明治天皇
外国の脅威を目の当たりにし幕府を倒した新政府は、本格的に新国家建設に乗り出しました。
が、いったい何をどうすれば良いのかさっぱりわかりません。
まず早急にやらなければいけないと考えたのは国の資金集めでした。
江戸城を制圧した政府は、まず幕府がこれまでに貯めこんでいた軍資金のありかを突き止め押収。
その他、年貢収集記録等の幕府の収入源となっていた資料も集めました。
そしてもう一つ。
新政府誕生といっても当時の日本は藩という国々に別れていたので、一つの国家としての機能は全くなく、一つの目標の為に意見が違う武士達をまとめる事は大変難しく、このままでは日本を国家として動かす事ができません。
新しい明治政府は、薩摩藩と長州藩が主となり運営していました。
そこで岩倉具視(いわくら ともみ)、大久保利通(おおくぼ としみち)らは官軍の江藤新平(えとう しんぺい)に国政の基本的方針を考えるように要請しました。
岩倉具視
大久保利通
江藤新平
江藤は中央集権を実施します。
これは現在の国会と同じく、政府のトップ達が物事を決定し国を動かす事です。
しかしこれまでと違い、一つの機関が極端に権力を握ってしまうと、様々な問題が起こってしまいます。
そこで司法、立法、行政をわける事にしました。
これを三権分立と言います。
そして群県制、すなわちそれまでの藩主達には引退してもらい、各県などに政府が打ち出した案をきっちりと守ってもらう(命令に従ってくれる)為の代表を置く事にする、というアイディアを考えました。
それに基づき、薩摩藩の大久保利通は、1871年(明治4年)7月に廃藩置県を断行します。
先に述べましたが、これは藩を廃止して日本全国を三府七十二県とし、政府から任命された役人(現在の県知事にあたる)が治めるという事です。
そして、これまで各藩が徴収していた年貢を、これからは明治政府が税金として徴収するという事で、西洋列強と同じ近代的国家建設を目指しました。
しかしそれは、それまで年貢を集め自らの藩の運営を行ってきた藩主(殿様)と、その藩主から給料を貰い生計を建てていた武士達の失業を意味しました。
もちろん大久保もその一人でしたが、将来の日本の為にと一切の私情を断ち切り、士農工商の身分を無くし、廃藩置県を断行します。
この偉大な改革は意外にも大きな暴動が起きる事もなく、言わばスムーズに成功しました。
それは、新政府にはもはや対抗出来ないとの考えもあったのでしょうが、日本人の多くが「統一国家日本」として皆で力を合わせて列強に対抗しなければならない、との思いがあったのかもしれません。
こうしてようやく国らしい国の基盤を作った日本は、その後大日本帝国としてその名を世界に轟かせる事になっていきます。
1894年(明治27年)には初めての本格的な外国との戦争である日清戦争が勃発し、翌1895年に日本の勝利にて終結します。
平壌の戦い(日清戦争)
日本は下関講和条約により台湾・遼東半島などを譲り受け、統治下に置きました。
ちなみに、1895年1月には樋口一葉が雑誌「文學界」に、小説「たけくらべ」の連載を開始しています。
しかしその年の4月23日、フランス・ドイツ・ロシアは遼東半島を清へ返還するように求めてきました。
いわゆる三国干渉と呼ばれるものです。
それによれば
「日本による遼東半島所有は清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし極東の平和の妨げとなる。 従って半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する。」
と言ってきたのです。
これに対して日本は、イギリス・イタリア・アメリカなど他の列強の協力で撤回を申し出ましたが、イギリス・アメリカが局外中立を宣言したために5月4日、仕方なく勧告を受諾しました。
三国干渉にはそれぞれの思惑がありました。
ロシアははじめ日本が朝鮮の独立を尊重するのであれば日本が中国を占領してもよいと考えていましたが、後になって軍艦を派遣するなどして干渉に乗り出してきました。
ロシアは満州における権益拡大をはかっており、遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだのです。
そして同じく中国の分割に関心をもつイギリス・フランス・ドイツにこの案を打ち出し、イギリスを除くフランス・ドイツの賛成を得て勧告してきたのです。
フランスはロシアからこの案を聞き、ロシアとドイツの緊張緩和はフランスにとっても安全だと考え、さらに1892年にロシアと秘密同盟(露仏同盟)を結んでいたためロシアに協力したのでした。
ドイツは三国干渉の成功により極東アジアへの利権を得るチャンスだと考え、また近頃のロシアとフランスの接近に脅威を覚え、ロシアの注意を清国へ向けてヨーロッパにおける脅威を減らそうとしました。
1910年(明治43年)8月22日、日本は「韓国併合に関する条約」に基づいて大韓帝国(現在の大韓民国と北朝鮮)の要請により朝鮮半島全域を統治下に置きます。
これを日韓併合と言います。
当時の朝鮮半島は、清国を始め日本・ロシアなどが様々な思惑によりどうしても確保しておきたい場所でした。
大韓帝国自体はさほど大規模な軍事力を持っておらず、いつ他国の侵略を受けても不思議ではありませんでした。
しかし日本と手を組む事でその危機を逃れたのです。
日本も朝鮮半島を統治する事で、大陸に軍隊を派遣する事ができ、ロシアなどの脅威から日本を守る事ができたのです。
余談ではありますが、日本は朝鮮半島統治後、様々なインフラ整備に力を注ぎます。
当時東洋一と言われたダムを建設し、巨大な発電所を造りました。
鉄道をひき、舗装された都市部にはビルを建設し、朝鮮の人々の生活は見違えるほど豊かになっていきました。
さらに、日本政府は朝鮮人を日本人と同等に扱う為、日本名を名乗ることを許しました。
その後、日本は脅威にさらされる事となります。
日本の力が強くなるのを面白く思わない国があったのです。
そして遂に日本は侵略の危機を迎え、建国以来初めての国家存亡の危機にさらされる事となります。
日本は日露戦争に勝利を収め、世界に認められつつありました。
その後日本は、軍事力に力を注ぎ込む事となります。
その目的はただひとつ。
ペリー来航以来の脅威、外国の侵略から日本を守る為だけだったのです。
日本は明治に入り、江戸時代の鎖国による遅れを取り戻す為に様々な改革を行い、欧米列強と互角に渡り合う為に必死でした。
また、それらを急ぐ必要がありました。
これらの政策を富国強兵といいます。
ちなみに、何故小国の日本が「大日本帝国」などという大きな名称にしたのでしょうか?
その頃の日本はすべてイギリスをお手本に国創りを行ってきました。
その頃イギリスの事を世界では「大英帝国」と呼んでいました。
さだかではありませんが、「大日本帝国」という名称は、「大英帝国」の「英」を「日本」に置き換えただけと言われています。
世界最強の列強国イギリスに憧れ、少しでも近付きたかったのでしょうね。
どちらも小さな島国なのに、名前だけは凄く大きかったのですね。
まあ、参考までに(^^)。