ハル・ノートを突き付けられ、日本国内では対米戦争について話し合われました。
陸軍は開戦を支持していましたが、当初海軍は反対していました。
しかし、この状況を打破するには戦争に訴える以外にないとの陸軍の説得と国民の世論、そして軍令部総長 永野修身(ながの おさみ)大将の考えにより、海軍トップである連合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)は仕方なく納得し、山本は
「わかりました。そうとなれば一年か一年半は、思い存分暴れて見せましょう」
と答え、開戦に同意します。
永野修身 軍令部総長
山本五十六 連合艦隊司令長官
この時山本が「一年か一年半」と言ったのは、対米戦争は日中戦争の長期化による兵の不足、現在日本が所有する石油・鉄の量や戦争継続に欠かせない物資の確保、生産力の違いなどを考えると、長期化すると日本が不利であるという事を分析していたからでした。
山本は始めの一撃で徹底的にアメリカを叩き、素早く講和に持ち込みより日本の都合のよい条件を叩き付けようと作戦を練り上げました。
その方法とは、アメリカ太平洋艦隊の母港であるハワイ真珠湾を航空機により奇襲攻撃し、主力戦艦及び空母を叩き、アメリカが新規に軍艦を建造する時間を与えず、素早く講和に持っていくといったものでした。
ちなみに「奇襲攻撃」とは、現在の人々は
「宣戦布告をする前に攻撃を仕掛ける卑怯な戦法」
と勘違いされる方がいますが、奇襲攻撃の意味は「相手に反撃の隙を与えず、また、悟られる事なく先制攻撃をする事」であり、れっきとした正当な作戦です。
この作戦を実行したのは南雲忠一 海軍中将(なぐも ちゅういち)率いる第一航空艦隊で、「赤城」をはじめ空母6隻、その他護衛の戦艦「比叡」「霧島」他、重巡洋艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦9隻・潜水艦3隻・給油タンカー7隻という史上空前の大機動部隊(機動部隊とは空母を主力とする部隊)により実行されました。
南雲機動部隊は択捉島単冠湾に集結したのち、一路ハワイを目指しました。
12月1日、日米交渉は完全に決裂し、翌2日に山本は連合艦隊旗艦の戦艦「長門」より、ニイタカヤマノボレ一二○八と発信します。
これは、「12月8日に真珠湾を奇襲せよ」という暗号です。
これを受けた南雲機動部隊は日本に引き返す事なく、遂に12月8日1時30分、第一次攻撃隊の戦闘機・雷撃機183機を発進させ、その後2時45分には第二次攻撃隊167機が飛び立ち、ハワイ真珠湾に向かいました。
ハワイの真珠湾を攻撃する日本軍機
黒煙を上げ沈没する米戦艦「アリゾナ」
日本軍機の攻撃を受ける米艦隊
ハワイに向かう途中の山頂にはアメリカ軍の対空要塞がありましたが、アメリカ政府は日本軍がいつ攻撃を仕掛けてくるのかが把握できていなかったことと、この日が日曜日だったのとが重なり、日本軍機を攻撃してくる気配さえありません。
真珠湾上空にもアメリカ軍機の姿はなく、第一次攻撃隊航空隊長である淵田美津雄 中佐は勝利を確信し、「我奇襲に成功せり」を意味する暗号トラ・トラ・トラを打電しました。
その後真珠湾上空まで無事にたどり着いた日本軍機は次々に停泊中のアメリカ海軍主力戦艦8隻を攻撃し、うち4隻を沈没させました。
その後カネオヘ、ホイラー、ヒッカムの三つの飛行場を爆撃破壊し、アメリカの航空機231機を失わせるという大戦果をあげます。
実はこの作戦には航空機だけではなく、「甲標的」と呼ばれる二人乗りの特殊潜水艇による攻撃も盛り込まれていました。
それは、潜水艦に載せて来た「甲標的」で、第一次攻撃隊が逃し真珠湾内から脱出してくるであろうアメリカ艦船を魚雷攻撃する、という任務でした。
その作戦には発進した「甲標的」の収容が見込めない為、山本は難色を示していたと言われています。
5隻の潜水艇は日本から「伊」潜水艦に搭載されハワイ沖10海里まで来た時、一路真珠湾を目指し発進しました。
ところがこの内の1隻がアメリカ海軍の哨戒艇に見つかり、その後は次々に撃沈され、1名が捕虜となり9名が戦死しました。
米軍に拿捕された「甲標的」
この9名は大東亜戦争初の戦死者となり、海軍省は海の九軍神として広く宣伝し、彼らの実家には「軍神の碑」が建てられ、国民が次々に参りました。
ですが彼らの遺族は
「うちの息子は軍神なんかじゃない。 ただの人間です。 戦争とは、ただの人間を神扱いしてまでしなくてはいけないのでしょうか…」
と、嘆き悲しんだと言われています。
まさに戦争の悲劇でした。
しかし、これはこの後起こる壮絶な戦いの幕開けに過ぎませんでした。
日本軍機がハワイを攻撃した時、実は大変な事が起こっていました。
日本軍機がハワイを攻撃した時点で、日本政府はアメリカに対し宣戦布告をしていなかったのです。
正確に言えば、攻撃前にはアメリカの日本大使館へ宣戦布告の通達文書を送っていたのですが、その時大使館の人々は転勤になる職員の為に別の場所で送別会をしていて、大使館内には誰もいなかったのです。
この緊迫した状況下に許しがたい事です。
ですから日本海軍は、宣戦布告の文書をアメリカ政府へ渡す前にハワイを攻撃してしまっていたのです。
宣戦布告前に攻撃されたアメリカ政府は激怒し、国民は憤激し、そしてアメリカ人達は
「パールハーバーを忘れるな」
を合言葉に、日本への徹底交戦を決意することとなりました。