海軍が真珠湾を奇襲した同じ日、山下奉文(やました ともゆき)陸軍中将率いる陸軍第二五軍は、マレー半島コタバル、シンゴラなどから上陸作戦を開始しました。
山下奉文 陸軍中将
これに対抗するためにイギリス東洋艦隊司令長官 サー・トーマス・フィリップス大将は、シンガポールに待機させていた戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」他、巡洋戦艦1隻、駆逐艦4隻からなる「Z部隊」で上陸作戦中の日本輸送船団を攻撃しようとしました。
イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は1941年(昭和16年)3月に竣工したキングジョージV世型の最新鋭戦艦で、イギリス海軍の象徴として誕生し不沈戦艦と呼ばれる弩級戦艦でした。
この時南方にいる日本の戦艦は、艦齢27年を迎える老朽艦の戦艦「金剛」「榛名」だけでした。
これらの戦艦は名前こそ戦艦ですが、もともと装甲巡洋艦で戦艦より装甲も薄く、改装に改装を重ね戦艦となったものでした。
山本長官は「金剛」「榛名」ではこの強敵を壊滅させるのは難しいと考え、ハワイ作戦同様に航空機による攻撃を決定します。
9日午後、付近を哨戒していた「伊56」潜水艦から
「敵『レパルス』型戦艦二隻見ユ」
の報せを受け、旗艦を重巡洋艦「鳥海」とするマレー部隊の指揮官小沢治三郎(おざわ じさぶろう)海軍中将は、
「かなわないまでも、楯となって上陸部隊輸送船団を守る」
との決意で、報告の海域を目指しました。
小沢は、戦艦相手でも勝つ見込みの高い夜戦で勝負しようと南を目指しましたが、南方部隊の指揮官である近藤信竹(こんどう のぶたけ)海軍中将により中止を告げられます。
近藤は夜戦を中止し、翌朝に航空部隊による攻撃を指示、翌日12月10日午前6時25分(現地時間)に索敵機を発進させました。
11時45分、索敵機が
「敵主力見ユ、北緯四度、東経一○三度五五分、進路六○度、一一四五」
と打電、それを受けた攻撃隊はすぐさま発進し12時45分、攻撃を開始しました。
そして激しい戦闘の末、不沈戦艦と呼ばれた「プリンス・オブ・ウェールズ」を大爆発沈没させるという快挙を遂げました。
日本はハワイ作戦、マレー沖海戦共に航空機による攻撃の有効性を世界に実証しました。
それはまた、世界に航空機時代の到来を告げるものでもありました。
しかし日本は、皮肉にも自らが実証した航空機には頼らず、「最強の兵器は戦艦である」との考えを見直さず、完成して間もない世界最大最強の戦艦「大和」「武蔵」を主力に、時代の流れに逆行していく事となります。
そしてさらに大和型戦艦2隻の建造を手掛けようとします。
一方、山下中将率いる陸軍はシンガポール攻略時に自動車工場で、イギリス軍司令官 アーサー・パーシバル 中将に
「イェスかノーか」
と迫りイギリス軍は降伏、日本はイギリス軍の了解のもとシンガポールを占領しました。
交渉を迫る、山下奉文陸軍中将たち
このシンガポール占領で日本の新聞は山下中将を「マレーの虎」と呼び、褒めたたえました。
実はこの話ですが、「イェスかノーか」で降伏を迫った山下中将がイケイケの「鬼の軍人」のように伝えられていますが(いい意味で)、山下は「降伏の意志があるか、ないか」と尋ねたところ、通訳をしていた台湾人の日本軍兵士がうまく通訳できず、強引に迫ったように語られるようになってしまった、という事です。
本当は山下中将は心優しい紳士だったといいます。
彼はその後フィリピンなどでも大活躍しますが、終戦時に捕虜となりマニラで戦犯として軍服の着用も許されずに囚人服のまま処刑されてしまいました。