大正天皇
大正時代は、明治維新以降急速に近代化した日本が、完全に列強の仲間入りを果たしたという意味では重要な時代でした。
列強としての日本を象徴する出来事はたくさんありましたが、少し書いてみます。
明治までの天皇は一夫多妻制でした。
これは、男系天皇を残すなど様々な意味がありますが、なぜ一夫多妻制が廃止されたのでしょうか。
それは、列強の国王はすべて后(きさき)は一人だったためでした。
特に日本のお手本であるイギリスの皇室も后は一人でしたので、それに習い大正天皇も后を一人にしたのです。
つまり日本は「我が国も列強の一員だぞ」という事を世界にアピールしたかったのです。
大正天皇は生まれながらにしてお体が弱く、大正時代最後の五年間は若かりし昭和天皇がお治めになられました。
大正天皇が崩御されたのは大正15年でしたが、大正時代は実質10年とも言えます。
この時代の世界の列強は軍国主義が普通でした。
大正時代に日本は世界第三位の軍事大国になります。
明治時代、日露戦争の対戦国であるロシアの脅威的な軍事力を目の当たりにし、強力な軍隊を持たないと国は守れないという事を経験した日本は、それ以降軍事力に力を注ぎ込みました。
そのぶん国民の生活はどんどん苦しくなっていきました。
それは、日露講和の時に敗戦国であるはずのロシアの強気な態度を見て、他の列強と同等の軍事力が無ければ、外交すら対等に出来ないという事を悟ったためでした。
日本はそれまで軍艦を同盟国イギリスに建造してもらっていましたが、自ら造船技術を磨き自らの手により強力な軍艦や兵器をどんどん造っていきました。
そして第一次世界大戦への参戦により、日本の軍事力と技術力を世界に見せ付ける事となります。
第一次世界大戦が終わり、日本はグァム島以外のマリアナ諸島の島々を委任統治領とします。
戦争でお金を使い果たした日本を含む列強は、アメリカ大統領ウォレン・G・ハーディングの提唱により、ワシントン海軍軍縮条約を締結します。
ワシントン海軍軍縮条約とは、1921年(大正10年)11月11日から翌年2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催された「ワシントン会議」のうち、海軍軍縮問題について条約の事で、これによりアメリカ・イギリス・フランス・イタリア、そして日本の戦艦・空母・巡洋艦等の保有制限が取り決められました。
この条約会議開催までに完成していない強力な軍艦は廃艦とすることになり、そのリストが作られました。
その中には日本の戦艦「陸奥」が含まれていました。
戦艦「陸奥」(近代改装後)
「陸奥」はそれより先に完成した戦艦「長門」の姉妹艦です。
通常、日本の戦艦は同じ型を2隻対で建造します。
日本側は「陸奥」は完成していると主張しましたが、イギリスとアメリカは未完成艦であると主張し、真っ向から意見が対立しました。
「陸奥」は10月24日完成になっていますが実はまだ未完成だったのです。
日本はこの条約内容を受け入れると、建造中の「陸奥」を廃艦としなければならず、どうしても手放したくなかった日本は突貫工事で一部未完成のまま海軍に引き渡すように造船所に要望していたのです。
イギリスとアメリカは「陸奥」所有を認めると日本が軍事的に圧倒的有利となる事を恐れましたが、最終的には仕方なく日本側の主張通り「陸奥」所有を認めました。
その代わり、アメリカは建造中で廃棄が決まっていたコロラド級戦艦2隻の建造を続行、イギリスは2隻の新型戦艦ネルソン級建造を認められることになり、戦艦比率は日本にとってかえって悪くなるという結果を招いてしまいました。
実はこの条約締結には裏があったのです。
イギリスとアメリカは、第一次世界大戦で日本艦隊を間近に見て、日露戦争以降凄まじい発展を遂げた日本の技術力に脅威を感じ、これ以上の日本軍の軍事力強化はアジア植民地支配の野望及び経営にあたり非常に危険だと考え、日本の軍事力を抑える事を目的としてワシントン海軍軍縮条約を提唱したのでした。
しかし、イギリスのネルソン級戦艦2隻、アメリカのコロラド級戦艦3隻、日本の長門型戦艦2隻は世界最強の「ビッグ7」として世界の脅威的存在となり、その脅威に対抗するため、逆に軍事力競争を加速させる悪循環を招く結果となってしまいました。
国内では1918年(大正7年)、それまでにも高騰を続けていた米の価格がさらに値上がりしました。
原因は、ロシア革命の社会主義に対抗したアメリカやフランスなどに協力して、日本軍がシベリアに出兵したためでした。
つまり、兵隊の為の米を政府が買い取る事を知った商人の買い占めや、外国米輸入の減少、そして農家など生産者の売り惜しみにより米の価格が急騰したのです。
米不足に悩む人々の怒りは頂点に達し、富山県魚津の主婦達が米屋、精米業者、商社や資産家を襲撃したのをきっかけに、全国的に米屋などを襲い略奪したり焼き打ちするといった事件が起こりました。
これを米騒動と言います。
米騒動時の富山県高崎市の様子
1919年(大正8年)、韓国では日本からの独立運動が盛んになります。
これを三・一独立運動と言い、それまで民族意識が少なかった韓国人が、白人ではなく同じアジア人の日本に支配されたり介入を受けた事により、民族意識に目覚めた事を意味しています。
この頃日本は、第一次世界大戦のパリ講和条約会議で、
「各民族は他の人種や国の支配を受けるのではなく、自ら独立する権利があるはず」
と、有色人種の差別の撤回を訴えていますが、これは白人によりあっさり却下されてしまいました。
日本のこの考え方は昭和に入ってからも影響が強く、八紘一宇(簡単に言えばアジアは一家であるという思想)の考えから「大東亜共栄圏」構想にまで発展する事となります。
ヨーロッパでは、悲惨な第一次世界大戦により甚大な被害がでました。
これにより二度とこのような事にならないよう、国際平和の為の機構が組織されました。
それが国際連盟です。
アジアで唯一日本は常任理事国に選ばれ、新渡部稲造(にとべ いなぞう)が事務局次長として、連盟のナンバー2に選ばれました。
1923年(大正12年)9月1日には関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲います。
関東大震災です。
関東大震災
この地震による死者、行方不明者は14万人を越え、約350万人が被災しました。
この時はちょうど昼食時で、台所からの火災が酷かったといいます。
またこの時「朝鮮人が放火した」というデマが流れ、朝鮮人や朝鮮人に間違われた中国人などがたくさん殺されるという悲しい事件も起きました。
大正時代の人々の中には民主主義の実現を願う気風が広まり、全国各地で大正デモクラシーと呼ばれる民主化運動が激しく行われたり、政治面においては普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に関しての運動や、外交面においては生活に困窮した国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動が、そして社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な団体による運動が多く展開されました。
ロシア革命後の共産主義勢力であるソビエト社会主義共和国連邦は、日本にとってかなりの脅威でした。
共産主義思想を徹底的に潰そうと治安維持法ができました。
治安維持法は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律です。
1925年1月のソ連との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて1925年4月22日に公布され、5月12日に施行天皇の勅令により日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行されました。
しかしこの頃の日本国内では、社会主義、共産主義思想を解いた書物がたくさん出回り、治安維持法があるにも関わらず街角ではそういった書物専門の本屋もありました。
大正時代、日本はアジアで唯一列強の仲間入りを果たしましたが、ソ連共産主義という脅威、そして大きくなりすぎた日本を面白く思わないアメリカなど日本を取り巻く外交情勢は緊迫した状態になっていきました。
そんな中、現在の私たちの住む日本の地位を位置付けた、激動の昭和へと時代は進んでいくこととなります。