1945年(昭和20年)7月16日、アメリカのニューメキシコ州で世界初の核実験が成功しました。
世界初の核実験
この知らせはすぐにポツダムにいたトルーマン大統領に知らされました。
トルーマン大統領は、前大統領ルーズベルトの意思を継ぎ、この新型爆弾の日本への使用を決定します。
実は、アメリカ政府はニューメキシコの核実験では、爆発直後のキノコ雲へ向けアメリカ軍の歩兵を突進させていたのです。
爆心地へと行軍する米兵たち
これは、放射能の人体へ与える影響を調べる為で、突進した兵士達は突進に関するガイドブックを軍より支給されていました。
それによると放射能は「ホウキで払い落とせる」「シャワーにて流す事ができる」などと書かれており、アメリカ兵達は初めての事なので知識が無く、誰ひとりそれを疑う人はいませんでした。
まさに人体実験です。
後にアメリカ軍は兵士一人一人を綿密に検査しますが、実戦で使用した場合のデータは取れませんでした。
この実験に参加させられたアメリカ軍兵士のほとんどは、何年か後に白血病や癌により死亡しています。
そこで、破壊力やもっと詳しく人体への影響を調べるために日本への使用を計画します。
マンハッタン計画と呼ばれるもので、アメリカはプルトニウム型とウラニウム型の原子爆弾をそれぞれ製造し、日本本土へ使用するためにテニアン基地へ輸送しました。
そして1945年(昭和20年)8月6日、世界で初めての原子爆弾「リトル・ボーイ」が広島へ投下されます。
広島の街は、4000度の熱と凄まじい爆風により一瞬にして焼き尽くされました。
広島に投下された原爆
一瞬にして焼け野原と化した広島
爆心地付近の建物はおろか、人々は熱により蒸発したり、焼け残る遺体は真っ黒な墨になっていました。
爆心地より離れた場所では、熱線により衣服が皮膚に焼け付いたり、ひどい火傷をした人々がたくさん出ました。
背中に大火傷を負った少年
皮膚はすべて焼けただれ、腕や背中からはその焼けた皮膚がベロッと垂れ下がったり、それは酷いありさまでした。
人々は熱さと渇きにより水を求めました。
人々は川や爆風で吹き飛んだ水道管や井戸、防火用水などに集まり水を飲みました。
しかし水を飲んだ人はすべてその場で亡くなりました。
原因は、やっと水までたどり着く事ができた安堵感や、喉まで大火傷して焼けただれていた人々は水により喉を冷やされ、焼けた喉の肉で気管を塞がれ窒息死するのです。
そして9日には長崎へ二発目の原子爆弾「ファットマン」が投下されます。
長崎に投下された原爆「ファットマン」
長崎上空のキノコ雲
原子爆弾投下から数日後、生き残った被爆者たちは医者に「体がだるい」などの症状を訴えます。
医者は過労かと思い、ビタミンAを腕から注射しました。
しばらくするとそれらの患者は、注射でできた針の穴から腕が腐っていき、最後にはみんな死んでしまいました。
放射能の影響が出てきたのです。
原爆投下後一ヶ月もすると、アメリカを始めイギリスの研究所員や記者達は広島を訪れ、原爆の威力と効果を調べにきました。
しかし、そこで彼らが目にしたものはあまりにも悲惨な現状でした。
イギリスの記者は「ノーモア・ヒロシマ」というタイトルで、被爆地の凄惨な実状を記録しました。
一方、原爆投下一ヶ月後の長崎では、破壊された浦上天主堂から歌声が聞こえてきました。
それはキリシタン達が賛美歌を歌う声でした。
それを聞いたイギリス人記者は涙したといいます。
核兵器の恐ろしいところは、破壊力はもとより目に見えない放射能です。
この放射能の影響で苦しむ人は現在でもおられます。
日本は二回も核攻撃を受けました。
実際に核戦争を経験したのです。
現在の核兵器は、広島型原爆の数千倍の威力を持っています。
二度とこの恐ろしい兵器が使われない事を願います。