1931年(昭和6年)9月18日、満州の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で日本政府経営の南満州鉄道(満鉄)が爆破される事件が起きます。
満州は日露戦争でのロシアの賠償として日本が手に入れた領土でした。
譲り受けた権益は、遼東半島の租借権、旅順~長春間の南満州鉄道とそれに付属する炭鉱採掘権などで、清国との間にも条約を交わし了承していました。
それら満州における日本の権益を守る日本軍守備隊を関東軍と呼びます。
この爆破事件は柳条湖事件といい、実は満州に滞在していた日本関東軍による犯行でした。
関東軍は自ら国が経営する鉄道を爆破した後、これを中国側による破壊工作と発表、直ちに自衛の為と称して軍事行動を開始しました。
世界恐慌以来、経済的に不安定となった日本は、満州の開発に乗り出します。
ところが中国側の排日運動が強まり、条約無視の妨害や迫害、テロ事件が相次ぎます。
そのうえ、条約に反し満鉄包囲の鉄道建設を企て、満鉄は業績不振に陥り深刻なダメージを受け、失業者も急増してしまいました。
中国側は来る日も来る日も排日活動を続け、遂に痺れを切らした関東軍が謀略とはいえ、対抗措置に出たのです。
満州事変勃発後、関東軍は日本政府の事変不拡大方針を無視し、大軍を率いて奉天をはじめ主要都市を次々に占領し、遂に翌1932年(昭和7年)3月、映画「ラスト・エンペラー」でおなじみの「愛薪覚羅傅儀(あいしんかくらふぎ)」を代表者とし、満州国を建国します。
愛薪覚羅傅儀
日満議定書により日本政府も建国を承認しました。
この一連の出来事に対し国際連盟は「リットン調査団」を派遣し調査を開始しました。
柳条湖付近で満鉄爆破地点を調査するリットン調査団
調査団は国際法に照らし合わせ、満州国建国については違法と言う見解でしたが、満州における日本の主張や権益の重要性に対しては、日本に対する中国のやり過ぎた排日活動などを見て配慮を示しました。
しかし国際連盟は満州国建国を承認せず、それに納得できない日本は国際連盟脱退を決めざるを得ませんでした。
日本は国際連盟脱退後も独自に中国に対する和平への模索を続け、1933年(昭和8年)5月、中国と塘沽(タンクー)停戦協定を締結し満州事変は完全に終結しました。
中国側は満州建国こそ承認しませんでしたが、満州国と中国への鉄道乗り入れ、郵便・電信・電話の連絡と税関業務の調整などの実務協定には応じました。
その結果、日中関係は安定化へ向かっていきました。