アリューシャン列島の西の端にあるアッツ島とキスカ島は、雪と氷に覆われた極寒の島で、1942年(昭和17年)6月、日本軍はこの二つの島を占領しました。
アッツ島では、穂積松年(ほづみ まつとし)少佐率いる支隊1143名が島の防衛にあたっていました。
一方、隣のキスカ島には舞鶴の海軍陸戦隊約600名と、陣地設営の軍夫約2300名がいました。
アッツ、キスカ両島は、
1.米ソの連絡遮断。
2.米軍の北方からの侵攻の阻止。
3.日ソ開戦時にカムチャッカ半島攻略の拠点。
を目的に、日本軍は確保しておく必要がありました。
しかしすでに周囲の制空権・制海権ともアメリカ軍に奪われている日本は、潜水艦による細々とした補給を行うのが精一杯という状況でした。
そもそも島の防衛に必要な兵力自体が絶対的に不足しており、アメリカ軍が攻めてくれば食い止めることすら難しい状況でした。
補給をしようにも、当時の主な戦場は南洋で、もはや海軍には輸送に必要な船をこれら北方の島へ送る余力は残ってはいなかったのです。
その頃アメリカ軍は、アラスカの西部防衛司令官・デヴィッド中将がアッツ、キスカ両島の奪還作戦の準備を着々と進めていました。
これを知った大本営は、アッツ島の穂積支隊をキスカ島へ転進させ、代わりに北千島駐留の米川浩中佐率いる部隊をアッツ島へ移駐させます。
翌年3月、陣地構築や補給も遅れるなか、アッツ島守備隊長に越後高田の歩兵連隊長だった山崎保代(やまさき やすよ)大佐が任命されます。
山崎保代 陸軍大佐
山崎はアッツ島の現状を熟知しており、故郷の越後高田を出る際に妻と四人の子供達に遺書をしたためています。
4月18日、覚悟を決めた山崎大佐はアッツ島に無事到着します。
この日、ソロモン諸島ブーゲンビル島では山本五十六海軍大将が乗った一式陸上攻撃機が撃墜され、山本大将が戦死しています。
アッツ島に到着した山崎が現地を見て廻ると、陣地建設の遅れ、資材不足、また凍土に対する手作業で多くの兵士が凍傷を患い、そのうえ海軍は、アメリカ軍上陸の前に戦闘機隊を派遣する事を決めており、海軍の強い要請で飛行場の建設もしなくてはならず、大変な人手不足に悩まされてしまいます。
兵力、物資ともに不足しており、特に食糧事情は悪化の一途を辿り、兵士達の食事はお湯の中に米粒がわずかに浮いているような状況にまでなっていました。
1943年(昭和18年)5月12日、このような状況の中ついにアメリカ軍は10000以上の兵力でアッツ島上陸作戦を敢行します。
これに対する日本軍守備隊の総数は約2600名で、日本側は「島嶼(とうしょ)防衛方式」、いわゆる水際作戦により上陸部隊の撃滅を図ろうとしました。
午前10時頃、アメリカ艦隊約30隻は一斉に艦砲射撃を開始すると同時に、空からは航空機による爆撃を行い、建設途中の日本軍陣地を破壊していきます。
日本軍はまだ反撃せず、沈黙していました。
その後、艦砲射撃と空爆がやみ、数十隻の揚陸艇が海岸へ押し寄せます。
アメリカ軍が島の四カ所から上陸をはじめると同時に、日本軍の猛烈な反撃が開始されました。
数の上では日本側を遥かに上回るアメリカ軍は、アッツ島奪還は容易であると考えていました。
しかし日本軍の鬼気迫る反撃は凄まじく、アメリカ兵達の想像を遥かに上回り、日本軍の激烈な戦い方に驚きと恐怖し、後退する部隊まで出ました。
この時、札幌に居た北方軍司令部の指揮官・樋口季一郎(ひぐち きいちろう)陸軍中将は、逆上陸部隊を投入し反攻することを企図し、大本営も海軍の増援部隊の派遣を決定します。
この間にも兵力に優るアメリカ軍は次々と上陸し、すぐにブルドーザーを揚陸させ即座に軍用道路の造成に取り掛かりました。
上陸二日目、日本軍は苦しいながらも闇と霧に紛れ込み夜襲を仕掛けるなど、激しい抵抗を試みます。
そんな中で迎えた14日早朝、山崎のもとに樋口から「援軍を派遣する」との電文が届きます。
これにより日本軍守備隊の士気は一気にあがりました。
16日、樋口は山崎へ「決戦」に打って出るのではなく、援軍がくるまで「持久」を命じています。
樋口は決戦に備え、北方軍司令部を札幌の月寒から、より前線に近い幌筵島に進める準備をしました。
しかし20日、樋口に大本営から驚くべき緊急電報が入ります。
アッツ島への増援を都合により放棄する
つまり、援軍が来ると信じ戦っているアッツ島守備隊を見殺しにすると言うのです。
もはや日本軍にはアリューシャン列島まで艦船を送る余力はなく、艦船を送ることがない以上、撤収すらもできないということです。
実は大本営は18日付けで西部アリューシャンの放棄を決めていたのにもかかわらず、この日まで司令官である樋口には知らせていなかったのです。
しかも、樋口はその日のうちにアッツ島の山崎へその事を知らせなければなりませんでした。
樋口は、
「中央統帥部の決定にて、本官の切望救援作戦は現下の情勢では、実行不可能なりとの結論に達せり。 本官の力およばざることはなはだ遺憾にたえず、深く謝意を表すものなり」
と、アッツ島守備隊へ電文を送りました。
これに対して山崎からの返電が届きます。
「戦さする身、生死はもとより問題ではない。
守地よりの撤退、将兵の望むところではない。
戦局全般の為、重要拠点たるこの島を、力及ばずして敵手に委ねるにいたるとすれば、罪は万死に値すべし。
今後、戦闘方針を持久より決戦に転換しなし得る限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。
なお今後の報告は、戦況より敵の戦法及びこれが対策に重点をおく。
もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸である。
その期いたらば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」
彼は約束を反故にされたことに対して愚痴どころか、自らを責め、将来の戦争のために敵の戦法を報告すると言ってきたのです。
樋口にとっては司令官として大本営の決定は簡単に呑める話ではありませんでしたが、いくら司令官といえども大本営の決定事項に対し抗す術はなく、樋口は涙を流しながら部下を見殺しにせざる得ませんでした。
しかし樋口はただ首を縦に振ることだけではありませんでした。
樋口は命令に頷くと共に、大本営に対し具体的な交換条件を出したのです。
それは、18日にアッツ島放棄と共に大本営が議論していた、キスカ島撤退に対しての意見でした。
樋口はアッツ島の放棄を承諾する代わりに、大本営に対して
「キスカ島の即時撤退を認めてほしい。
キスカ撤収に海軍が無条件の協力を約束するならば。」
と迫ったのです。
アッツ島が落ちれば次はキスカ島です。
増援の見込めない中、現存の兵力で戦っても犠牲者を増やすばかりだ、と訴えたのです。
大本営は18日の時点で、まだ正式にキスカ島撤退を決めかねていましたが、樋口の条件を受理する形で、21日に海軍のキスカ島撤退作戦を正式に承認したのです。
もちろん、大本営はこの訴えにより決定をくだしたのではありませんが、樋口の部下に対する想いが全く伝わらなかった訳ではありません。
5月25日、樋口は参謀らと共に幌筵島に向かい、アッツ守備隊と連絡を取っていました。
山崎は、アメリカ軍の戦略など詳細な情報を打電してきていました。
しかし遂に5月29日、訣別電報を発信した山崎は残った約200名と共に最後の総攻撃を仕掛け、アッツ島エンジニア・ヒルのクレヴシイ峠にて散華することとなりました。
アッツ島で玉砕した日本兵の屍
これは大東亜戦争初の日本軍全滅であり、大本営は全滅と言う言葉を使わず、それを玉砕(玉と砕ける)という美しい言葉で呼ぶように指導し、アッツ島守備隊の全滅で初めて玉砕と言う言葉が使われる事となりました。
その後はご周知の通り、数々の戦場での日本軍の全滅を玉砕と呼ぶようになります。
アッツ島守備隊の戦死者は陸軍2537名、海軍101名であり、アメリカ軍の捕虜となり戦後帰国したのは、わずか27名でした。