戦況厳しく、日本の敗北が現実味を帯びてきた1944年(昭和19年)10月、フィリピンを取り戻そうとアメリカ軍機動部隊と上陸部隊は大艦隊でフィリピンレイテ湾へ向かい、レイテ島への上陸を開始しました。
同時に、南方にいた戦艦「大和」「武蔵」をはじめ日本海軍主力の第二艦隊は、フィリピンを死守するためにアメリカ軍上陸部隊を撃滅しようとレイテ湾へ向かっていました。
日本はなんとしてもフィリピンを守らなければなりませんでした。
そのためには敵空母の殲滅と、「大和」「武蔵」など主力の第二艦隊を護衛する必要がありましたが、もはやフィリピンの日本軍航空隊には余力は無く、戦闘力といえば航空機40機程しかありませんでした。
フィリピン海軍航空隊を指揮していた大西瀧治郎(おおにし たきじろう)海軍中将は、残りの部下達を集めこう尋ねました。
大西瀧治郎 海軍中将
「もはや戦況厳しく航空機及び搭乗員不足の為、通常の攻撃作戦では我部隊は潰滅する事が必至である。 そこで戦闘機に250キロ爆弾を搭載し、敵艦に体当たりするというのはどうだろうか。」
するとなんと部下達は皆その提案に賛成したのです。
日本政府もこの作戦でアメリカ軍に一死を報い、戦争終結のきっかけをつかもうと考えました。
そしてここに、人類史上初の必死必殺の攻撃隊が編成されました。
その名を神風特別攻撃隊といいます。
そして本居宣長の歌
「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花」
から命名された、関行男(せき ゆきお)隊長率いる「敷島隊」をはじめ「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が編成されました。
関行男 海軍大尉
大西瀧治郎中将の訓示を受ける特攻隊員たち
この特攻作戦は10月20日に発令されましたが、翌21日はフィリピン第一航空隊、第二航空隊による通常攻撃に留まりました。
それは、この時点ではまだ海軍航空隊全体がこの体当たり攻撃を承認していなかったためでしたが、その後10月24日のレイテ沖海戦で戦艦「武蔵」をはじめ主力艦を失った連合艦隊が事実上壊滅したことをうけて、日本海軍もやむを得ず神風特別攻撃隊を正式な作戦として扱う事としました。
戦艦「大和」以下残りの第二艦隊のレイテ湾突入にあたり、付近の敵空母を攻撃し少しでも敵の航空戦力を封じ込めるために、翌10月25日午前7時25分、第一神風特別攻撃隊敷島隊の零戦5機は、直掩機4機に守られながらルソン島のマバラカット基地を飛び立ちました。
午前10時40分、敷島隊は駆逐艦を伴うアメリカ軍機動部隊を発見、内一機(関行男の隊長機と言われる)がアメリカ軍護衛空母「セント・ロー」の飛行甲板に体当たりし、「セント・ロー」は炎上、その後8回の誘爆を繰り返し沈没しました。
誘爆を繰り返し沈没する米空母「セント・ロー」
同日日本海軍は、「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」も別の基地から各2機ずつの特攻機を出撃させていました。
航空機による特攻作戦は当初驚くべき戦果をあげました。
しかしそれと引き換えに尊い命が確実に失われる攻撃でもありました。
この作戦実行を聞いた昭和天皇は
「そこまでやらねばならぬか…」
と大変悲しまれたといいます。
特攻作戦は、もはや日本軍がアメリカ軍に対抗する唯一の方法となっていました。
アメリカ軍は終戦までの間、いつ何処から来るかわからない日本軍の捨て身の攻撃に怯え続けることになりますが、アメリカ軍の新型レーダー開発により次第に命中率は低くなっていきます。
そこで日本軍は航空機だけではなく様々な特攻兵器を開発し、それら通常では考えられないような特攻作戦は、終戦まで実施される事になります。
兵士達は皆、出征する時に死を覚悟して戦地へ出向きます。
「立派に敵をやっつけて死ぬぞ」 と思う兵士もいれば、口にこそ出さなくとも 「絶対に生きて帰ってやる」 と思う兵士もたくさんいました。
徴兵で戦地へ連れて来られた兵士は職業軍人ではなく我々のように普通に生活していた人々ですので、そう考えるのは無理もありません。
しかし、特攻兵達にそういった事を考える余地はありませんでした。
出撃すれば必ず死ぬのですから・・・。
兵士達は必ず死ぬとわかっていながら、何故そんな残酷な攻撃に参加したのでしょうか。
そして、何千名もの兵士が「命を捨ててこい」と命令されて、何故暴動が起きたりしなかったのでしょうか。
それは、各々が敬愛する故郷、家族、恋人、友人などの為に勇敢に戦うつもりでいたからでした。
もちろん時には命令を受けた後、逃げ出した兵士もいなかった訳ではありません。
しかし、彼らは自分が体当たりする事によって、 「愛する者達が一日でも生きながらえる事ができたなら」 と思い、敵に体当たりして行ったのです。
また、彼らは 戦争に負けて国が敗れても、自分達が命を懸けて戦った事実が残ることで、五百年先、千年先には必ず大和民族は再生する。 大和民族は滅びる事はないと信じていました。
そのような状況だった為、暴動など有り得る事ではなかったのです。
戦後、敗戦した日本では「負ける戦争でわざわざ命を捨てて。無駄死にだ。」などと言う人もいましたが、彼らの死は私達現代の日本人にとっても偉大な功績を残しているのです。(詳しくはGHQの占領政策参照)
まさに彼らが言った 「五百年先千年先に…」 の言葉は現実の物となったのです。
知覧の特攻隊員たち。共に写る女性は、特攻隊員たちの世話をしていた「富屋食堂」の鳥濱トメ。
泣きながら特攻機を見送る「なでしこ隊」の女学生たち
航空機による体当たり攻撃
極秘任務の人間魚雷
最強最悪の特攻兵器、 人間ロケット爆弾
日本海軍のメンツのために一億玉砕の手本にされた
終戦の翌日1945年8月16日、全ての特攻作戦の元となった神風特別攻撃隊の提唱者であり推進者であった大西瀧治郎中将は、次の遺書を残し割腹自決を遂げました。
その遺書からは、あまりにも過激で残酷な攻撃作戦を発案し推し進めた指揮官の、未来ある若者達を死に追いやった罪悪感と、その若者達の最後を見届け続けた辛さや苦悩、そして未来へ残された日本民族への誇りと希望がひしひしと伝わってきます。
また大西中将は割腹した後、
「特攻隊員達や遺族の苦しみに比べれば、こんなものは苦しみではない」
と介錯を付けず病院に運ばれましたが、
「延命措置はしてくれるな」
と言い残し、もがき苦しみながら約8時間後に息を引き取りました。
遺書
「特攻隊の英霊に曰す。
善く戦ひたり、深謝す。
最后の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。
然れども、その信念は遂に達成し得ざるに到れり。
吾れ死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝さんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
吾が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に添ひ奉り、自重忍苦する誡めとならば幸なり、隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。
諸子は國の宝なり。
平時に処し猶克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽されよ。」