1936年(昭和11年)、この頃の日本も現在と同じく国民は貧富の差に悩まされていました。
貧しい人々は、その日食べるのも大変な状況でした。
政治家達は国民の苦労を解ろうとせず、国民達の中にはなぜこのような貧富の差が生まれたのか、この問題の改善策とはなんなのかを考え、疑問を持つ人々がいました。
皇道派と呼ばれる陸軍青年将校達です。
「皇道派」の青年将校達は、日常的に同じく陸軍参謀本部に勤務する統制派と対立していました。
皇道派青年将校達は、この国民の貧しい生活実態を政治家達が天皇に伝えていない、と考えました。
遂に、この不満と陸軍内部の対立により皇道派約1500名は2月26日、時の陸軍大臣・川島義之(かわしま よしゆき)の前で「蹶起(けっき)趣意書」を読み上げ東京永田町を占拠、高橋是清(たかはし これきよ)大蔵大臣をはじめ閣僚らを殺害してしまいます。
この軍事クーデターにより東京の首都機能は完全に麻痺してしまいました。
決起する皇道派青年将校たち
山王ホテルを占拠した皇道派青年将校
しかし天皇は彼ら皇道派の意見にこそ同情したものの、君主自らも法を守る義務があると考え、彼らの法を犯した行動に激怒され、自らが軍隊を率いてでも反乱軍を鎮圧するとまで仰りました。
そこで日本海軍は東京湾に戦艦「長門」を停泊させ、その40センチ主砲により占拠された国会議事堂を吹き飛ばす用意をしました。
しかしシュミレーションにより、その凄まじい威力で破壊された国会議事堂の破片が後方広範囲に飛び散り、一般民家にまで被害が及ぶ事が予想され、この作戦は中止となります。
その後皇道派の将校達は、自分達の行動に対し天皇が激怒されている事を知り、次第に正規軍へ降伏していき、29日になりやっと事件は収まりました。
逮捕されたリーダー格の青年将校らは非公開の軍法会議により反乱軍首謀者として死刑となりました。
彼ら「皇道派」がとった行動は法の上では間違っており罰せられてしまいましたが、実は天皇自身は彼らと国民の気持ちを痛い程わかっておられました。
しかし昭和天皇は、国家のリーダーが一度でも法の秩序を乱してしまうと取り返しがつかない事を知っておられ、心を鬼にしてこのような結論を出されたと言われています。
この事件は、事態を鎮圧した「統制派」を含む陸軍の政治に対する発言力を強める結果となり、その後の日本の政治は国内外問わず軍部の大暴走へと突き進んで行くことになります。