世界最大最強の戦艦「大和」「武蔵」の出現は、連合国にとり大変な脅威でした。
しかし時代はすでに航空機の時代となっており、世界の海は航空母艦が征していました。
ミッドウェー海戦での大敗により連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもと いそろく)は、これ以上主力艦を失う事を恐れ慎重になりすぎて、この2隻の戦艦に活躍の場を与えませんでした。
しかしフィリピンレイテ沖海戦で「武蔵」を失い、その後は泊地としていたマリアナ諸島を失い、残った主力艦は日本へ帰り停泊していました。
その頃になると日本には石油がほとんど無く、残った軍艦は燃料不足の為ほとんど出撃できずに、各港に停泊せざるを得ませんでした。
1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍は沖縄へと上陸を開始しました。
これに対抗する手段は、もはや特攻しか残されておらず、陸海軍合わせて数百機もの特攻機が導入されました。
そして戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊も沖縄へ向けて出撃する事となります。
しかしこの出撃は、航空機による特攻作戦「菊水作戦」の一環として
「アメリカ軍機動部隊の真っ只中へ突入し、そのまま沖縄本島にある嘉手納基地へ向かい、陸上に乗り上げ砲台としてアメリカ軍機動部隊に対抗せよ」
という作戦(天一号作戦)でしたが、第二艦隊には護衛の航空機は一機もなくたどり着くだけでもほぼ不可能な作戦でした。
この頃大本営は、本土決戦の為に国民一億総特攻を唱えはじめており、国民に対して日本軍の面子を示す為に「大和」を沈めさせる事にしたのです。
つまり、主力艦が残されたままでは国民に対して「死ね」と言いにくいという訳です。
この作戦概要を聞いた第二艦隊司令長官・伊藤整一(いとう せいいち)海軍中将はじめ第二艦隊首脳は猛反対しましたが、草鹿龍之介(くさか りゅうのすけ)参謀長の 一億総特攻の魁となってほしい との言葉に、これを了解しました。
伊藤整一 第二艦隊司令長官
草鹿龍之介 参謀長
4月6日、菊水作戦の海上部隊として天一号作戦に参加の「大和」を旗艦とした軽巡洋艦「矢矧」他駆逐艦8隻の第二艦隊は、日本海軍最後の艦隊として瀬戸内海柱島泊地を出発します。
豊後水道を南下中の第二艦隊は、アメリカ軍潜水艦に発見されてしまい、その構成と行動はアメリカ軍に筒抜けとなっていました。
翌日午前中、鹿児島県鹿屋海軍航空基地から第二艦隊上空に15機の戦闘機が護衛につきました。
これは、鹿屋航空基地司令官である宇垣纏(うがき まとめ)海軍中将の独断での護衛でした。
宇垣中将は以前「大和」に乗艦勤務しており、「大和」に特別な思い入れがあったのかもしれません。
しかし、この護衛は数も少なくほとんど見送りに近いもので、これら護衛の戦闘機はしばらくすると帰ってしまいました。
彼らにはこの後本来の任務である、「特攻」があったのです。
この数機の護衛でも第二艦隊乗組員達は大変心強かったと言います。
第二艦隊は、鹿児島県佐多岬を過ぎた辺りで行き先を秘匿するために進路を西へ取ります。
しかし、無線傍受によりアメリカ軍にその行き先をチェックされているのは明らかで、11時30分には沖縄へ進路を向けています。
実は約90分の進路変更で「大和」は就航以来願ってやまなかった戦艦同士の決戦のチャンスを逃していました。
沖縄周辺にいたアメリカ海軍第五艦隊司令長官スプルーアンス大将は、最初「大和」を戦艦で撃沈しようとしていました。
しかし日本第二艦隊の偽装進路の為に「大和」を捕捉できなくなってしまったのでした。
そこでスプルーアンス大将は艦隊決戦を諦め、機動部隊のミッチャー中将に「大和」攻撃の命令を下したのです。
4月7日、お握り3個・たくあん2切れ・牛肉一つまみの戦闘配食を食べ終えた12時19分、薩摩半島坊ノ岬沖に達した第二艦隊にアメリカ軍艦載機の第一波攻撃隊30機以上が襲い掛かりました。
12時32分「撃ち方始め」の合図と共に、46センチ砲が火を噴きます。
ところが、その後は曇りの為に主砲を撃つ機会はなかったといいます。
この攻撃で「大和」は魚雷1本を受けます。
第一波攻撃隊は12時50分に引き上げていき、13時20分には第二波攻撃隊100機以上が襲ってきました。
この攻撃で「大和」は魚雷3本を受けました。
アメリカ軍はレイテ沖海戦で「武蔵」を撃沈した時、左右に攻撃し20発の魚雷でやっとの思いで沈める事が出来たので、今回の攻撃は左舷に集中していました。
「大和」は左に7度傾斜しましたが、ただちに右舷に3000tの海水を注水し難を逃れましたが、この時退避命令を出さずに機関室に注水したため、多くの機関科員が水死しました。
第二波攻撃隊は15分程で引き上げましたが、すぐに126機の第三波攻撃隊が襲撃してきました。
米航空機の攻撃を受ける戦艦「大和」
14時2分、左舷中央に爆弾3発を受け速力は10ノットに低下し、艦は左に15度傾斜したことにより主砲及び副砲も使用不能となります。
15度も傾くと何かにつかまっていないと立ってもおれず、ちぎれた手足や頭、胴体が左舷から海に転げ落ちていきました。
内部では膝の高さにまで溜まった血が左に流れいきます。
この時点で軽巡洋艦「矢矧」はすでに沈没していました。
その後右舷に1本、左舷に3本の魚雷を受け、さらに大きく左に傾き、14時20分、総員退去の命令がでます。
伊藤長官は必要な命令を出し終わると、「残念だった」の一言を残し長官室に入り、中から鍵を閉めました。
艦長の有賀幸作(あるが こうさく)は部下にロープを持ってこさせると、羅針盤に自分の身体を縛りつけました。
暗号員は機密漏洩を恐れ、暗号文書を抱いて艦と運命を共にする用意をしました。
大半の生き残りは傾く上甲板に上がり、タバコを吸う者、軍刀を振り回して何かを叫んでいる若い士官や、軍歌を歌う者がいたかと思うと、別の場所ではおもむろに「万歳」を叫んでいる人もいました。
そして14時23分、ついに世界最大最強の戦艦「大和」は大爆発を起こし沈没しました。
その火柱とキノコ雲は高度6000mまで舞い上がり、200km離れた鹿児島からも見えたといいます。
その直後、半径2kmの海面には艦の破片とちぎれた兵士達の身体が降り注ぎました。
こうして、日本海軍連合艦隊はその役目を終えました。
大爆発をお越し沈没する戦艦「大和」
この海上特攻作戦でのその日の死者は「大和」だけでも3000名を超え、他の艦船の犠牲者を合わせると4000名とも4500名とも言われています。