1928年(昭和3年)、中国山東省済南で滅多切りにされた9人の日本人虐殺遺体が発見されました。
発見したのは駐留していた日本軍です。
この事件を済南事件といいます。
中国人に惨殺された日本人男性
中国人に惨殺された日本人女性
当時中国には蒋介石(しょう かいせき)の南京政府と、張作霖(ちょう さくりん)の北京政府が存在していました。
蒋介石は孫文の弟子でその意志を受け継ぎ、中国統一を目指していました。
蒋介石
張作霖
そのために北京政府を倒す為、軍隊を引き連れ北上しました。
これが二度行われる北伐です。
日本で言うところの戦国時代の国盗り合戦のようなものでしょうか。
日本政府は、北伐は中国内の問題であり、時の首相・田中義一(たなか ぎいち)は北伐不干渉を決めていました。
済南は北京政府管理下に置かれ、南から蒋介石軍の進撃路にあたっていました。
そこには商業等で生活している日本人約2000人程が住み、山東省全域では約20000人の日本人がいました。
日本政府はこれらの日本人を保護するために陸軍を派遣しました。
蒋介石軍は3月に広東を出発し、4月末には済南に約10万の兵が集まりました。
同じ時期、日本軍も新たに約6000の陸軍兵士が到着し、日本人居留民の保護にあたりました。
蒋介石軍の中にはコミンテルン(ソ連共産党の後押しでできた国際共産党で、世界共産革命を目指す組織)系の共産系兵士が多数参加しており、反日排日を掲げ民間日本人を襲撃し略奪をはじめました。
日本軍はそれを阻止するために蒋介石軍と交戦します。
そして蒋介石軍を済南から追い出し、それ以上の日本人被害は無くなりました。
その後日本軍は北伐不干渉の立場を守り、済南居留民警備のみの任務に付きます。
当時は外国に住む居留民を守る為の派兵は、国際的に認められていました。
したがってこの日本軍の戦いは正当なものでしたが、この時蒋介石は 「日本軍は北伐の妨害をした」 と受け取り逆恨みをし、後々の日本との衝突を決めたと言われています。