1944年(昭和19年)7月7日、サイパン島守備隊は最後の総攻撃を敢行し玉砕しました。
サイパン島を占領したアメリカ軍が次に目標としたのは、南洋群島にあるパラオ諸島でした。
パラオはドイツ領でしたが、1919年(大正8年)第一次世界大戦にドイツが敗れ、国際連盟からの委任により日本が統治した場所で、その後日本政府はパラオ諸島のコロール島に南洋庁を設けるなどして行政を行い、いくつかの島には陸海軍の重要基地がありました。
日本軍の重要基地があるペリリュー島に守備隊の総指揮官として、中国戦線からやってきた中川州男(なかがわ くにお)陸軍大佐が着任しました。
中川州男 陸軍大佐
この島には飛行場があり海軍航空隊もありましたが、その頃になると毎日定期便のようにやってくるアメリカ軍の爆撃により飛行場は破壊され航空機も減少し、もはや航空戦力は期待出来ない状況でした。
中川は着任してすぐに島をくまなく歩き回り、数々の洞窟や鍾乳洞を発見します。
この島は隆起が激しく凸凹しており、河川は一本もありません。
幸い、一日一回必ず降るスコールのお陰で水には困りませんでした。
当時大本営は各基地に敵が上陸してくると同時に攻撃する、いわゆる水際作戦を重点的に行うように指導していました。
しかし中川はそれを行わず、洞窟を利用し地下へ潜り徹底抗戦の持久戦が有効だと考えました。
つまり天然の洞窟に付け加え、地下要塞を構築し、島全体をトーチカ要塞にしてしまおうと言うわけです。
決戦の準備は着々と進んで行きます。
洞窟を掘る途中、岩盤が硬く苦労した場所もたくさんありましたが、何とか島中に洞窟を掘り終えました。
サイパンでは、他の島への避難が遅れた約20000名の民間人が巻き込まれ、守備隊と運命を共にしました。
それを知る中川は、ペリリュー島に住む民間人すべてを他の島に避難させます。
この時、パラオの現地人達は日本軍と共に戦う決意をし中川へ申し出ますが、断られています。(アジアの解放と独立パラオ共和国参照)
日本軍ペリリュー島守備隊は陸軍5332名、海軍3646名、合計8978名で編成されていましたが、この兵力はサイパン島守備隊の約三分の一、グァム島守備隊の半分以下しかありませんでした。
ペリリュー島での戦いは、その後のフィリピンや沖縄、さらには日本本土の戦局を左右する重要任務であり、一日でも長く守り抜く事で軍全体の準備期間を増やし立て直す事が目的であり、ひとことで言えば、負ける事を前提に時間稼ぎをするための作戦でした。
つまり、最終的には必ず玉砕するという事を想定した戦いだったのです。
アメリカ軍は上陸前にはペリリュー島陥落はせいぜい二日か三日くらいだと考えていました。
ペリリュー島上陸部隊の師団長リュバータス少将ですら、四日で占領出来ると言ったといいます。
9月12日、遂にアメリカ軍が大軍で襲い掛かります。
島の沖合約13キロに戦艦3隻、空母11隻、巡洋艦約20隻、駆逐艦約30隻、輸送船約50隻、その他合わせて200隻以上の大艦隊が襲来し、猛烈な艦砲射撃と艦載機による空爆を一斉に開始してきました。
その後3日間で島に撃ち込まれた砲弾は約17万発、重さにして約4000tにもなったと言われています。
この攻撃により小さなペリリュー島はその大半を焼き尽くし、ジャングルは丸裸にされましたが、地下壕陣地はびくともしませんでした。
9月15日、アメリカ軍の約300隻の上陸用艦船が島に向かって来ました。
しかし、あらかじめ仕掛けておいた無数の機雷に接触し、次々と木っ端みじんに吹っ飛んでいきます。
それと同時に日本軍の猛攻撃が開始されました。
しかしアメリカ軍は猛烈な艦砲射撃に援護され、次々に上陸し始めます。
海岸近くでは、敵味方入り乱れての激しい接近戦となり、その日本軍の抵抗は、それまでアメリカ軍が経験したことのない頑強さだったといいます。
海岸はアメリカ軍兵士達の血で真っ赤に染まり、辺りはアメリカ兵の死体で埋め尽くされました。
米兵の屍で埋め尽くされる「オレンジビーチ」
怯んだアメリカ軍は一時撤退を余儀なくされましたが、その後兵力と物量にものを言わせ次々と再上陸します。
日本軍は戦車17輌と決死斬り込み隊が攻撃しますが、兵力の差はあまりにも違い過ぎました。
アメリカ軍は基本的に夜間は戦闘しません。
それを知っていた中川はその日の夜、アメリカ軍へ夜襲をかけます。
夜襲をかけるのは、いわゆる斬り込み隊で、死ぬ事を前提とします。
しかしアメリカ軍の反撃は素早く、徐々に日本軍は苦戦を強いられます。
上陸3日目には日本軍はほとんどの兵力を失います。
しかし大小500にも及ぶ地下壕に立て篭もる日本兵は、アメリカ兵の思いもよらない場所から攻撃し、さらに夜間は闇の中から小数で斬り込んで、アメリカ兵達は油断できない状態の中、恐怖で気が触れる者もでるほどでした。
後にアメリカのドキュメンタリー作家ジョン・トーランドは、
「統計的に言えば、一人の日本兵を殺害するために、1589発の弾薬を必要とした。」
と記しています。
9月22日、日本軍はパラオ本島から援軍を送ります。
船でペリリュー島に移動中、アメリカ軍に見つかり、空と海から激しい攻撃を受け死傷者を出しながらも、二日後にはペリリュー島に到着しました。
途中彼らはアメリカ軍の攻撃に合い船が座礁したため、完全軍装のまま海岸まで歩いてたどり着いたといいます。
9月27日には飛行場が占領され、監視塔の上に星条旗が翻ります。
その後も連日連夜、激しい戦闘が繰り広げられ、次第に弾丸も食糧もなくなっていきました。
激戦が続き11月15日、ペリリュー島守備隊に対して、昭和天皇から十回目のご嘉賞のお言葉が打電されてきました。
それを聞いた日本兵達は感涙し、副官の根本甲子郎大尉らが中川に総攻撃の玉砕出撃を進言します。
しかし中川は、
「諸君の気持ちは分かるが、軍人は戦うのが務めである。 最後の最後まで務めを果たさなければならん。 玉砕するより、最後の一兵になるまで戦い抜き、最後の務めを続けよう。」
と指示しました。
11月22日、アメリカ軍は猛烈な砲撃を浴びせながら火炎放射器を連ね、中川たちがいる主陣地に向かってきました。
アメリカ軍に包囲されるなか中川はパラオ本島集団司令部に次の電文を発信しました。
「通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以ッテ最後ノ電文ハ左ノ如ク致度承知相成度。
一、軍旗ヲ完全ニ処理奉レリ
ニ、機密書類ハ異常ナク処理セリ
右ノ場合、『サクラ』ヲ連送スルニツキ報告相成度」
つまり、軍旗と機密書類を処理した後玉砕する時には「サクラ」という暗号を連ねて発信する、という意味です。
二日後の11月24日朝、中川大佐率いる日本軍50名と重軽傷者70名はアメリカ軍に完全に包囲され、玉砕を覚悟した中川は根本大尉に 「髭を剃ってくれ」 と頼みました。
武士が身だしなみを整えるのは、古式にのっとった自決をする前である事を知る根本は、こみ上げる涙をこらえて中川の髭を剃ったといいます。
石鹸もなく軍用ハサミで髭を剃った中川は、 「これでよか。 いくらか仏さんの顔になったかな」 と、剃り傷から血を流しながら笑みを浮かべ、つぶやきました。
そして午後4時、玉砕を意味する電文「サクラ、サクラ」を司令部に打電した中川は兵士達を労い、根本らと共に洞窟の奥に進み、以後の戦術を指示したあと、軍旗に深く頭を垂れ、その後遥か日本本土の方角へ向かい深く一礼した後割腹し、連隊旗手の鳥丸中尉が介錯を勤め自決を遂げました。
これにより当初数日で陥落すると言われたペリリュー島守備隊は、一人の民間人の犠牲も出さずに72日間も持ちこたえ玉砕しました。
組織的戦闘は終わりましたが、残った兵士達はゲリラとなり戦い続けました。
1945年(昭和20年)8月15日に日本は降伏しますが、ペリリュー島の洞窟に潜む日本兵約80名はそれを知らず戦い続け、アメリカ軍の物資を奪いながら生き延びていました。
度重なる呼びかけにも応じなかった最後の日本兵達が洞窟を出てアメリカ軍に収容されたのは、終戦から二年後の1947年(昭和22年)4月21日の事で、生き残ったのは陸軍22名、海軍12名の計34名だけでした。