日本軍は開戦から半年の間、勝ち続けます。
東南アジアに次々と攻め込み欧米の植民地を占領し、南方の資源を獲得していきます。
1942年(昭和17年)4月、アメリカは日本の不意をついて反撃を始めます。
日本近海の空母から「B17」爆撃機で日本本土に空襲を開始します。
4月18日、東京をはじめ日本の都市は空襲を受けます。
焼け野原と化した東京
1942年(昭和17年)6月5日、日本海軍はミッドウェー島を攻略しようと、南雲中将率いる第一機動部隊は空母4隻、山本長官率いる第一戦隊は戦艦7隻、そのほか参加艦艇150隻と航空機1000機以上の大軍をもって攻め込みました。
この時に起きた海戦をミッドウェー海戦といいます。
1時30分、ミッドウェー島北西に達した南雲機動部隊はアメリカ軍基地を攻撃するために第一次攻撃隊108機を発進させました。
攻撃隊は飛行場や高角砲などを爆弾で攻撃しましたが完全には破壊しきれず、4時ちょうどに第二次攻撃隊を要請します。
これを受けた南雲は雷装(魚雷や艦船用爆弾を装備する事)で待機していた第二次攻撃隊を爆装(陸地を攻撃する爆弾を装備する事)へと、兵装転換命令を出します。
ところが4時22分、味方の索敵機が
「敵ラシキモノ十隻見ユ」
と報告してきました。
それを聞いた南雲は
「敵艦隊攻撃準備、雷撃機は雷装そのまま!」
と、再び兵装転換命令を出しました。
二度に渡る兵装転換命令と、そこに敵基地を攻撃し終えた第一次攻撃隊が帰投して来たため、4隻の空母の甲板はパニックとなりました。
兵装転換中の第二次攻撃隊の飛行機を格納庫に降ろし、第一次攻撃隊を着艦させ格納庫へ収納、そして再び第二次攻撃隊を甲板に並べ終えた時、時刻はすでに7時20分になっていました。
やっとの思いで第二次攻撃隊が発進しかけたその時、アメリカ軍機が襲って来ました。
そして遂に、攻撃隊のほとんどを発進させる事なく、「赤城」をはじめ日本の主力空母4隻はすべて撃沈されてしまいました。
傾いた艦上で万歳をする乗組員たち(空母「瑞鶴」)
この判断ミスは太平洋の戦局を逆転させ、その後の日本軍の運命そのものを変えるものとなり、陸海軍ともに戦況は悪くなっていくきっかけとなりました。
そして日本はアメリカの生産力の違いを目の当たりにする事になります。
1943年(昭和18年)4月18日、山本長官が飛行機でブーゲンビル島などの前線基地視察の途中、アメリカ軍戦闘機18機に待ち伏せされ撃墜され殉職してしまいます。
この頃になると、日本軍の暗号はすべて解読されており、山本の視察日程もアメリカ軍につつぬけでした。
連合艦隊司令長官の後任には古賀峯一(こが みねいち)大将が着任しますが、古賀もまた飛行機事故で亡くなります。
次の司令長官には豊田副武(とよだ そえむ)大将が任命され、終戦まで勤める事となります。
この頃からアメリカ軍は本格的に反撃を開始します。
1943年(昭和18年)11月、アメリカ軍は中部太平洋タラワ島に上陸、激しい戦闘の末に日本軍は最後の総攻撃をかけ玉砕します。
激しい反撃により太平洋の島々は補給線を断たれ、島に残された日本兵達は飢えと病気に苦しみ、次々に死んでいきました。
ニューギニアにいた兵士、小川正二さんは
「ニューギニアは年中緑あふれる場所だった。 けれども、あれは緑の砂漠だった。 先発して苦戦を強いられた兵士達の死体が道の端に散乱していた。 すでに白骨化している人もいた。 死んだばかりの人は、たかった虫で死体が銀色に光って見えた。 あの山岳地帯一帯が死の悪臭に包まれていた。」
と書き残しています。
1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍は日本の委任統治領サイパン島を攻撃、上陸します。
サイパンは日本が絶対国防圏と位置付ける、最重要拠点でした。
日本海軍はサイパン島を死守する為に総力をあげアメリカ軍空母部隊への攻撃を実施しますが、日本海軍の航空隊はそのほとんどが撃墜され、反撃を開始したアメリカ軍航空隊は次々に日本軍空母部隊を攻撃しました。
この2日間に渡る戦いで日本海軍は、空母3隻他、航空機400機以上を失いました。
孤立してしまった日本軍サイパン島守備隊は、アメリカ軍の圧倒的な兵力により苦戦を強いられていました。
従軍看護婦だった菅野静子さんは
「衛生兵達は、患者の手当よりも死体を棄てに行く仕事のほうが忙しいくらいになってしまった。 暗くなってから砂糖キビ畑の中は一面『ボーッ』と青白い光りが燃えあがっていた。 みな棄てられた死体から放つリン光なのだ。 私にとって一番嫌な事は、自分の看護した兵隊さんの死体を見る事であった。 日に日に腐って崩れてゆく。 恐ろしいと言うよりは、哀れで情けなかった。」
と残しています
7月7日、日本軍は最後の総攻撃をしたのち玉砕しました。
サイパン島での戦闘は約20000人の日本人民間人を巻き込む壮絶な戦いでした。
戦いが終わるとサイパン島の北端にあるマッピ岬には、追い詰められた女性や子供を含む民間人約4000人が集まりました。
サイパンで暮らしていた奥山良子さんは、
「もしアメリカ兵に捕まったら酷い目に合うと聞かされている。 戦車で轢き殺されたり、軍用犬の檻に掘り込まれ、ボロきれのように噛み殺されるといったふうに。 みんなはそれを少しも疑わず信じていた。 そんな目に合うくらいなら、潔く自決したほうがよい。 そう私達は自分に言い聞かせていた。」
と手記を残しています。
マッピ岬の事を別名バンザイクリフといい、民間人はここから次々に「万歳」を叫びながら跳び降り、自らの命を絶っていきました。
最終的にサイパンの戦いでは軍人、軍属、民間人合わせて約50000人が死亡しました。
追い詰められ、崖から飛び降りる民間人
飛び降りた民間人の屍
サイパン島を占領したアメリカ軍は、1944年(昭和19年)夏にはサイパンだけではなくグァム、テニアンなど近くの島々に飛行場を整備し、新型の長距離戦略爆撃機「B29」を配備、日本本土はここから空襲を受けることになりました。
B-29爆撃機
日本本土に爆弾を投下するB-29爆撃機
アメリカ戦略空軍カンニガム大佐は
「今や日本には非戦闘員は存在しない。 我々はその場所、男女を問わず、最短期間に最大多数の敵を求め、殲滅せんとするものである」
と述べました。
B29搭乗員ジョン・チアルディは
「私の仕事は、日本の都市を焼き払うという恐ろしいものだった。 都市とは女性や子供、それに老人て事だ。 私の野蛮な声が『日本人を生かしておくなんて情けないぞ』と囁きかける。 私達がやった事と言えば、ボタンを押しただけ。 私は自分が殺した相手は、誰一人見てない。」
と、その時の心境を語っています。
これにより、日本の大都市のほとんどは焦土と化します。
また、日本が統治する南洋の島々もアメリカ軍の攻撃を受けることになります。
1944年(昭和19年)10月20日、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への上陸を開始します。
日本海軍は現存の艦船すべてをレイテ湾に突入させ、アメリカ軍の撃滅を試みます。
突入部隊は、栗田建男(くりた たけお)海軍中将率いる「大和」「武蔵」「長門」「金剛」「榛名」の戦艦5隻を主力とする、第一遊撃部隊主隊(栗田艦隊)、西村祥治(にしむら しょうじ)海軍中将率いる、戦艦「山城」「扶桑」の第三部隊(西村艦隊)、そして志摩清英(しま きよひで)海軍中将の巡洋艦、駆逐艦を中心とした第二遊撃部隊(志摩艦隊)でした。
これより前の戦いで、多数の航空機と搭乗員を無くし補充できなかった小沢中将率いる空母機動部隊は、アメリカ軍機動部隊を北へ引き付ける為に囮(おとり)となり出撃しました。
10月22日、栗田艦隊はブルネイを出撃、翌日アメリカ潜水艦の攻撃により旗艦の重巡洋艦「愛宕」「摩耶」の沈没をはじめ、他も大破されてしまいます。
さらに24日、シブヤン海でアメリカ軍機により、遂に不沈艦と呼ばれた戦艦「武蔵」が撃滅されます。
レイテ沖で攻撃を受ける戦艦「武蔵」
25日には西村艦隊が全滅し、アメリカ軍機動部隊を北方へ足止めする為に囮となった小沢機動部隊もすべて撃滅され、ここに日本海軍連合艦隊は事実上壊滅しました。
圧倒的に優勢なアメリカ軍に対し日本軍は、爆弾を搭載した飛行機で体当たりする神風特別攻撃隊を編成し、それを実施します。
そして日本領土である小笠原諸島にある硫黄島にアメリカ軍が攻め込み、日本領土としては初めてアメリカ軍に占領されてしまいます。