昭和天皇
昭和と言えば、日本が平和から戦争、そして平和へと歩んできた激動の時代でした。
また戦後昭和史は、良くも悪くも平成を生きる私達の生活の基盤そのものとなりました。
大正時代に列強として世界に認められた日本は、世界各国とさかんに貿易をするようになります。
昭和初期には世界大恐慌が起こります。
それは、1929年(昭和4年)10月24日のニューヨークウォール街での株価大暴落によって引き起こされました。
この事は日本経済にも深刻な影響を与え、翌年には濱口内閣が実行した金解禁(金輸出入の解禁)を機に日本国内にも昭和恐慌が引き起こされました。
この恐慌は戦前の恐慌で最も深刻なものでした。
イギリス・フランス・アメリカなどは植民地囲い込みによる経済の建て直しを図りましたが、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を払い経済が不安定なドイツや、高収益な植民地を持っていない日本は深刻な経済不況に陥ってしまいます。
このドイツの恐慌はファシズムの台頭を招き、ドイツではナチス党を生み出す結果となり、日本では「満州こそ日本の生命線である」との主張から、陸軍の大陸への進出を押し進めてしまう結果となってしまいました。
翌1930年(昭和5年)、アメリカやイギリスが中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催されました。
1922年(大正11年)に締結したワシントン海軍軍縮条約(大正時代参照)で巡洋艦以下の補助艦艇の建造数に関しては無制限としたのですが、各国とも条約内で可能な限り高性能な軍艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造していきます。
その結果、日本が建造した妙高型重巡洋艦が他国の重巡洋艦の性能を上回り、これに脅威を感じたアメリカとイギリスが日本軍艦を制限するためにこの会議を開催したのです。
妙高型重巡洋艦
この頃にはすでに日本工業技術のレベルは世界一の水準を誇り、外国はそれに対して脅威を感じていました。
その後、この条約内容が日本にとっては一方的に不利だった為、1936年(昭和11年)1月15日、日本は条約会議を脱退し軍縮の時代は終わり日本海軍は大艦巨砲主義時代を迎え、戦艦「大和」「武蔵」を建造する事になります。
1931年(昭和6年)には満州事変が勃発し、翌年3月には関東軍の後押しにより「満州国」が建国されます。
満州国建国に伴い国際連盟からリットン調査団が派遣され、満州国の合法性こそ否定しましたが、日本の主張や権益の重要性は認められ配慮されました。
しかし、国際連盟が満州国の存在自体を認めなかった為、日本は国際連盟を脱退せざる得ませんでした。
日本国内はすでに軍国主義一色に染まりつつあり、国民の生活はさらに苦しくなる一方でした。
そんな時、日本を揺るがす大事件がおきます。
ヨーロッパでは1936年(昭和11年)8月、ドイツのベルリンでオリンピックが開催され、日本は154人の選手団を送り込みました。
日本選手は目覚ましい活躍をし、金メダル6個を獲得しました。
この大会での日本の活躍を見た世界各国の記者達は、
「近頃の日本の活躍、そしてエネルギーには驚かされる。 それはスポーツだけでなく学問や技術面にも言える。 特に工業技術の発展は今や世界の経済を揺るがすまでになった。」
と報じました。
その工業技術を活かした商品により、海外との貿易が一段と盛んになるのもこの頃でした。
日本貿易市場は列強諸国の植民地が多いアジア各地へと次々に進出していきます。
インドネシアに関しては、当時オランダの植民地であり、資本のほとんどが華僑やオランダの場合が多く、そこへ日本の資本も少しずつ参入していきました。
しかしその事は、各地を植民地とする列強との摩擦が急速に加速する事態を招きました。
国民の生活でも自家用車を手にする家庭や、海水浴やピクニックやボート遊びなど海外の文化が徐々に浸透しつつありました。
昭和10年頃には東京の人口は約580万人で、世界第二位の大都市となります。
昭和10年頃の銀座
昭和12年3月、秩父宮雍仁(ちちぶのみ ややすひと)親王は昭和天皇の名代としてイギリスへ訪問しました。
目的の一つは、当時対立を深めつつあったイギリスとの関係を修復するためでした。
秩父宮が訪問するとイギリス国民は温かく出迎えてくれました。
その後秩父宮はジョージ6世の戴冠式に参加します。
その戴冠式には世界各国から軍艦が参加し、日本からは重巡洋艦「足柄」が参加しました。
ジョージ六世戴冠式記念観艦式式場の重巡洋艦「足柄」
その頃すでに軍縮の時代は終わり、日本・アメリカ・イギリスなどの列強は軍事力競争をしていました。
イギリスの銀行の総裁モンタギュー・ノールマンは
「各国が現在のように生産的な面に金を使わず破壊的な面にばかりに金を使うというのは、いずれ戦争を招くでしょう」
と語り、それを聞いた秩父宮はしきりに頷いたといいます。
その後静養の為スイスを訪れた秩父宮に、日本から思いがけない知らせが入ります。
日本政府は秩父宮に
「ドイツに行ってヒトラー総統に会って欲しい」
と言ってきたのです。
9月13日、秩父宮はニュルンベルクでヒトラーに会いました。
当時、日本とドイツはソ連を仮想敵国と見ていました。
ヒトラーは秩父宮に
「私はスターリンを憎んでいます」
とソ連やスターリンを強く攻撃しました。
その時秩父宮は冷然と
「国際間で相手国の代表者を毛嫌いしていて良いのでしょうか」
と英語でおっしゃられ、ヒトラーの度肝を抜いたといいます。
帰国後秩父宮は、ドイツの経済や財政は非常に悪く、日本が親独と言う立場だけで手を組むのは危険だ、と漏らしたと言います。
しかし秩父宮の懸念をよそに、日本はドイツ・イタリアとの連携を強めていきました。
1937年(昭和12年)7月の廬溝橋事件をきっかけに始まる支那事変で、日本は中華民国内蒙古地方や万里の長城以南を占領下に置いた事で、中国での利権を侵されたアメリカ・イギリスとのさらなる対立を招き、さらにはヨーロッパでイギリス・フランスを相手に戦争をしていたドイツ第三帝国・イタリアと接近していく事となります。
国内では1938年(昭和13年)に、国家総動員法が制定されます。
この法律は、戦争の為であれば国がすべての人的物的財産を自由に使う事ができるというもので、政府は男子をいつでも自由に徴兵でき(徴兵令は年齢や期限その他に条件がありました)、国民が所有する財産も政府が自由に没収し利用できるようになりました。
1940年(昭和15年)9月、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、アメリカ・イギリスとの対立は決定的なものになります。
日独伊三国軍事同盟の調印式
日独伊三国軍事同盟が締結された翌月に近衛文麿(このえ ふみまろ)首相は、戦争遂行の為にあらゆる反対をなくす為、国家が一つになることを目的とした大政翼賛会を結成し、それまでの政党は次々に解散し大政翼賛会へ合流しました。
これにより日本政府は一国一党となり、大日本婦人会や大日本青少年会までが結成され、国民の生活は戦争遂行第一の軍事色一色となっていきました。
近衛文麿 首相
1941年(昭和16年)4月13日、日本はヨーロッパの情勢や自国の防衛を考慮し、ソ連と日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を締結します。
そして徐々に世界から孤立していく日本は、あの悲惨な戦争の時代へと突き進んでいく事となります。
戦争が終わり日本人の軍人や居留民たちは、朝鮮や中国などの海外から次々と帰国しました。
日本はこれまでとは異なり国民は自由に物事を発言し行動できるようになり、女性は初めて選挙権を得ました。
1946年(昭和21年)5月1日、11年の空白を破り労働者の祭典「メーデー」が開催されました。
「メーデー」は共産党や旧社会党系労働組合などが主催し行われます。
人々は発言の自由を得て、「赤い旗」を振りかざしました。
戦時中に使用されていた戦車は復興の為に使うブルドーザに改造され、取り外された鉄の部品は生活用品へと姿を変えていきました。
長年の戦争で、軍国主義思想や皇民化政策による勤皇教育しか受けていなかった国民の頭はからっぽで、あらゆる新しい思想を簡単に受け入れ、その後の共産主義思想が拡大する一つの要因となりました。
一方、日本は1945年(昭和20年)8月から1952年(昭和27年)4月までアメリカの占領下に置かれ、様々な政策を強いられました。
生かさず殺さずの占領体制
戦勝国の為の裁判
あの戦争とは・・・
隣国の悲劇による経済成長
そして1952年(昭和27年)4月に待望の独立を果たした日本は、日本国と名称も新たに、独自の道を歩み始めます。
1964年(昭和39年)には東京オリンピックが開催され、新幹線や高速道路も整備され「もやは戦後ではない」と言われ、経済的に急成長を遂げていきます。
その日本の経済的急成長の裏では、アメリカが戦うベトナム戦争の為の弾薬や軍事物資の製造等による、いわゆる特需経済が多くを占めていました。
また日本は軍備を放棄したため、余分な軍事予算を使わなくてもよかったのも大きな要因でした。
つまり、アメリカに守られて経済成長したと言っても過言ではないでしょう。
それから後、昭和が終わるまで日本の経済成長は止まらず、世界一の貿易黒字を出す国となりますが、昭和が終わると共にその経済成長もバブル景気崩壊という形で終わりを遂げました。