日本は明治時代から強力な戦艦を所有してきました。
日本海軍の戦艦は、大正時代までイギリスに依頼し建造してもらっていました。
その最後となる戦艦が「金剛」で、大正2年に建造されました。
「金剛」と同型の「比叡」「霧島」「榛名」はその図面をもとに横須賀海軍工廠で建造され、初の日本製戦艦となりました。
戦艦「榛名」
当初の戦艦の艦橋は低く、昭和になるとすべての戦艦は近代改装され、艦橋はビルのようにみるみる高くなっていきます。
大正半ばになると「長門」「陸奥」の40センチ主砲を搭載した強力な戦艦が造られ、弩級戦艦時代に入ります。
戦艦「長門」
こんな話があります。
大東亜戦争時にアメリカ大統領ルーズベルトが海軍関係者に 「日本はいつ占領出来るか」 と尋ねたところ、海軍関係者は 「だめです。日本には『長門』がいます」 と答えたそうです。
長門型戦艦2隻はかつて世界の「ビッグ7」の中に入っていました。(「陸奥」は昭和18年6月に、広島県柱島泊地にて謎の爆発事故を起こし、沈んでしまいます)
ところで、何故戦艦の主砲の口径が大きいと良いのでしょうか。
答えは単純で、主砲の口径が大きければ大きい程、射程距離が延びるからです。
「長門」「陸奥」の40センチ主砲の射程距離はおよそ40000メートルです。
東京駅から発射して横浜駅に到達するくらいの射程距離、と考えて下さい。
大東亜戦争当時各国の戦艦の主砲は、だいたい40センチ砲くらいが主体でした。
日本はそれを上回る46センチ砲を搭載した戦艦を建造しました。
ご存知「大和」と「武蔵」です。
建造中の戦艦「大和」
戦艦「大和」
「大和」「武蔵」の46センチ砲は射程距離42000メートルで、まさに世界最大であり最強の戦艦でした。
日本軍はこの巨砲でアウトレンジ戦法による敵艦隊潰滅を考えていました。
「アウトレンジ戦法」とは、敵艦隊が放つ主砲弾の射程距離より離れた場所から敵を攻撃するという手段で、これにより敵の砲弾はこちらには届かず、こちらの砲弾は命中するのです。
しかし、日本軍は開戦時のハワイ奇襲とマレー沖海戦により、自ら戦艦ではなく航空機の戦力効果を立証しました。
連合艦隊司令長官・山本五十六はハワイ攻撃の戦果を見て、
「これからは航空機の時代だ」
と確信していました。
日本は、自ら効果を実証しながら「大和」「武蔵」のあとに同じ大和型戦艦「信濃」「紀伊」の2隻を建造しようと着手します。
さらに50センチ砲の試作も成功させており、50センチ砲を搭載した超弩級戦艦の設計を手掛けます。
しかしこちらは戦局の悪化により、設計段階で中止されました。
大和型三番艦「信濃」は着手されましたが、昭和17年のミッドウェー海戦で空母4隻を失った事により、空母に改装されました。
大和型戦艦ベースの空母と言う事で装甲が厚く、世界最大の排水量を持つ空母として竣工しました。
ちなみに「信濃」は、艤装するために横須賀から呉へ向かう途中、昭和19年11月29日に航空機を一度も搭載せずにアメリカ潜水艦に和歌山県潮岬沖で撃沈されており、その命はたった10日間でした。
空母「信濃」
「紀伊」の建造はキールのみで中止されました。
日本軍の軍艦の沈没は、そのほとんどが航空機の攻撃によるものでした。
「大和」「武蔵」も航空機により撃沈されました。
アメリカはいち早くそれに気付き、空母・戦闘機・爆撃機を量産し、戦果をあげていきました。
それともうひとつ、アメリカの地理は船が西海岸と東海岸を行き来するには、必ずパナマ運河を通らねばならず、それ以外のルートは距離が遠く時間が掛かり過ぎます。
したがって川幅が狭いパナマ運河を通行するために、現存する艦船より大きな艦を建造することが出来なかったのです。
この事から見ても、アメリカは運にも見放されなかったのかもしれません。
かつて世界中の海を賑わせた戦艦はミサイルの発達により、アメリカ海軍の「ミズーリ」を最後に、その姿を消してしまいました。
最後の戦艦、米海軍「ミズーリ」