樋口季一郎 陸軍中将
みなさんのなかには、第二次世界大戦時にドイツがユダヤ人を虐殺した事をご存知の方も多いでしょう。
ヒトラー率いるドイツ第三帝国は、国策の一つとしてユダヤ民族抹殺を唱え、それを実行しました。
もちろん日本政府もその事は知っていましたが、それはあくまでドイツの国策であり、日本は全く関与していませんでした。
1938年(昭和13年)3月8日未明、ハルビン特務機関にある報せが入りました。
それは、満州国西部のソ連との国境に程近いソ連領オトポールに、ユダヤ人の難民が現れたと言うのです。
難民の多くは、ドイツからの迫害を逃れて来たユダヤ人でした。
彼らはまずドイツからポーランドを目指しましたが、ポーランド政府はナチス・ドイツの眼を気にして、ユダヤ人の受け入れに難色を示しました。
そこで次に彼らが目指したのはソ連でした。
当時ソ連はシベリアの開拓に本腰をいれはじめていましたので、その労働力としてユダヤ人難民を利用できると考え、受け入れを承認します。
彼らがソ連に受け入れられ連れて来られたのは、極寒の不毛地帯シベリアでした。
ところが、それまで都市部で暮らしてきたユダヤ人達には厳しい環境であるとともに、農作業の経験がほとんどない彼らが労働力として役に立たないことを知ったソ連は、ユダヤ人の滞在を拒否してしまいました。
次に彼らが目指したのは満州国でしたが、東へ東へと遠路はるばるシベリア鉄道でやって来たユダヤ人難民達を満州国は、ドイツと友好関係にある日本に対して気を使い、ビザ発給拒否をしてしまいます。
それにより、難民達は満ソ国境の最後の駅があるオトポールで、露頭に迷う事となってしまったのです。
ユダヤ人達の願いは、満州国を通り、当時世界で唯一ユダヤ人難民をビザなしで受け入れている都市上海へ抜け、その後アメリカやオーストラリアなどの国へ逃れる事でした。
しかし満州に入国を拒まれた難民達は、戻る事もできないままオトポールで立ち往生し、この季節のマイナス20℃以下という気温に耐え切れず、次々と凍死していきました。
そのような状況の時にハルビン特務機関へ報せが入ったのです。
報せを聞いた関東軍ハルビン特務機関長である樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は一刻も早く救出したかったが、軍の中には「ドイツとの関係が崩れる」として反対する声もありました。
樋口はまず満州国外交部ハルビン駐在員の下村信貞と協議をはじめました。
また、極東ユダヤ人協会の代表の医師アブラハム・カウフマンからも要請を受けます。
実はこの3ヶ月前、ハルビンにおいて第一回極東ユダヤ人大会が開催されており、この時もやはり「ドイツの国策に反する」との意見がありましたが、樋口は開催を認めていました。
そもそもこの難民問題は満州国外交部の問題であり、樋口が満州国外交部に何らかの指示を与えると、これはある種の権限の逸脱、内政干渉と言われるかもしれません。
ところが現実的には、関東軍は満州国の施政全般に対して指導権を保持しており、日本は「内面指導」と称して介入できる立場にあったのです。
しかしこの「内面指導権」については、関東軍参謀副長の石原莞爾(いしわら かんじ)は返上を強く主張しており、実際に「内面指導」が行われる事はほとんどありませんでした。
実は樋口と石原は中央幼年学校からの同期生で親友であり、樋口もまた「内面指導権」については石原と同意見でした。
満州国外交部はドイツの顔色ばかりをうかがっており、ユダヤ人救出の為に動く可能性はかなり低い状態でした。
そしてついに樋口は後の自らの失脚の可能性を十分に覚悟し、「人道上の問題」として熟慮を重ねた上で難民受け入れを決定します。
つまり、樋口が関東軍の「内面指導権」を行使し、ユダヤ人難民へ五日間の満州国滞在のビザを発行させたのです。
入国管理を担当する満州国外交部は、ほとんど無条件で滞在ビザを発行したのです。
そして15000人とも20000人とも言われるユダヤ人が、命を救われたのでした。
また樋口は、その後も食糧や衣服の手配や、さらには難民達の為に南満州鉄道総裁の松岡洋右(まつおか ようすけ)に頼み込み、難民の移動用特別列車の用意までしたのでした。
樋口のこの一連の行為は後日問題となります。
当然のように、ドイツ政府はヒトラーの腹心であるリッベントロップ外務大臣がオットー駐日大使を通じ、日本外務省に対して公式の抗議書を届けてきました。
これに動揺した外務省欧亜局は、直ちに抗議書を陸軍省に回送しました。
これにより、外務省、陸軍省内部でも樋口の独走を問題視する声が相次ぎ、その後抗議書は樋口が籍を置く関東軍司令部へと送られてきました。
こうして関東軍内部でも問題となり、樋口に対して関東軍から出頭命令が通達され、樋口に対する処分を求める声も強まってきます。
しかし樋口は当時の関東軍司令官である植田謙吉(うえだ けんきち)大将に、所信を率直に披瀝した文書をしたため、それを郵送します。
その内容は、
「小官は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。
満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。
法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。
たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」
というものでした。
しかし、この書簡が軍司令部で再び物議を醸す結果となり、軍司令部に出頭した樋口は当時の参謀長であった東條英機と会います。
その時、樋口が東條に言った言葉は、
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめする事を、正しいと思われますか?」
と、自らの決断の正当性を主張します。
樋口の言葉に耳を傾けた東條は、結局樋口に対して懲罰を科す事はしませんでした。
東條のこの決断により、軍司令部内での樋口に対する批判は下火となり、植田軍司令官もこれに賛同したので、この問題は一気に鎮静化し、ドイツの抗議は不問に付されます。
その後、この「オトポール事件」は公に語られることはなくなり、この事件自体が歴史の表舞台にあがることはなくなり現在に至っています。
その後、樋口自身もこの事件の詳細については口を開くことはなく、樋口の家族でさえオトポールの一件を知るのは、樋口が没した後でした。
三女の不二子さんは、
「ユダヤ人難民を救出したという話は、父の死後に新聞での報道を読んで初めて知りました。
父が亡くなった時、新聞が大きな見出しでユダヤ人救出に関する記事を掲載しましたが、それで初めて『お父様って凄い事をしていたのね』と知りました。
生前の父は、戦争の話題はほとんどしませんでしたが、オトポールの件も私は一度も聞いたことがありませんでした。
父は自分が行った事を誇らしげに語るような人ではありませんでしたから…」
と語っています。
しかし、その後に大東亜戦争が勃発し、樋口は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官となります。
時は東條内閣にあり、大東亜戦争も徐々に日本の敗北色が見えだした頃、樋口は究極の決断「アッツ島玉砕」の命令を下さなければいけなくなります。
ある者は、
「参謀長時代の東條に強く意見した為に、嫌な役まわりを命じられた」
と言いましたが、東條首相の命の真意は謎のままです。