1894年(明治17年)、朝鮮南部(現在の韓国)で暴動が置きました。
宗教団体「東学党」が李朝政府に反発し地方官の虐政に対し蜂起、首都漢城に迫ったのです。
これを東学党の乱といいます。
「東学党」とは、朝鮮固有の民間信仰に儒教、仏教、道教の教えを合わせ持つ宗教団体で、邪教として李朝政府から弾圧を受けていました。
信者は李朝政府に不満を持つ志士や農民たちが多く、暴動はその不満が爆発したことによりに起こりました。
事態は大きく、自分達だけではどうにもならないと思った李朝政府は清国へ軍隊を要請したのです。
清国が朝鮮に軍隊を派遣した事を知った日本政府は、朝鮮にある公使館と日本人居留民保護の目的として、広島第五師団から編成された約7000の軍隊を派遣しました。
当時日本政府は清国が朝鮮を属国視し、日本の勢力を排除している事に不満を感じていました。
清国の朝鮮への軍隊派遣は、日本政府からすれば清国に対抗する為の軍隊派遣の恰好の口実でした。
しかし清国はこの事を予測しておらず、日本は軍隊を派遣して来ないと考えていました。
1894年7月25日、ついに仁川の西の豊島沖にて戦闘が始まり、8月1日には日清両国ともが宣戦布告しました。
日清戦争
9月には日本軍は平壌を占領、鴨緑江を渡り清国領土内に攻め込みました。
翌年1895年2月、威海衛で清国北洋艦隊の降伏により、事実上日本はこの戦争に勝利しました。
実は両国の軍事力には、さほど差はありませんでした。
日本は明治維新以降、憲法発布と国会開設によりアジアでは何処も行っていなかった徴兵制軍隊を創設し、アジアの大国、清に勝利したのです。
一方清は、国益を考えず派閥争いをする政治家、賄賂が横行する役人の腐敗、近代化の遅れにより敗れたのです。
日本はこの勝利により幕末以来の不平等条約改正のきっかけを作り、東アジア市場において欧米列強と経済的競争をする機縁を得ました。
そして、この戦争の講和で清国は当時の金額で賠償金約3億円を日本政府へ支払い、
「遼東半島・台湾・澎湖諸島の主権、城塁、兵器製造所、官有物を永遠に日本に割譲する。」
「日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。 ただし賠償金支払いに不備があれば引き揚げない。」
「清国にいる日本人俘虜を返還し、俘虜および日本軍に協力した清国人の虐待や処刑を禁止する。」
などを講和条約に盛り込み、日本人だけではなく清国人の安全をも保証させました。
そして戦争が終わり賠償が済んだらすぐに日本軍を撤退させると約束し、その通りに軍隊を引き上げました。
それは、 日本人は約束は必ず果たす。 武士道そのものである。 と言う証でもありました。
敗戦をきっかけに清国は、イギリスをはじめとする欧米列強の経済進出と領土分割がそれまでより加速され、その後経済的にもさらに不利になっていきました。