【2】「西洋文明の崩落と“救い”としての日本文明?!」
泉三郎(元「米欧亜廻覧の会」会長 一橋大学昭和 34 卆)
私はこのところ「ユーチューブという“万国博覧会”」に迷い込んだような気分です。
そこには多様な見世物が次々に現われ、それに気をとられ惹き寄せられ、その圧倒的な情報量に溺れそうになるのです。
いまはもっぱら「外国の対応」館に絞って観覧していますが、そこにはまた魅力的なチャネルがいくつもあって目がまわるようです。
前回は、主に日本の文化に関する「外国の対応」を紹介しましたが、そのキーワードを列挙すれば次のようになりましょう。
清潔、静かさ、親切、整然、規律、秩序、礼儀正しさなど、つまりはソフト面への賞賛でありました。
そこで今回はよりハードな面、つまり、技術力、経済力(資産力)、軍事力(防衛力)について。いずれもユーチューブの動画から拾い上げて紹介したいと思います。
チャンネル名でいえば、「日本のミリョク」、「日本のキセキ」、「日本のチカラ」などからの引用です。
1. 日本の技術が世界を救ってきた?!
以下は、米国の技術史で著名なロバート・ハリソン教授が行った特別講義からの引用です。AI も取り込んでの最新の講義だというので500人収容の教室が学生でいっぱいになり、立ち見もでる人気でした。
ただ、多くの学生にとっての日本のイメージは、ホンダ、トヨタ、アニメ、マンガ、そしてゲームくらいの表面的なものであり、日本の技術力について深い理解はなかったようです。 ハリソン教授の講義は、こんな問いかけから始まりました。「スマートフォンを持っていない人はいますか?」 誰も答えません、そんな学生は一人もいないからです。「そのスマホに日本の技術がいくつくらい使われているか知っていますか?」
手をあげた学生は「一個ぐらいですか?」と自信なげにいいました。
「いえ、15個以上も入っています。それも重要な部分を占めています・・・」
「じゃあ、中身はほとんどメイドイン JAPAN ということか?」との“つぶやき”がもれました。教授は「スマートフォン以外にどんなものがあるか、一覧表をみてごらんなさいとスクリーンに映しだしてくれました。
学生たちはそんなものも日本製だったのかとびっくりした様子でした。教授は「これらの技術は日本発なのに余り知られていませんね。 でも、みなさんは日常の生活でこれらの恩恵をたっぷり享けており、その背景には日本の研究者たちの隠れた必死の努力があったことを知るべきです。
なかでも革命的といっていいほどの大きな影響を与えたものは小さなリチウムイオン(二次)電池です。スクリーンに、笑顔をうかべた白髪の紳士の写真が写し出されました。吉野彰博士です、2019年にノーベル化学賞を受賞しています。それまでは大きくて重くて充電にも時間がかかる電池でしたが、それが驚くほど小型に、軽量に、蓄電量も大きく、安価なものが出来ました。スマートフォンのような素晴らしい機器が出来た背景には、このような画期的な発明がいくつもあったのです。
この電池は実にいろいろの機器に広く使われました。時計にも計算機にも医療機器にも自動車や航空機にも各種の計器やセンサーにも数えきれないほど多方面に活用されました。学生たちは一様に感動して「知らなかった」「気づかなかった」といい、「恥ずかしい!」という声も聞こえました。
次いで教授は「青色 LED」について語りました。美しい青い光を放つ LED の画像が映し出されました。
この発明は発光ダイオードともいい、小型で堅牢,低電圧、低電流で駆動でき、実に多彩な表現ができることと、そしてなによりも電気使用量を従来の 10 分の 1 にする画期的発明でありました。「ええ、10分の1?
凄い発明!」と学生たちは感にたえない表情を浮かべました。そして発明者の中村修二博士の写真と小さな質素な研究室が写しだされました。
地方の中小企業の無名の研究者として、失敗や挫折を繰り返しながら長年の懸命の努力の末に実現できた発明でした。それは電灯にはじまり多種多様の照明はむろん、スクリーンやセンサーなど実に多くの分野で使われ電気の使用量の節約にも多大の貢献をしたのです。
それから身近なものでいえば、カラオケもそうですね。井上大佑氏や根岸重一氏の発明です。その開発者たちは当時「カラオケベンチャー」といわれ、多くの人のアイデイアや技術でカイゼンが重ねられました。そのお陰で誰でもみんな伴奏付で歌えるようになりました。世界中の人々がいろいろの形でこれを活用し歌唱を楽しんでいます。
異色ですがカップラーメンもそうです。戦後の食糧不足の時にお湯を注ぐだけで手軽にできるチキンラーメンを創ったのが安藤百福さんでした。台湾出身ですが日本に帰化し日清食品を創業した人物で「家族が生んだ魔法のラーメン」として有名になり、いまでは世界的な食品となりました。
それからみなさんお馴染みの QR コードがあります。この不思議なデザインの発明者は原昌宏 さんですがこの技術をなんと無償で公開したのです。学生らは驚愕し「なぜですか?」「特許料をとらないのですか!?」と質問しました。教授はスクリーンに原昌宏 氏の写真とその言葉を映し出しました。「この技術は社会全体の役に立つべきで、特定の企業が独占するものではない」と。
他にも特許無償としたものに「TRON」があります。これは板村健博士が「TRON」プロジェクトとして提唱開発したもので、あらゆる機器にコンピュータを内蔵させて相互通信により連携する社会を目指そうとしました。板村博士の「技術は人類の共有財産」という考え方からです。
学生たちは静かに感動し、「私たちはこれまで技術は利益や競争に勝つためのもの」と思っていました。が、本来はそうではない、「技術は人間の幸せのためにある」と理解しました。
そして、日本人の技術の発想の根本には「人の幸せ」があり、「無償の愛」があることを感得しました。
教授は、我が意を得たりという表情で、「日本人は効率・金銭一点張りの世界から、我々を救ってくれているかも知れない」と結ばれました。
・リチウムイオン電池 1985・吉野彰博士
・青色 LED 1993年・中村修二博士
・QR コード 1994年・原昌宏原正?氏
・ハイブリッド車 1994年・トヨタ自動車
他にも、カラオケ、TRON 等
2. アメリカ経済は、日本なしには成立しません?!
米国のシリコンバレーにある国際経済人工知能研究所で、過去50年にわたる経済に関する膨大なデータを入力し、AI による経済分析が行われました。その結果、「アメリカは日本の経済力に依存している」との裁断が下り、逆に日本の依存を思っていた多くの参集者を驚愕させました。以下はその報告の要約です。
アメリカは経済危機に陥るたびに、日本は静かにしかし確実に、アメリカ経済を支えてきた。その事実が判明されのです。当時、日本の保有する米国国債は1兆 3000 億ドル(日本円で 195 兆円)、その推移をみると、アメリカ経済が困難に直面した時期と日本の国債購入額の増加期が一致しているのです。たとえば 1987 年の
ブラックマンデー時、他の国は国債を売りにかかったが、日本だけが買いに入った。1990 年の湾岸戦争の時も、2001 年の同時多発テロの時も、2008 年のリーマンショックの時も、2020年の新型コロナの大流行の時も日本は大量の国債を購入した。それは単なる投資ではなく戦略的意図をもった行動であったと診断された。
AI はこの行動パターンが 30 年以上にわたって繰り返されてきたとし、日本はそれを広言せず、黙々と静かに国債を買い続けたことを明らかにしたのです。何故か。その背景には戦後の日本経済の歴史があります。
1945 年、焼土と化した日本は、海外から 620 万人もの軍人や軍属、民間人が引揚げるなか、食料も住まいもない危機にありましたが、そのとき米国は大量の食糧を援助し住まいや工場の復興資金も融通してくれたのです。1950 年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍主体の国連軍は日本に巨額の軍需品の生産を委託しました。そ
のために日本経済は急速に回復しその後の高度成長に繋げた。米国はその過程で技術力や商品力を伝授し、輸出市場も提供。日本人は懸命に学び、モーレツに働き、そして堅実に着々と蓄えました。その間、米国は圧倒的な経済力で世界経済の成長をリードし、共産主義帝国ソ連との冷戦期には世界の警察官として莫大な軍事費を負担し、パックスアメリカーナの平和を維持したのです。
しかし、1960 年代あたりから、さすがの米国も衰えをみせはじめ、大盤振る舞いの付け巨額の債務を積み上げ危機を迎えるのです。
その大転換期が 1985 年に到来し米国はニューヨークでのプラザ合意を結びます。この劇的なドル切り下げは、日本円の急激な切り上げを意味し、日本はパニック状態になりました。しかし、この機を境に米国は借り手へ、日本は貸し手に転じたのでした。
日米の役割はすっかり逆転しました。この時点で日本は対外資産が世界一になっており以後 31 年間その地位を維持するのです。
その後は上記のように米国経済が困難時、日本は支え続けました。その典型的な例が 2008 年のリーマンショックの時でした。各国は一斉に資金の引き揚げにかかり、ヨーロッパも主要銀行が次々と米国債を売りに走り、中国もそうだった。日本だけは異なる動きをした。日銀は3兆円を用意して米国債を購入した。当時その渦中にあった米国財務省の高官、後に述べて曰く「あの時、我々は絶望的な状況にあった。そんな中、日本が継続的に国債の購入を続けてくれた。
それはまさに天の助けだった。その時日本は何の条件も、見返りも要求せず、市場を支え続けてくれた。こんな無私無欲な支援を受けたことは私の長い役人生活で初めてのことだった」と。
その背景には、戦後40年にわたった米国の寛大な処遇への深い感謝の念があり恩返しの思いがありました。サムライ的義侠心があったのだと思います。2021 年3月、ワシントンで開催された国際金融フォーラムでは、オバマ政権とトランプ政権で財務長官を歴任したステイーブン・ムニューチン氏がこう述べています。
「率直に申し上げると、現在のアメリカ経済システムは日本なしには成立しません。私が在任中に経験た数々の経済危機において、日本は常に最初に手を差し延べてくれた唯一の国でした。
こちらから要請したことはありません。常に向こうから申し出てくれるのです」と。欧州でも同じようなことが起きていた。ヨーロッパ中央銀行の総裁クリステイーヌ・ラガルド氏はフランクフルトでの記者会見の席でこう述べています。
「ヨーロッパの債務危機の際、最も頼りになったのは実は日本でした。アメリアでも中国でもなく、日本だったのです」と。2011年から12年にかけて、ギリシャ、スペイン、イタリアの国債が暴落したとき、日本の金融機関は黙々と国債の買ってくれたのです。彼らがいなければユーロ圏は確実に崩壊していました。
もう一つの大国中国はどうでしょうか。中国人民銀行の前総裁であった周小川氏は北京で開催されたシンポジウムでこう発言しています。「2000年代から2010年代にかけて、日本は中国経済の安定化に重要な役割を果たしてくれました。2015 年の中国株式市場の大暴落の際、最初に支援の手を差し伸べてくれたのは日本でした。彼らはなんの条件も付けず、中国の金融安定のために資金の提供を申し出てくれました。日本は真の意味での大国です。その行動哲学において他国とは一線を画しています。」
こうして、AI が膨大なデータから日本の経済力を評価し、米国、欧州連合、中国という三大国の権威ある人物からも、感動的な賛辞を贈られたのです。我々日本人はフロウを示す GNP の推移だけをみて「失われた30年」などと自ら屈辱的になっている傾向がありますが、ストックである内外の資産力もしっかり評価すべきだと思います。それにしても AI 大先生の診断は明快で鋭く「意外なところに知己あり」の思いを深くしませんか?
3.驚嘆すべき新鋭戦闘機と超絶技術「核兵器無力化」の秘密基地?!
日本の軍事力について、これまでの私はまことに疎く恥じ入るばかりです。が、このユーチューブのお陰で大事なことをいろいろ学びました。そして日本人はここまで凄い研究をすすめ尽力してくださっていたのかと真に驚嘆しました。
ただ、これらの軍事情報はすでにご承知の方も少なくないと思います。それを承知であえて稚拙な抄録を紹介させていただきますのでご了解ください。
1)空中司令塔というべき驚異の新世代戦闘機
2024年の7月、英国で世界一の航空ショウが開催され、日本・英国・イタリア共同開発の新世代戦闘機がはじめて披露されました。それは世界をあっと言わせる新世代を思わせる AI も内蔵した超高性能の戦闘機でした。まさに技術大国日本の力を世界に示した快挙であり,関係者のご尽力に深く感謝の意を表したいと思います。その特性を簡単に紹介すると・・・
1 ステルス性能がさらに高度化されたこと
最近はいかに敵に発見されにくくするか、が喫緊の課題だそうですが、形状、素材ほか最新技術を駆使して、忍者もびっくりという透明的機能が備わったこと。
2 超高出力レザー砲の装備により、従来の鉄砲・機関銃時代にはサヨナラをして、火薬や弾丸を要しない速く的中率のよいレザー砲になったこと。
3 AI 搭載によりパイロットは超有能な参謀役を同席させたも同然で、これまではとても無理とされたことが出来るようになった。作戦も実況に応じて柔軟に変化させ、自由自在に対応でき、ドローンなどの複数の無人機を従えての編隊作戦も可能となり、空の司令塔的存在になった。
顧みれば、日本は日米安保条約のもと、これまで戦闘機の製造はとても無理でした。が、やっとそれが可能になり日本独自の設計思想や技術を生かす機会を得たことになります。ただ、製造費も巨額になるので共同開発とし、日本40%、英国40%、イタリア20%を分担することに・・・そして技術的にも現実体験が少ない弱点を英国から豊富な制作体験による智恵を学び、イタリアからは複雑な通信技術を導入することで、総合的力を発揮できる体勢ができた。
なお、日本側では三菱重工を主に川崎重工と IHI が参加することになりました。さてここからは私見ですが、この戦闘機を写真で見て直観したことを少し記します。
第一印象は実に威風堂々としていることで横綱の風格がある。受けて立つ、戦わずに勝つ、立ち合いでにらめっこしている間に相手が恐れをなして気力負けするような威厳を感じます。
第二には、戦闘機というより、数々の兵隊機を従えての大将的存在、空中戦の司令塔的母機という感じです。
第三には、設計理念のどこかに日本的、防衛的な感触があることです。攻めるのではなく、ひたすら守る。そのような日本独自の空軍が出来ることを熱望します。そしてこの珠玉の日本列島をしっかり守り抜いていただきたいと熱望します。
4. 核兵器が発射できない! 原因は日本海溝の謎の秘密基地?!
以下はチャンネル「日本のキセキ」記載の“奇跡のような物語”からの紹介です。
2024 年春、米国ペンダゴンの海軍最新鋭の監視システムが、太平洋北部の海洋で奇妙な電波を捉えた。微弱なもので直ぐ消えた。ベテラン分析官のカーター少佐は、その特別な波形から人工的なものと直感した。
注意深く観察していると、それはいくども現われては消え不気味だった。なんらかの妨害電波かもしれないと調べていくと、世界各地で発射される核搭載可能級のミサイル発射の時機と符合していることが分かった。
そしてカーター少佐はついにその発信源が日本海溝にあることをつきとめた。
当然日本の仕業と思われた。が、ひょっとするとあの中国がこのあたりに秘密の施設をつくったかも知れないと気付いた。しかし、この高感度の微妙な信号から推測して、電子技術、精密機械、人工知能、海洋開発などに精通している国でなくては出来ないと推察した。そこで日本の防衛庁に確かめてみたが一切関知無しという。
しかし、日本では民間の大学や企業の研究機関が非常に高度な技術を持っているケースが多く、それが内緒で提携して共同研究をしていることもありうる。その場合は国家の監視下にないことになる。特に日本は地震国であり津波の被害も多く、海洋研究所の類は散在する。
そして.静岡県にある東海大学の海洋研究所が深く関係していることを察知した。
一方ジュネーヴでは関係諸国による緊急会議が開かれた。各国のミサイルの発射時のトラブルや失敗率が報告された。ロシア、中国、英国、フランス、インドなどの関係者が集まった。
ここ数年のミサイル発射時の失敗率は平均80%にも上っていることが明らかになった。各国は必死に原因を追及したが、謎は解けなかった、日本海溝付近の海底から当該国のミサイル発射基地までの距離は 3000 キロを超え、そこまで信号を送ることは至難の業だった。電磁パルスやサイバー攻撃ではとても無理であり、まったく別次元の技術が使われていると推定された。
米国はついに調査官を派遣し日本側のしかるべき人物と逢った。もう隠し切れないと悟った日本側の当事者も真実を打ち明けた。
それはたちまち日米双方の関係者の知るところとなり、各国の首脳の耳にも入った。それは人類を核の恐怖から解放してくれる世紀の大発明だ、大いに歓迎され賞賛された。
しかし、強力に反対する勢力もいた。現に核兵器を持っている国は、それが大きな力であり政治的パワーの源泉でもあったから、それが無力化されてはたまらない。当然のように猛反対する。人類の理想からいえば反対する理由はない。だが、現実の政治からみれば言語道断だ、いろいろの邪魔が入りそうだ,事は急ぐ必要がある。
2024 年 3 月 15 日、午後3時30分。その時が来た。相模湾沖 200 キロ,水深 4000m、地震・津波予測システム「DONET-X」の制御センターは緊張が漲っていた。太平洋の深海に沈む日本の秘密施設では、人類史上最も重要な実験の一つが完全な秘密の下に実行されようとしていた。
「田中所長、全システムの準備が完了しました」チームを組む専門家は 10 名、担当の一人が告げた。田中氏は表向き「海洋研究開発機構の代表」である。が、実は日本政府の極秘プロジェクトの総責任者だった。
プロジェクトの存在を知っているのは政府内の極く限られた人だけだった。秒読みが始まり、5,4,3,2,1ときた時、歴史的なボタンが押された。ロシアのミサイル基地の映像に「エラー」の表示が出た。システム、、、、が作動せずミサイルは発射できなかった。本格的実験は見事に成功したのだった。狂気のような歓声が上がった。抱き合い、涙し、歓喜の声が室内を満たした。問題は次の段階に進んだ。誰がそれを管理するのかだ。
日本に獲得されてはたまらないとの強硬意見が出た。日本側ではもとより独占する考えはなく当初から公正な国際組織に委ねることが構想されていた。国連総会の直属機関として「国際平和技術機構」的な機関を創ることだった。
この重要案件は秘密裏に内閣の合同会議で討議された。それはたちまち各国主脳や国連のグテーレス総長の耳にもはいり、それぞれの場で検討が開始された。国連憲章を改正して特別な管理組織をつくるべきだとの主張もなされた。
「日本のキセキ」記載の物語はこの先も臨場感をもって続く。が、それはすでに推測の域に入っている。書き手はある時点から自らの構想に酔い勢い余って夢幻の世界に飛翔したのかもしれない。
しかし、ここまでくると、どこまでが事実かどこからがフィクションかなどと問うのは野暮だ。この夢のような素晴らしい物語を一途に信用しようではないか。純朴な少年少女のように...。
事実、日本人はすでに月までいって石を持ち帰るまでの超遠隔操作の技術をもっている。
ミサイル基地は遠くても 3500 キロの範囲内、たかだか地球上のことだ。このプロジェクトは人類を絶滅させるほどの悪魔的技術を「0.5秒」でボケにする神業的超絶技術だ。是非とも日本人の手でこの壮大な快挙を実現してほしい。そして世界平和を地球上に招来し、美しい日本列島もしっかりと守っていただきたい。
付言;そして少なくとも私は、この作者に深甚の敬意と謝意を表したい。壮大な夢を抱き、そのイメージをここまでまとめ上げた想像力と尽力に、紅白のバラの花束を添えて一献の美酒を捧げたい。
【3】世界のモデルになれるか? 褒められる日本文化!
泉三郎(米欧亜廻覧の会元会長 一橋大学昭和 34年卒)
1. ユーチューブに見る米欧人の自信喪失
一世代若い仲間に「今、ユーチューブに嵌っている・・・」とつぶやいたら、「それは遅きに失しましたね!」と一蹴された。「でも、遅すぎるということはありません。そのお歳でユーチューブに夢中とは・・・
お若い証拠!アタマがやわらかで好奇心が旺盛でいらっしゃる」と励まされた。が、「ユーチューブは 8 割がウソ・フェイクという説もありますからご注意を!」といい、「で、どんなジャンルに興味があるのですか」と聞かれた。少し考えてみて次の 3 つを思いついた。
一は、ウクライナ戦争と小柄な快男児『英雄ゼレンスキー』、二は、放胆でハチャメチャな怪傑トランプ大統領。三は、『西洋文明の崩落と日本文明への高い評価』かな、と。でも、一番興味があるのは第三のジャンルである。チャンネルでいえば「海外の対応」、そこには「真の JAPAN」とか「感動大国」、とか「輝くJAPAN」とか「JAPAN の美」とか、さまざまな魅力的な題がついた多様多彩な動画がみられる。
そこでびっくりしたことは、外国人の日本評価が非常に高いことである。このところ、GDP はドイツにも抜かれて四位になり、個人所得番付は下がる一方、この30年間は明るいニュースはないといっていいくらいだから、日本人自身が自信を失っている。しかも外国人もそう思うらしく、「日本はもう終わった、関心はない」などと極論を吐く連中もいるくらいだ。そんな情勢の中だけに、「日本は素晴らしい,ニッポン大好き」などといわれるとおのずから嬉しくなってしまうのである。
しかし、何をそんなに褒めてくれるのかという疑問が生まれる。それには大きな要因がある。欧米人そのもののお国事情がおかしくなっていることが一つ、さらにいえば自らの欧米文明そのものに危機感を抱き始めたことがあると思う。それにもかかわらず、日本だけが例外のように見える。ざっと世界を見渡してみても、先進国のなかで日本だけが、戦争や暴動もなく文明の恩恵も十分に享受しながら平和に楽しげに暮らしている。何故だとの思いが彷彿と湧いてきても不思議ではない。
それは西洋文明の属性である、個人主義、自由主義、効率主義、物質主義、金融資本主義への懐疑であり、それへの反省であるようにみえる。それは人類の究極課題、「幸福」や「生きがい」に関わっており、西洋文明下では「人間らしい暮らし」が出来なくなってきたとの思いが強くなっているのではないか。これまで一途に追いかけてきた自由と欲望至上主義が、間違いではなかったかという疑問である。
つまり、日本という非西洋文明の国が、別の価値観、別の美意識の世界が現実にあることを知り、人間として「我に返る」ということではないのか、それが「欧米文明の崩落」という言葉に表現されてきたと思われるのである。
2. 欧米人の日本礼賛さまざま
さて、ユーチューブをみていると、その日本礼賛の動画がさまざまの形でアップされていることを発見する。日本への旅行者が最近とみに増えているのは周知の通りだが、そのことを知る人はどのくらいいるのだろうか。ここでは数ある動画の中から、大人気の一例を紹介したい。これはあるスイス人女性の観察記で、とても観察力が鋭敏で表現力もあるため650万回も視聴されたという作品である。
山と湖の美しい風光明媚な土地で、裕福らしく何不自由なく暮らしていたオルビアは、日本のことにあまり関心がなかったらしい。イメージとしては、ウサギ小屋のような狭い家、満員電車で通勤する働きバチの日本人という位の印象で、とりわけ旅をしてみたいとも思わなかったという。ところがあるときSNSで日本への旅行者がしきりに「日本は素晴らしい、住んでみたいくらいだ」と褒めるので気持ちが動き、少し調べてみたらいよいよ興味がつのり、ついに行く気になってしまったという。それもただの観光旅行ではなく数カ月は滞在して暮らしぶりを見たいと思ったそうだ。
そして成田国際空港に着く。その第一印象は強烈だった。それは大きな美術館を想起するような内装のよい広さであり、大勢の人が流れるように往来しているのに、床はチリ一つなく清潔でとても静かなのは驚きだった。入国審査では職員が事務的ではなく目線をあわせて笑顔で「ようこそ日本へ・・・」と迎えてくれたので気持ちがなごんだ。都心へ向かう電車にのりこむと、ここも清掃が行き届き、乗客は整然と静かに座っていて図書館のようだった。
宿はホテルではなく家具付きのアパートを借りた。その部屋は狭いけどコンパクトで驚くほどの工夫が詰まっていた。キッチンには魚焼きグリルがビルトインされており、限られたスペースにもかかわらず、収納が随所に用意されており、細かく仕切られた引き出しすべてが住む人の目線でつくられているのが伝わってくる。そしてトイレに備え付けらた温水洗浄便座には声をあげるほど驚いた。ボタン 1 つでここまで快適になるなんて・・・、さらに感動を深めたのは駅のトイレに入った時のこと、それが公衆施設であるにも拘わらず、きれいに磨かれているうえ消臭剤まで配慮されていることにびっくり・・・。この国では「誰かのために」が、しぜんに文化として存在しているのだと感心するのだ。
暮らしてみて困ったことがあった。ゴミ捨てが解らない、迷っていると管理人の夫妻が親切に教えてくれた。分別が難しく怠ると収集車がもっていってくれないのだという。朝、近くの小さな公園に出ると、老夫婦が静かにベンチに座り、春の日差しの中で桜を見上げており、朝の街では、スーツ姿の男性が落ちていたゴミを拾ってゴミ箱に入れていく。それは誰もみていないところで黙々と清掃をしている人があちこちにいることの証明だと思った。
コンビニでは店員がにこやかに迎え、食品飲料その他日々生活に必要なものはすべて整然と揃えてある。
大型のスーパーでは世界中から商品を集めた感じで日本人のグルメぶりが想像された。中でも目立ったのは弁当コーナーだった。そこには懐石料理の折詰があり、一品一品が丁寧に美しくつくられ宝石のように並べてあった。買い求めてアパートで食べたら味わいは優しくどこかで懐かしささえ感じた。日本の家庭料理には丁寧に生きるという姿勢がにじみ出ているように感じた。
またカフェで読書をしていたとき、化粧室へ行こうとしてテーブル上にあるスマートフォンと財布と読みかけの本をどうしようかと迷った。まわりを見まわすとパソコンやバッグを置いたままの空席が目立った。
ちょっと不安はあったけど、そのままにして席を立った。戻ってきたらテーブルの上はそのままだった。
この体験はオリビアにとって非常に大きな意味を持った。日本では人と人の間に無言の信頼が根付いているのだ。信頼の連鎖が秩序を生み、治安を保ち結果として住み心地のよい社会をささえているのだと肌で感じた。こうした印象は、訪日外国人にはごく共通したものであろう。静かさ、清潔さ、電車の時間の正確さ、
落し物をしても誰かが拾って届けてくれること、言葉遣いがやさしく丁寧、乗り物でも老人や妊婦などにはどうぞと席をゆずってくれる。それがどこでもごく自然にあたりまえのように行われていることに日本社会に安堵したのだ。彼女は帰国の際、思い出の写真を眺めながら印象を語っているが、常に笑顔と挨拶、迷った時のさりげない親切。誰もがマナーを守る心地よさ、気遣い、気配りをしている、そうしたことが住み心地のいい雰囲気を醸し出していると総括している。
3. 100年前(明治期)の日本はどうみられていたか。
さて、日本人のそうした美しい資質、風俗、習慣は、いつごろから生まれたものだろうか。たとえば、100年前にはどうだったか。当時、かなりの数の欧米人が来ているが、彼らはどのような印象をもったのか、そのいくつかを紹介したいと思う。
※ 米国の生物学者 E・S・モース;彼は1887(明治10年)に訪日し、二回にわたり長く滞在し手「日本その日その日」(全三冊)という大著を残しているが、その中で次のように書いている。
「鍵をかけぬ部屋の机の上に、小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使は一日に数十回出入りしても、触ってはならない物には決して手を触れぬ」と。
また、隅田川の川開きを見にいったときのことをこう書く。「行き交う舟で大混雑しているにもかかわらず、荒荒らしい言葉や叱責は一向に聞こえず、耳にするのは“ありがとう”と“ごめんなさい”の声だけだ」ともいっている。
そして、このような優雅と温厚な態度は「下流に属する労働者たちの正直、節倹、清潔その他」を表し、「わが国のキリスト教徒的道徳をすでに身につけている証だ」と感心している。
* 米国の女性教師アリス・ベーコン1888年(明治21)、華族女学校(女子学習院の前身)に英語教師として来日した米国の女性アリス・ベーコンは、日本の社会や家庭での人間関係をよく観察して、上級武士や高官、富裕な商人階級以外では意外なほど身分差がなく農家や商家や職人の家では女性でも自主独立して自由な人がいると書いている。そして同じ職場の場合でも、それほど主従関係は厳しくないといっている。
「アメリカと比べると、使用人と雇い主との関係はずっと親密で友好的です。しかも彼らの態度は従属的ではなく、責任を持たされているのは大変興味深いことだと思います。彼らの態度や振る舞いの中から、奴隷的な要素だけが除かれ、本当の意味での独立心を残しているのは驚くべきことだと思います。」また、家庭での女性について特に田舎では地位が高いと記している。「田舎の人々の間ではほとんど常に一夫一婦制がひろくおこなわれているので、妻の座は、金持ちの町人あるいは貴族よりよく、家庭内ではドイツの主婦と同じような役割を演じている」。
そして、「農民の間に最も自由で独立心の富んだ女性を見出すことができる」といい、「この階級では国中を通じて女性は、仕事はつらく楽しみは少ないけれど、頭を使う自立的な労働生活を送り、アメリカの女性と同じように家庭内で尊敬される地位を占めている」。なぜな「彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ」と述べている。
* 英国の詩人 エドウイン・アーノルド1889年(明治22)、来日した英国の詩人、エドウイン・アーノルドは、約二か月日本に滞在したが、景色にも人々の振る舞いにもいたるところで感心し褒めたたえた。たとえば、浅草の仲見世や銀座通りを歩いた時の印象はこうである。
「これ以上幸せそうな人々はどこを探しても見つからない。しゃべり笑いながら彼らはいく。人夫は担いだ荷のバランスを取りながら鼻歌を歌いながら進む、遠くでも近くでも「おはよう」「おはようございます」とか「さようなら」というきれいな挨拶が空気を満たす、夜なら「おやすみなさい」という挨拶になる。
この小さい人々が街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。」そしてチップがわりに車夫に茶の一杯、ちょっとしたものをふるまうと、ちゃんとお礼をいう。「これがテームズ川の岸で、まぜもののビールをガブ飲みしたり、ランプステーキに食らいついたりしている人種と同じ人種なのかと感嘆の念がわいてくる。茶屋に寄ると、帰り際に娘たちが菊を一束とか赤や白の椿をくれる。
礼をいうと“どういたしまして”ときれいな応えが返ってくる」上野の精養軒で開かれた歓迎晩餐会では、東京の風景や人々の応接ぶりについてこう述べている。
「景色は妖精のように優美で、美術は絶妙であり、その魅力的な態度、礼儀正しさは、謙虚であるが卑屈に堕することはなく、“天国または極楽”にもっとも近づいている国である」と。
また、ある講演会の席上では、聴衆たちにこう語りかけた。「あなた方の文明は、隔離されたアジア的生活の落ち着いた雰囲気の中で育ててきた文明であり、競い合う諸国家の衝突と騒動のただ中に住む我々に対して、命を蘇らせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質をはぐくんできたのです。」これは令和日本でも「まさにその通りだ」という人が少なくないのではなかろうか。
4. 美しい日本文化の源流はどこにあるのか?!
欧米人はそれを千年の歴史の中に見出す。平安時代があり源氏物語を生み出した伝統にその源を探す意図があるのだろうか。しかし、日本にも殺伐な強欲相争う戦国時代があり、それが終焉して徳川幕府の成立まで待たなければ真の平和を享受することは出来なかった。そして徳川も三代家光の時代にようやく政治が安定し鎖国政策ともあいまって、徳川文明が成熟し、元禄になって京都を中心に日本文化が成立し、文化文政になって江戸中心の文化が成熟する。
幕末日本にやって来た欧米人は、その江戸文明の成熟した世界を見たことになる。その代表的な人物は誰か。日米和親条約の締結により1856年に米国からやって来たタウンセント・ハリスである。最初の開港地に通訳のヒュースケンと共に住んで初めて日本人の生活に接し、それを記録している。ハリスは下田近郊の柿崎を訪れて次のように観察した。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりとしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている。」その二か月後には下田界隈を散歩して「ここの田園は大変美しい、いくつかの険しい火山堆があるが、できる限りの場所が全部段畑、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑をつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」といい、「日本人の忍耐強い勤労」に讃嘆を覚えている。翌日には須崎村を訪れ次のように書く。
「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部、五百か六百の人口しかない村でなされたのである」そして下田の土地についても「貧困で住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するのが精一杯で、装飾的なもの位目を向ける余裕はないからだ」と述べている。が、それにもかかわらず、「人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」とし、「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人もみていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉付きがよい。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」尚、ハリスは、それまで貿易商として、インド、東南アジア、中国を六年にわたりめぐり歩いており、その体験がこの叙述の背景となっているのだ。
一方、1859年に駐日初代英国総領事として赴任して来たオールコックは、富士登山の折に農村地帯をくわしくする機会があり、小田原から箱根に到る道路で「他に比類がないほど美しい」と書き、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」をみた。そして韮山の代官、江川太郎佐衛門の邸宅を通り過ぎた時、「自分自身の所有地や借家人とともに生活を営むのが好きな、イングランドの富裕な地主と同じような生活がここにあると思った」と記している。
幕末に日本を訪れた欧米人が、のびやかに過ごしていた日本人の姿をみてしきりに賛美し、そこにアルカデイア(牧歌的な楽園)を想起しているのである。そして、ハリスの通訳官として 1857 年に来日した米国人ヘンリー・ヒュースケンは、下田に着任して一年二か月を経た時点で、日記にこう心情を吐露している。
「いまや私がいとしさを覚え始めている國よ、この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質僕な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところにみちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことのできなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。」
渡辺京二氏はその著「逝きし世の面影」の中で、「江戸文明は死んだ、一回限りの有機的な個性として滅んだ」と書いている。それはいまや「逝きし世の面影」として懐かしく思い出すしかないという意味である。
しかし、それは明治期においても、大正、昭和、平成においても、そして令和の今日においても連綿として日本人の心中に遺伝子のように伝わっている。それは幾多の変容しながらではあるが、現代の外国人を驚かし感激させ敬意を抱かせ、行き詰った西洋文明への“救い”として欧米人に認識されるまでに到ったというべきであろうか。