1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し連合国に対して降伏しました。
そして各地の日本軍は天皇陛下の詔勅を聞き入れ武装解除し、日本軍と連合国軍は停戦状態へ入りました。
その日、千島列島最北端に位置する占守島(しゅむしゅとう)では電波状況が非常に悪く、天皇陛下の詔勅を聞く事ができませんでした。
そして翌日16日に師団参謀立ち会いのもと終戦が伝えられ、日本軍は17日より武装解除の準備に取り掛かっていました。
銃器類はもとより、戦車からは無線機を取り外し、軍施設全ての爆砕と車輌の海没の準備まで進めていました。
日付が18日に変わり夜明け間近のまだ暗い時、突然島の北側対岸にあるカムチャッカ半島ロパトカ岬から占守島に向けて砲撃が開始されました。
島の最北端にある監視所からも
「海上にエンジン音聞ゆ」
と連絡があり、武装解除中の日本軍は危険を察知し、急いで戦闘配備につきました。
その間にも
「敵輸送船団らしきもの発見」
「敵上陸用舟艇発見」
と次々に連絡が入り続け、遂に
「敵上陸、兵力数千人」
との知らせが入りました。
日本陸海軍は航空部隊まで動員して反撃しました。
始めはアメリカ軍かと思われた敵はソ連軍でした。
ソ連軍は島に上陸しましたが日本軍の反撃を受け、島内陸に前進出来ずにいました。
その時戦闘中に第五方面軍から
「戦闘停止、自衛戦闘に移行」
の命令が入り、占守島第九十一師団はソ連が攻撃してくるなか軍使を派遣し停戦交渉を進め、21日に戦闘は終わりました。
この4日間の戦闘では、日本軍約1000名、ソ連軍約3000名の死傷者を出しました。
実はこの戦闘中、島には国民の食糧確保のために約2500名の民間人が缶詰工場で働いており、その内約400名が若い女性達でした。
第九十一師団の参謀以下世話役の大尉達は、 「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者が出る。 なんとしてでもあの娘達を北海道に送り返そう。」 と相談し、当時島にあった船20数隻に約400人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向け出港させました。
ソ連軍航空部隊の爆撃の中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い、無事出港させる事が出来ました。
その5日後、 「全員無事、北海道に到着した」 の知らせが島に届きます。
そして停戦後に上陸してきたソ連兵達は、案の定女性を捜し回りましたが後の祭りでした。
こうして第九十一師団ほか日本軍占守島守備隊は彼女達をソ連軍から守ったのです。
その後日本兵達はソ連軍に逮捕され殺されたり、シベリアなどに抑留されたりしました。
こうして日本が降伏した後に襲って来たソ連は、日本が日露戦争で獲得したカムチャッカ半島だけでなく、全千島列島・北方四島を奪い捕っていったのです。