〈文化〉 水墨画家・傅益瑶ふ・えきよう の世界2023年7月17日
中国と日本の技法を融合し新境地開く
文筆家 東晋平
中国出身の水墨画家・傅益瑶は、中国伝統の画法と日本画の技法を巧みに融合させた独自の創作活動によって、国内外で高い評価を得ています。傅益瑶の人物・作品の魅力について、彼女と親交が深い文筆家の東晋平氏につづってもらいました。
傅益瑶筆〈諏訪大社下社御柱祭木落しの図〉 紙本墨画着色 1994年 180センチ×270センチ 作家蔵
国費留学生に選ばれる
「日本に来て、最初に創価大学で日本語を学びました」
コロナ禍が終息し始めた今年の春、傅益瑶は満開の桜に包まれた八王子の“母校”を久方ぶりに訪ねた。キャンパスの充実ぶりに目を見張り、当時の恩師とも旧交を温めた。
彼女の父は傅抱石。中国近代画壇で最高峰とされる画家であり、篆刻家、美術理論家としても知られる。江蘇省国画院院長、中国美術協会副主席などを歴任。南京市に傅抱石記念館があるほか、ニューヨークのメトロポリタンなど世界各国の美術館に作品が収蔵されている。
10代の頃、華やかな女優を夢見ていた彼女に「偉大な父上の跡を継いで画家になったらどうか」と言葉をかけたのは周恩来総理だった。
抱石は息子や娘に、詩や経書、歴史を学ぶことの大切さを常に言い聞かせていた。母も名家の出身。父母の親友である郭沫若ら第一級の文化人に囲まれて、益瑶はまさしく伝統的な“文人教育”を授けられて育っていた。
父が益瑶に語っていたことが、もう一つあった。「中国文化は日本できちんと保存されている。チャンスがあれば日本で学びなさい。中国画の持つ本質的な価値は、日本を通すことでもっとよくなると思う」と。父もまた1933年に日本に留学し、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)で金原省吾、山口蓬春らに師事している。
その父は益瑶がまだ18歳の時に、61歳の若さで世を去っていた。社会情勢が落ち着き、母は娘を日本に留学させたいと政府要人に手紙を書く。芸術分野での国費留学は前例がない。しかし、当時の最高指導者から「もし経済的に裕福でないなら国費留学を許可する」と決裁が下りた。
既に32歳になっていた79年の晩秋、傅益瑶は中国教育部からの国費留学1期生として、かつて父が学んだ東京に降り立った。日本語を学ぶため受け入れてくれたのが創価大学だった。
80年の初個展は、静岡にあった富士美術館で開催された。
「創大に入った私を温かく見守り、励ましてくださったのが創立者の池田大作先生でした。初個展に当たって、先生の提案で富士山を描くことに挑んだのですが、中国の山と異なる山容に、それまでの技法では歯が立ちませんでした。この経験は私の新たな挑戦と試行錯誤の原点になりました」
水墨画の作品〈佛教東漸図〉の前で(C)宍戸清孝
ふ・えきよう 1947年、南京市生まれ。79年、国費留学第1期生として来日。ニューヨークの国連本部や北京国立美術館をはじめ、国内外で個展を開催してきた。Eテレ「趣味百科」の講師のほか、NHK番組「日曜美術館」で3度取り上げられた。長年の国際的活動がたたえられ、中国国務院から「第5回中華之光賞」、日本政府からは令和3年度「文化庁長官表彰」が授与されている。今後、シカゴ美術館などでも個展が予定されている。
仏教芸術への強い関心
父が学んだ武蔵野美術大学で塩出英雄氏に美術史と日本画を師事。さらに東京藝術大学大学院の平山郁夫研究室に入った。仏教伝来をテーマにしていた平山氏のもとで日本画を学び、敦煌莫高窟の壁画調査にも随行する。奥村土牛、加山又造、東山魁夷といった日本画壇の巨匠たちに接し、書家の青山杉雨とも親交を重ねた。
父や兄から学んだ伝統的な中国水墨画を土台に、日本の美意識や画法を採り入れる努力を続け、平山氏のもとでは仏教芸術への探求も深めた。
縁あって87年に長野・常楽寺の襖絵〈別所古刹風光〉を描くと、その画力やひたむきな姿勢に、著名な寺社から障壁画などの依頼が相次いだ。代表作として鎌倉・鶴岡八幡宮の〈鎌倉流鏑馬神事〉、京都・三千院の襖絵〈三千院の四季〉があるほか、比叡山延暦寺の国宝殿には幅12メートルの大作〈佛教東漸図〉が常設されている。
並行して彼女が関心を深め、取り組んできたのが、日本各地の「祭り」を描くことだった。阿波踊り、ねぶた祭、三社祭、竿灯祭など、これまで100点を超えるシリーズを描いてきた。これは彼女が切り開いた独自の画業ジャンルと言ってよい。自ら足を運んで丹念に取材し、かなう時は踊りの輪の中にも身を投じる。自分の五体で感じたものを一気呵成に筆に託した。
〈諏訪大社下社御柱祭木落しの図〉は、長野県の諏訪大社で寅と申の年だけ行われる御柱大祭の「木落とし」の場面。熱気と興奮の中、「よいさ」の掛け声とともに、長さ17メートル、重さ10トンもの樅の巨木が、氏子たちを乗せたまま斜面を勢いよく滑り落ちる。綱で巨木を巧みに操りながら見守り、あるいは巨木と一緒に駆け下る勇壮な男たち。奥には諏訪湖が広がり、彼方に富士山がそびえ立つ。
高度な伝統技法を踏まえた水墨画でありつつ、画面を埋め尽くす色彩豊かな人々の姿は躍動感に満ちている。傅益瑶の絵の中には、歴史の文脈を背負った確かな技術と世界観、今を生きる人間としての視点と新しい挑戦が、共存し融合しているかのようだ。
長野県立美術館で昨夏に開催された「傅抱石・傅益瑶 父娘展」で、この作品を間近で見た私は、民衆の祝祭や宗教的題材を描き続けた16世紀オランダ絵画の巨匠ピーテル・ブリューゲル(父)の作品を思い起こした。
傅抱石・益瑶の父娘
生命の躍動を見いだす
傅抱石は生前、「立派な文化人になりなさい。文化に対する執着を持ちなさい」と益瑶に語り続けていた。
「文」とは生命を躍動させるもの。そして仏教でも衆生を導くことを「化導」というように、「化」には人間の善なるものを内発的に開かせゆく意味合いがある。生命を躍動させる何かを紡ぎ出し、雨が地上の万物を育むように人と社会を潤す。真の「文化人」の使命を、父は娘に伝えようとした。
日本で暮らして40年余り。師でもあった亡き父の作品を見つめながら、今も日々、心の中で対話し続ける。彼女の鋭敏な感受性、学び続ける意欲と好奇心、創作へのエネルギーは、むしろ年々に増すかのようだ。
来日して日本語を少しずつ覚えた時期のこと。益瑶はこの国に、漢詩とはまた異なる和歌や俳句があることを知った。とくに心を引かれたのは小林一茶の人物と句だった。本年は一茶の生誕から260年。三行詩としての俳句の愛好者は世界各国に広がっている。
彼女は長年にわたり、一茶が句で詠んだ土地に足を運び、苦悩の多かった彼の生涯に思いを馳せてきた。当時の暮らしの習俗や社会規範まで綿密に学び、一句ごとに、自分の命に浮かび上がる一茶の胸の内を水墨画に描いてきた。この6月、一茶シリーズとしての50点を描き上げたばかりだ。
「一木一草にも、雨や雪、石にさえも生命の躍動を見いだす。これが日本なのであり、それは仏教、とりわけ日本に強い影響を与えてきた法華経の思想だと思っています」
傅抱石は「中国画の持つ本質的な価値は、日本を通すことでもっとよくなると思う」と娘に語った。人は他者という鏡を通して自分自身を見ることができる。今、傅益瑶という磨き抜かれた鏡を通して、私たちは見過ごしてきた日本文化の本質的な価値の一端に触れようとしているのかもしれない。
〈プロフィル〉
ひがし・しんぺい 1963年、兵庫県生まれ。文筆家・編集者。現代美術家・宮島達男の著書『芸術論』などを編集。昨年、著書『蓮の暗号 〈法華〉から眺める日本文化』(アートダイバー)を出版した。