栗林忠道 陸軍中将
栗林忠道(くりばやし ただみち)陸軍中将は、大東亜戦争末期の硫黄島での戦闘を指揮しました。
栗林が大尉時代、軍事研究などを目的に昭和3年~5年までアメリカへ留学し、アメリカの軍事力だけではなく生産力、国民性など多方面に渡り熟知していた事は有名な話です。
では、栗林忠道とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
栗林は少将時代、南支派遣軍(第二十三軍)の参謀長として広東(現・広州)にいました。
階級社会の最たる軍隊にあって、目下の者に気さくに接する栗林は異色の将官だったといえます。
入院した兵がいれば自ら車を運転し、果物などを持ち軍病院へ見舞いに行ったり、マラリアにかかった兵がいれば自ら氷を届けたりもしました。
ある時、軍用犬のシェパードと共に記念写真を撮影する事になりました。
栗林は
「せっかくだから、貞岡も呼んでやろう」
と言い、全速力で走っても往復15分以上かかる宿舎へ使いを出し、裁縫係の軍属(軍属とは、軍に勤務していますが、戦う事が任務ではない人)の貞岡信喜(さだおか のぶき)を呼びに行かせます。
通常なら身分の異なる五十歳の陸軍少将が、二十歳そこそこの裁縫係の軍属を15分も待つなど、絶対にありえない時代でした。
それを栗林は、写真を撮ってもらうという当時めったになかった機会を、田舎から出てきて一生懸命働く若者に与えたのです。
ちなみに栗林が中将に昇進して東京の留守近衛第二師団に転任する事が決まったとき、貞岡は自分も転属願いを出してついていっています。
一年後、栗林は総指揮官として硫黄島へ出向く際には、貞岡の同行を許しませんでした。
しかし、貞岡は栗林に黙って彼を追い掛け、硫黄島北約270キロにある父島行きの船に乗りました。
父島に着いた貞岡がやっと通じた無線電話で栗林と話した時、
「そんなところで何をやっておるか! 絶対にこちらへ来てはならん!」
と怒鳴られています。
激戦が予測され、自ら死を覚悟していた栗林は、軍属である(というより、未来ある若者である)貞岡を死なせたくなかったのです。
戦後貞岡は、
「うちの閣下に怒鳴られたのは、後にも先にもあの一度きりで、あの時が閣下の声を聞いた最後でした。」
と、涙ぐみながら語っています。
栗林は小笠原兵団の兵団長(最高指揮官)で、任命当初は父島へ指令部をつくり、そこから小笠原諸島(主に硫黄島)の防衛を指揮するはずでしたが、彼は自ら、激戦地となりうる可能性があるにもかかわらず硫黄島へ出向き、そこで直接指揮する事にしました。
では何故、水も食糧も豊富にあり安全な父島へ行かず、水や食糧も乏しく危険な硫黄島へ出向いて行ったのでしょうか。
それは、彼自身が「指揮官は第一線で指揮をとるもの」と言い、自ら一兵卒と同じ苦労をし現場の辛さや苦しみを経験しようとした為でした。
彼は将兵も一兵卒と同じ食事をし、一人一日与えられる水の量も一兵卒と同じとしました。
この事に対し食事を運ぶ当番兵たちは、栗林達将校の配膳に困惑しました。
将校の食事は他の一般の兵と違い、皿の数からして違っていたためです。
それを「他の兵士達と同じにせよ」と言われても、どうしてよいのかわからなかったのです。
しかし栗林は笑いながら、
「では、皿だけ並べておけばよい」
と言い、空の皿を前に食事をしたといいます。
水については、硫黄島には馬が三頭いましたが、騎兵出身であった栗林は一度も乗る事はありませんでした。
馬を歩かせれば水をたくさん飲むから、というのがその理由でした。
硫黄島では水は一人一日、水筒一本と決められていましたが、栗林自身もその規則に従い、見回りの時には総指揮官が来たというので貴重な水で茶を沸かして出す部隊もありましたが、彼は口をつけることはありませんでした。
そして、洗面器ほどの器に入れた水で顔を洗い、その後に副官であった藤田正善(ふじた まさよし)中尉が顔を洗い、残りは丁寧に取っておき、便所の手洗水にしていました。
ある部隊長が、水槽から汲んだ水に手ぬぐいを浸して身体を拭ったのを見た時、彼は烈火の如く怒り、
「銃殺に値する」
とまで言いました。
この島ではそれほど水は貴重だったのです。
硫黄島へ着任した栗林は、将兵の象徴とも言える軍刀を持たず、代わりに長い木の棒を持っていたと言います。
そしてその棒には目盛りが刻まれており、何か作業をするときには物差し代わりに使用していました。
硫黄島で生き残った兵士のほとんどは、栗林を見たり話したと証言しています。
通常、一般の兵が総指揮官と顔を合わせるなど、他の基地ではありえない事でしたが、栗林は毎日毎日島を歩き周り兵達を励まし、時には自らが作業を手伝ったといいます。
つまり、階級にかかわらずすべての将兵が不便を分かち合い、苦楽をともにすべきであるとの方針に加え、食事を同じとしたのは、部下達の栄養状態を熟知しておく事が必要だと考えたためでした。
プライベートでは、家族宛ての手紙を数多く出しています。
特に末っ子のたか子の事を「たこちゃん」と呼び、気にかけていました。
出征当時、いつもは聞き分けのいいたか子(当時9歳)は大泣きして栗林を困らせました。
死を覚悟して硫黄島へ出向いた栗林は、たか子が幼くして父親を亡くす事を案じて不敏に思い、たか子宛ての手紙を数多く書いています。
そのほか妻の義井(よしい)宛ての手紙には、出征前にお勝手の隙間風を防ぐ措置が出来なかった事を気にかけ、風の防ぎ方の説明を詳細に絵に描き送っています。
「私からの手紙は、これからはもう来ないものと思って下さい」
と書いた遺書代わりの手紙を数多く送っています。
その一つをご紹介いたします。
「最後に子供達に申しますが、よく母の言い付けを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮らして行くように。
特に太郎は生まれかわったように強い逞しい青年となって母や妹達から信頼されるようになることを、ひとえに祈ります。
洋子は割合しっかりしているから安心しています。
お母ちゃんは気が弱い所があるから可哀相に思います。
たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。
どうか身体を丈夫にして大きくなって下さい。
妻へ、子供達へ、ではさようなら。夫、父」
追伸
一、
持って来たものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。
記念(かたみ)の品となるとも思います(遺品、遺骨の届かない事もあります)。
軍用行李が届いたらあるいはまた送り返すものがあるかも知れません。
ウィスキーその他の追送は一切不要です。
届くか届かないかも不明だし、届いてもその時はもう生きていないかも分かりません。
二、
家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。
太郎に言いつけて来たことは順々にやった事と思います。
師団の林はまだあれきりでしょう。
三、
私は今手紙をどこへも一切出しておりません。
もし昔の兵隊や友達などから問い合わせのあった時は、ただ南方某地へ出征したという事だけ返事してやって下さい。
出征直前には天皇に拝謁して直接激励され、二万余りの兵を束ねる最高指揮官が、遺書代わりの手紙で最後の心残りとして記したのが、留守にしている台所の隙間風だったのです。
しかしこの手紙は遺書にはなりませんでした。
ほかには、風呂の湯垢の取り方や、妻の赤ギレや子供への小遣いの心配など家族の生活を心配する手紙を、毎回遺書として米軍上陸までの約八ヶ月間に四十一通も出しています。
彼自身は水も無い地獄の島で明日の命もわからないにもかかわらず、ただ家族の心配をし、家族の為に自らの命を懸けて戦う覚悟をしていたのです。
1945年(昭和20年)3月16日、彼は最後の総攻撃を決心し、16時過ぎに大本営に宛てて訣別電報を発します。
その最後には辞世が三首読まれていました。
その始めの一首をご紹介しますと、
「国ノ為重キツトメヲ果タシ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」
とあり、彼は将兵達の命を懸けた戦い振りと死んでゆく将兵達を思い、軍人にあるまじきタブーである「悲しき」という言葉をあえてしたためたのです。
しかし、この訣別電報が新聞に報じられる時、一億玉砕を唱える大本営は「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し(くちおし)」と変更するようマスコミに通達したのです。
翌17日には地下洞窟内にいる全員に一杯の酒と恩賜のタバコ二本を与え、別れの盃を交わしています。
そして3月25日、ついに彼は最後の訓辞を述べます。
「予が諸君よりも先に、戦陣に散ることがあっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。
いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。
安んじて諸君は国に殉ずべし。」
通常なら最後の総攻撃の際、総指揮官は陣の後方で切腹するのが常識でしたが、彼は自らが 「予は常に諸子の先頭に在り」 と宣言したとおり、陸海軍約400名の先頭に立ち、1945年(昭和20年)3月26日朝、ついに戦死します。
この栗林の最後の総攻撃は、日本軍特有の玉砕覚悟のいわゆる「バンザイ突撃」ではなく、物音ひとつたてずに敵に近付き攻撃するという最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった、とアメリカ軍は「米海兵隊戦史『硫黄島』」に記しています。
最後の総攻撃の時、白襷をし日本刀を手に先頭を突き進んだ栗林は、右大腿部に重傷を負いましたが、司令部付曹長に背負われながらなおも前進し、その後出血多量で死亡したとも、拳銃で自決したとも言われており、彼の死因や亡くなった場所は定かではありません。
戦史に残る壮絶な戦いを指揮した軍人「栗林忠道」は、ひとたび戦地へ出向くと年齢や階級の分け隔てなく平等に対応し、兵士達の厚い信頼を得て(そのことはアメリカ軍側に発狂者が続出したのに対し、日本軍側には一人の発狂者も出なかった事からも伺えます)、最後は総指揮官として玉砕ではなく任務を真っ当した戦いを見せた、帝国軍人らしからぬ軍人でした。
それと同時に、家族と自宅のお勝手の隙間風が心配で仕方のない夫であったのです。