幕末の日本で、徳川幕府を倒して天皇を中心とした新しい日本を造ろう、という動きが現れます。
この時代のこういった動き全体を明治維新と呼んでいます。
では何故、幕末の人々は明治維新なるものを実行しなくてはいけなかったのでしょうか。
江戸時代の日本は鎖国といい、オランダ以外の外国との貿易やお付き合いを禁止していました。
鎖国をしていた日本は、それまで外国と大きな揉め事(戦争)をほとんどした事がありませんでした。
それまでの主な戦争といえば、封建思想(各藩の利益を追求・優先させる考え)で各地の殿様(藩主)やその家来同士が互いの利権等の事で揉め事で起こす、いわゆる戦(いくさ)でした。
つまり、幕末より以前の戦争と言えば日本国内での事だったのです。
幕末の日本にとって驚くような大事件が起こりました。
1840年、お隣りの清国(中国)とイギリスとの間に戦争が始まったのです。
当時日本と同じく鎖国をしていた清国はイギリスとのみ貿易をしていました。
イギリスは清国からお茶を買い、代金を銀で支払っていました。
しかし、イギリスは多額の銀の流出に悩み、ある事を考えました。
それは、インドの麻薬〈アヘン〉を清国へ密売し、アヘン中毒者を増やして銀を取り戻す計画です。
つまり、アヘンは麻薬ですので吸うと中毒になります。
中毒になるともっとアヘンが欲しくなり、中毒者が増えれば増えるだけアヘンが売れます。
そしてアヘンの代金を銀で支払ってもらうという訳です。
この悪巧みにより、イギリスはこれまで支払った銀を取り戻す事に成功します。
しかし、アヘン中毒者の蔓延が国家存亡の危機と考えた清国は、林則徐(りん そくじょ)大臣にアヘン密輸禁止を命じ、大量のアヘンを廃棄させました。
ところがそれを知ったイギリスが激怒し、戦争となったのです。
その結果、当時世界最強と言われたイギリス軍は大艦隊で大都市を次々に占領し、アヘン戦争はイギリスの圧勝に終わりました。
そして南京講和条約により、清国の香港がイギリスの植民地になってしまい、その後、他の列強にも侵略され、清国は次々に植民地化していきました。
その様子を現地でじっくり見ていた日本人が居ました。
高杉晋作たちでした。
高杉晋作
上海に行った高杉は
「まるで清国人はほとんどが召し使いのようだ。 英仏人が歩けば道を譲り、上海は清国とは名ばかりで植民地化している。」
と書き残しています。
かつて随(ずい)、唐(とう)と呼ばれていた頃から日本は文明の師匠として中国を見てきました。
皮肉にもその中国が清国時代には身をもって欧米列強のアジア侵略の脅威を教えてくれたのです。
その後日本国内にも重大事件が勃発します。
江戸時代の日本は身分により貧富の差はありましたが、とても平和な時代で日本人は皆平穏な日々を過ごしていました。
ところが1853年、アメリカのペリー提督率いる黒船(軍艦)が突如浦賀沖(現神奈川県横須賀)にやって来たのです。
ペリー
その時来た黒船は、帆船二隻、蒸気船二隻の計四隻でした。
日本人は、モクモクと煙を出している初めて見る蒸気船に度肝を抜かれ、腰を抜かす程驚きました。
しかもどの船も見た事がない程の大きな大砲がたくさんついています。
さて、ペリーは一体何故わざわざ遠い日本にやって来たのでしょうか。
実はアメリカ政府はペリー提督に
「いいか。 軍艦に乗って日本へ行き、鎖国している日本に外国と貿易(開国)するように言ってこい。」
と命令したのです。
それも
「もし日本が嫌だと言うなら軍艦で攻撃するぞと脅せばよい。 戦争すればアメリカが勝つのはわかっている。 あの軍艦を見れば武力を持たない日本は抵抗しないだろう。」
というような事を言っていたのです。
事実ペリーのアメリカ艦隊は即座に砲撃出来る様にしてから日本との交渉に挑みました。
ペリーは
「鎖国をするのは天の道理に背き、重罪である。 もし開国を認めなければ我々は武力によりその罪を糺す(ただす)。」
と切り出してきました。
要するに脅迫です。
実はこの時、幕府は朝廷(天皇)にこの事態をどうすればよいかを相談しています。
この事は当時非常に危険で、幕府の崩壊の始まりと言える事でした。
つまり、それまでの幕府は自分達の意見や考えを一方的に法律として命令する立場であったのに、今回は相談(朝廷側の意見も取り入れる)したのです。
これにより徐々に幕府と朝廷が対等な立場になっていく事になり、その十数年後に起きる幕府より朝廷のほうが力を持つ時代のきっかけになりました。
武力を持たない日本は結局、貿易に対する税金(関税)の額や割合を独自に決める事も出来ず、日本国内での外国人犯罪者を日本が裁く事も出来ない不平等条約を欧米各国と結ばされました。
現在では考えられない事ですが、当時の国際社会ではこのように武力により強い国が弱い国を脅して外交する事や、白人が武力により有色人種の物を支配する事(植民地政策)は普通だったのです。
日本の誇り高き武士達のペリーの武力により屈服させられた事実は、屈辱以外の何物でもなかったはずです。
しかし武士達をはじめ日本人達は、じっと堪えてそれを黙って受け入れました。
そして日本は「安政五ヵ国条約」により開国し、貿易港を横浜、長崎、函館の三ヶ所としました。
余談ではありますが、黒船を見た日本人は驚きましたが、すぐに独自で蒸気船を作り上げてしまいました。
薩摩藩主の島津斉彬(しまづなり あきら)は江戸薩摩藩邸内で蒸気機関を作らせ船に据え付け、1855年品川で試運転に成功しています。
島津斉彬
実は薩摩藩はペリー来航より二年前には蒸気船建造に着手していました。
実物を見た事が無いのに、オランダの蒸気船の絵や図面だけで本当に作り上げてしまったのです。
しかし、これはかなり小さく軍艦には適していませんでした。
他に佐賀藩の鍋島閑叟(なべしま かんそう)もだいたい同じ時期に完成させています。
1865年に完成した佐賀藩の蒸気船(凌風丸)は軍艦としては充分な物でした。
佐賀藩の蒸気船「凌風丸」
実は、その船を作り上げたのは技術者や職人ではなく、殿様や武士達でした。
これを知った世界は、日本の技術力に圧倒されました。
この技術力の高さ、勤勉さは日本人ならではのもので、その技術力は現在まで受け継がれています。
1861年2月3日、九州対馬に一隻の外国船が入港しました。
この船はロシア海軍の軍艦「ポサシニカ」で、艦長はビレリフといいます。
ビレリフは対馬藩に、函館からの航海中に船が故障したので修理したいと申し出ました。
開国当時対馬は貿易港ではないため、外国船入港は認められていませんでしたが、修理は例外でした。
対馬藩は長崎まで行ける程度の修理を認め、資材、食料等を提供、修理するための職人達まで提供しました。
ところがロシア兵達は船を修理せず不法に上陸して、勝手に小屋を建て、ロシア国旗を掲げてその周辺を占拠しました。
そのうえ、島を徘徊し測量を始める始末です。
対馬藩警備隊がそれを阻止しようとした時、ロシア兵が発砲。
警備隊員一人が死亡、三人を拉致しました。
そしてビレリフは対馬藩に
「近々イギリス・フランス両国が対馬を占領しようとしているので、ここに基地を建設し対馬を防衛したい。 したがってこの辺りを貸して欲しい。 今、江戸でロシア公使と提督が江戸幕府と交渉中である。」
と述べました。
実はロシアは1853年にイギリス・フランス・トルコを相手にクリミア戦争をし、イギリスとフランスはカムチャッカ半島を基地とするロシア太平洋艦隊を撃滅するため、ロシア艦隊が日本の港を使用しないように幕府に要求していたのです。
つまり、クリミア戦争に敗北したロシアはインド洋への出口を塞がれたので、今度はウラジオストクから太平洋への出口を求めていたのです。
イギリスとロシアにとって日本海は最重要海域であり、対馬は軍事的重要拠点とされていました。
ロシア兵の暴挙に怒った幕府と対馬藩でしたが、ロシア相手に戦う軍事力はありません。
そこでアメリカとイギリスに抗議を依頼し、イギリスに至っては相手が仮想敵国だけに軍艦までも派遣して抗議しました。
そして、7月25日にようやくロシア軍艦を追い払う事に成功しました。
この事件は後に日露戦争の一つのきっかけになります。
日本は開国し、街には外国人が目立つようになってきました。
そんな頃、日本人と外国人との間にある事件が起きます。
1862年、薩摩藩・島津久光(しまづ ひさみつ)の大名行列は横浜近くの生麦村を進んでいました。
その時前方より四人のイギリス人が馬でやってきました。
大名行列に対する礼儀を知らないイギリス人達は、馬に乗ったまま行列に入って来てしまいました。
大名行列の武士は激怒しイギリス人に日本刀で斬り掛かり、イギリス人一人が死亡、二人が重傷となりました。
これを生麦事件といいます。
イギリス人を斬りつける武士(生麦事件)
後にイギリス政府は幕府・薩摩藩に対し実行犯の処刑と賠償金支払いを要求してきました。
幕府は素直に賠償金を支払いましたが、薩摩藩は
「大名行列を乱す無礼者は斬る。 他国へ来たらその国の礼儀と法律を守るのが筋であり、イギリス人に責任がある。 自分達は武士の本懐として義務を果たしたまで。」
と言い、イギリスの要求を無視しました。
翌1863年8月、イギリスは軍艦で鹿児島へ来てペリーと同じく大砲で脅し交渉してきました。
しかし薩摩藩は幕府とは違い脅しに屈せず日本人武士としての主張を貫き通し遂には戦争になりました。
薩英戦争です。
薩英戦争
世界最強のイギリス海軍でしたが、たまたま薩摩藩の砲弾で旗艦の艦長が倒れたため、イギリス艦隊は退却しました。
しかし鹿児島の各村も大打撃を受けていました。
その時、戦力の違いをまざまざと見せ付けられた薩摩藩が一歩も引かずに戦ったのは、武士としての誇りと脅しに屈した幕府への意地と批判からでした。
その後薩摩藩はイギリスと講和条約を結びましたが、その時も武士として堂々と臨みイギリス人の信頼を得ます。
こうして薩英戦争は終わりましたが、これら一連の外国人絡みの事件により「日本から外国人を追い出そう」とする動きが強くなりました。
外国人を追い出す考えを持つ人々を攘夷派といいます。
薩英戦争と同じ時期にもう一つ事件がありました。
1863年5月10日、幕府は開国したにも関わらず、当時の天皇(孝明天皇)に攘夷に対する圧力をかけられ、苦し紛れに各藩に「開国の条約破棄、外国が攻めて来るなら討ち払え」と命令しました。
孝明天皇
しかしこの幕府の命令を守ったのは、長州藩だけでした。
同じ日の夕方、関門海峡(山口県下関)で長州藩の見張りは一隻の外国船を発見、深夜には攻撃していました。
船はアメリカ商船「ベンブローク」で、九州の港に停泊中に長州藩軍艦の砲撃に遇いました。
その後、長州藩は次々に関門海峡を通過中のフランス軍艦、オランダ軍艦などに先制攻撃し撃沈。
しかし6月1日にはアメリカ軍艦が長州に報復しにきました。
アメリカに攻撃されて長州藩は軍艦全てを失いました。
6月5日にはフランス軍が上陸攻撃。
これにより長州藩は大打撃を受けましたが、まだまだ諦めませんでした。
しかし1864年8月、フランス・オランダ・アメリカの軍艦にイギリス軍も加わり、軍艦十七隻で下関に攻めこまれ長州藩は惨敗、降伏し戦争は終わりました。
実はこれらの出来事より以前に長州藩の吉田松蔭(よしだ しょういん)らは、いち早く 「日本国内には封建体制を打ち砕き、身分の差を無くし全国民が結束し、他国と対等に渡りあえる国づくりが必要である」 と主張していました。
吉田松陰
実際に様々な事件を経験した日本人達の中には松蔭の主張に賛同し、また同時に他国と互角に戦える武力が早急に必要であり、日本も列強(先進国)とならなくてはいけないと考える動きが各地で活発化していきます。
つまり、これまでの日本は各藩同士で争いをするようなバラバラの国でしたが、これからは皆が一丸となり日本全体を一つの国家として動かし、外国と同じ武力を持ち対等に対話出来るようにしなければならない、と考えた訳です。
また、そうしなければ次に同じような事が起きれば、今度こそ外国に占領され大和民族(日本民族)そのものの存亡が危ぶまれるという危機感があったためです。
特にアヘン戦争とペリー来航は、列強の脅威を感じるには充分過ぎる出来事でした。
それにはまず、一君万民の国家建設、つまり徳川将軍が治める幕府を解体し藩を廃止して、日本を一つにまとめる必要がありました。
それには、将軍に代わり日本全体のトップとして政治を握る絶対的権力を有する人物が必要です。
幸いにも日本には古くから天皇がおられますので、 「天皇に政治的絶対権力を握って頂き、日本のトップを徳川将軍から交代して頂きましょう」 と考え、そして実際に行動したのが吉田松蔭の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下生達や、坂本龍馬(さかもと りょうま)率いる海援隊(元々は貿易する為の目的で創設された組織)、薩英戦争で自ら列強と戦った薩摩藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)ら他の尊皇派と呼ばれる人々です。
坂本龍馬
西郷隆盛
ちなみに尊皇派の中で外国人を日本から追い出そうとする人々を尊皇攘夷派といいます。
しかし、その動きは徳川幕府が治める当時の日本では反逆にあたる行為ですから、当然ながら1858年の安政の大獄以来「将軍に逆らう逆賊は許さない」と言う幕府側の反発を買います。
その幕府側の軍隊が、これもみなさんがよく知る近藤勇(こんどう いさみ)、勝海舟(かつ かいしゅう)らの新撰組や会津藩の白虎隊などです。
それらは後に尊皇派・尊皇攘夷派と武力対決をするまでになります。
1867年10月、遂に最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還し、264年続いた江戸幕府は終わりを遂げました。
徳川慶喜
つまり、幕府を解散して天皇に政権を返したのです。
その後薩摩藩、長州藩が中心となる明治新政府が誕生しますが、政権を握るはずであった孝明天皇が急死してしまいます。
もともと孝明天皇は佐幕派と言って、天皇でありながら幕府をとても頼っていました。
倒幕後これからというときに天皇が幕府びいきでは困ります。
ですのではっきりとは解ってはいませんが、薩摩藩と長州藩が手を組み、孝明天皇を暗殺したのではないかと言われています。
その後も徳川を中心とする旧幕府勢力は、またもや政治を握ろうとする気配がありました。
そして遂に両軍がまたもや衝突します。
鳥羽伏見の乱です。
その時慶喜は江戸城から離れており、京都や江戸の寺などに隠れていました。
幕府がなくなり新政府になった今、慶喜の立場は将軍から逆賊(反逆者)になってしまっていました。
その頃江戸城では、凄い事が起きていました。
なんと、新政府軍の攻撃を恐れた旧幕府軍は、勝海舟と西郷隆盛の話し合いにより血を流さずにすんなり城を明け渡してしまったのです。
そして新政府軍と会津白虎隊の戦い、土方歳三(ひじかた としぞう)らの蝦夷(えぞ)函館の五稜郭陥落により新政府軍が勝利します。
鳥羽伏見の乱から1868年の五稜郭陥落までを、その年の干支から取り戊辰戦争といいます。
この戊辰戦争を最後に旧幕府勢力は消滅し、1868年を明治元年と改め、薩長両藩が中心となる新明治政府が誕生しました。
その後明治政府は様々な改革を進め、急激な進歩を遂げます。
これまで紹介してきた一連の出来事を総称して明治維新と呼んでいます。
これまで経験した外国絡みの様々な事件は、日本民族にとっては生きるか死ぬかの死活問題であり、諸外国と対抗する軍事力が無ければ、清国のようにいずれ日本も欧米列強の植民地となる危機感がありました。
幕末の人々は、そのためには西洋の技術をいち早く取り入れ、経済的にも軍事的にも発展していく必要がある、と考えたのです。