フィリピン第一航空隊司令官・大西滝治郎中将の提唱により始まったとされる、航空機による体当たり攻撃部隊を神風特別攻撃隊といいます。
特攻機は250キロもしくは500キロ爆弾を搭載し基地から敵艦までの片道燃料しか積まずに敵艦に体当たりして行きました。
陸海軍合わせて、戦闘機や爆撃機約2400機、約3900名がこの体当たり攻撃に散華したと言われています。
戦艦「大和」に参謀として乗り込んでいた宇垣纏(うがき まとめ)海軍中将は戦争末期、鹿児島県鹿屋海軍航空隊の司令官となり4月6日になって菊水一号作戦が発令されると、一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させましたが、その頃にはすでにアメリカ軍の新型レーダーにより敵艦に到達する前にほとんどが撃墜されていました。
1945年8月15日(終戦日)玉音放送を聞き終えた宇垣中将は軍服に着いた階級バッチを外し、自ら部下の操縦する艦上爆撃機「彗星」に同乗し以下11機と共に翌16日、沖縄のアメリカ軍空母へ向け体当たり攻撃を敢行しました。
階級標を外す宇垣纏 海軍中将