。
1877年(明治10年)、その徴兵制軍隊の威力を実証する出来事が起こります。
明治新政府創設に貢献した西郷隆盛は、1873年に権力争いから参議を辞職、多くの薩摩出身者を連れて鹿児島へ帰ります。
その後西郷は私学校を設立、自分が理想とする思想を青年達に教育して明治政府と対決し、自分が理想とする国家政府を創ろうとしていました。
1876年には武士の身体の一部であり誇りである刀を取り上げる廃刀令、武士達への家禄支給を廃止する秩禄処分が実施され、ついに武士達の怒りは爆発していました。
その年10月に熊本神風連の乱や福岡秋月の乱など、武士達は反乱を起こし政府に抗議します。
しかしこれらの暴動は規模が小さく、すぐに政府軍により鎮圧されてしまいました。
しかし翌1877年(明治10年)西郷隆盛率いる薩摩軍が起こした反乱は、政府内部を詳しく知り尽くした者の集まりであった為、一筋縄では行きませんでした。
その規模は凄まじく大きく、政府軍の中でも
「この戦には勝てないかもしれない」
との意見すら出ていました。
この反乱は一月に私学校の生徒が政府の弾薬庫を襲い、武器等を強奪した事から始まりました。
西郷は挙兵には反対でしたが、その後の状況から仕方なく青年らに同意し、戦いがはじまりました。
西郷が戦いに同意したのは、実はそれまでに政府が西郷隆盛暗殺計画を企てていたためでした。
薩摩軍は戦の大義
「政府に尋問の筋あり」
と、暗殺計画を企てた政府を命を懸けて糾弾するつもりでした。
戦いは薩摩軍が一気に熊本まで北上する攻勢をかけましたが、三月の熊本県田原坂の激戦を境に薩摩軍は劣勢となり、そのまま鹿児島の城山まで押し戻され、ついには西郷隆盛の自決により戦争は終わります。
これを西南戦争といいます。
西南戦争
この戦いは、新しい日本の改革に対する不満が爆発した武士達の最後であり最大の抵抗でした。
しかし、列強に対応すべくして創られた新政府はすでに徴兵制度の軍隊を持ち、厳しい訓練を実施し確実に「強い日本」になる道を歩みはじめていたのです。
西南戦争では徴兵制軍隊の実力を充分に発揮し、その結果皮肉にも日本人対日本人の戦争により実戦可能な軍隊であるという事を実証したのでした。
その後日本軍は、この戦いの経験をもとに、より一層の近代的戦力を手に入れる事になります。