日清戦争に敗れた清国は惨めでした。
「清国は弱い」と思ったイギリス・オランダをはじめ列強各国は、これまで以上の利権を求めて清国に進出してきました。
清国は領土を占領され、鉄道や鉱物資源の利権を奪われ、清国そのものを属国視した列強に好き放題され、政治家や役人達も頼りにできず、土地を失った農民や失業者が溢れました。
困った民衆が頼りにしたのは義和団という宗教団体でした。
義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清朝をたすけ、西洋人を撲滅する)を掲げ、キリスト教会を焼き打ちしたり、キリスト教に改宗した清国人の信者を虐殺しながらその数を増し、1900年5月には首都北京に迫りました。
北京には列強の公使館地区があり、11ヶ国の外交官とその家族が住み、日本・イギリス・ロシア他8ヶ国が護衛の海軍兵士約400人を派遣しました。
清の指導者・西太后は義和団と力を合わせ、外国人を清国から追っ払おうと、1900年6月21日に列強各国へ宣戦布告しました。
北京入りした義和団と清政府軍の約40000の兵は、公使館地区への攻撃を始めました。
西太后
列強各国の公使館地区には約4000人がいました。
その頃イギリスは、南アフリカでの「南阿戦争」で苦戦しており、アメリカやフランスにも救援部隊を送る余裕がありませんでした。
そこでイギリスは清国から近い日本に出兵を要請しました。
ところがロシアは、清における日本の権益が強まるのを恐れ、これに猛反対します。
そうこうしている間にも、公使館地区での篭城者達は持ちこたえる限界が来ていました。
ついにイギリス外務大臣ソルズベリーは、日本に対し
「日本のみが北京篭城者を救助できる唯一の国です。 暴動を鎮圧し、篭城者達の救助に必要な経費はすべてイギリスが負担する。」
とまで言い出し、他の列強国も日本への大量出兵を要請してきました。
日本は人道的立場からそれらの要請に応じ、約10000の兵を送り込みました。
日本・ロシアを中心とする8ヶ国連合軍約20000の兵力は、天津から北京へ向かい7月14日に北京を陥落、生き残った篭城者の救出に成功しました。
この事件により日本は列強から大変感謝され、高い評価を受けました。
実は、天津から北京に向かう途中に列強各国の兵士は、略奪・放火・婦女暴行など悪の限りをつくしました。
特にロシア兵の残虐さは酷いものでした。
一方、日本兵達は軍律が厳しかった事もありますが、そのような乱暴を働く者はほとんど無く、いざ戦闘が始まると勇敢に戦い、列強各国の評価を高めていきました。
事件が収まり、各国の軍隊は小規模の警備兵のみを残し引き上げましたが、ロシアは義和団から満州の権益を守るという口実のもと、さらに大量の軍隊を満州に送り込みました。
ロシアは土地を略奪し大きくなった国です。
ロシアの野望は東アジアすべてを手に入れる事でした。
義和団事変を口実とした満州におけるロシアの出兵は、隣国の小国日本にとっては危機感を抱く事になり、後の日露戦争のきっかけとなっていきます。