「岡村天溪と南鶴溪」

2005年9月seesaaブログ転載


岡村天渓先生①2005年09月25日

 昭和48年1月、会社の書道部長が「岡村天渓個展」を見るよう熱心に勧めてくれた。

この個展は、フランス文化庁買い上げの作品展で、個展終了後直ちにパリへ送られるとのことであった。

私が最初に驚いたのは、書体が、すべて伝統的な漢字であったことである。

それまで、書道展とは、文字だかなにか分からないものを書きなぐったものと思っていたのだが、全然認識不足であった。

あとで分かったのは、フランス文化庁が、「中国の本格書道を継承している日本の書家」を探し求めて3年、ようやく「岡村天渓」に辿りついたということであった。

この「岡村天渓個展」見学が、私が生まれて始めて、「書道をやってみたい!」と思ったキッカケである。


岡村天渓先生②2005年09月26日

 岡村天渓先生は、当時会社書道部に毎週木曜、指導に通っておられた。

これほどの大家の直接指導を受けられる機会は滅多にあるものではない。

早速私は、入部した。

書道部長の紹介で、先生にご挨拶し、7階の会議室で1時間半練習後、1階に先生をお送りした。

廊下を歩きながら、「先生、私は創価学会に入っているのですが、先日先生は聖教グラフに載っていましたね」

「御書(ごしょ)の金文字も私が書いたんですよ」

「!」


パリ記念個展では、漢詩がさまざまな書体で状幅に書かれ、他に色彩豊かな木彫りの作品も多く展示されていた。

創価学会員は、家にご本尊をご安置し、朝晩の勤行と、日蓮大聖人御書の拝読が修行の基本だ。

当時ご本尊は、時の「日達猊下」が墨と筆で認められ、その雄渾なる筆跡のご本尊を朝晩拝するのが日常であった。

そして、御書は日蓮大聖人のすべてのご遺文が編集印刷された、約1700頁の厚い書物である。

その皮の黒表紙に刻印された堂々たる隷書の「金文字」が岡村先生の手になるものという。

尊敬は更に深まった。


岡村天渓先生③2005年09月27日

 岡村天渓先生は、1992年(平成4年)2月14日、80歳で逝去された。

岡村天渓書作集が、1993年2月14日に発行され、膨大な先生の作品のごく1部が抄録された。

先生が1人1人に書き与えた漢詩のお手本(楷書・行書等)は、当然、全く収録されていないが、これは弟子たちの「家宝」になっている。

また、先生が「所化(僧侶の卵)」たちに教えた時のお手本は、別冊になっている(本blog8月7日参照「法華経方便品」)。

また「法華経寿量品」のお手本は、私が拝見した時はまだ印刷されていなかった。

以前先生から直接伺った話だが、日達倪下の揮毫の下書きは、全部岡村先生が書かれたとのことである。

先生ご自身の作品制作手順から想像するに、まず岡村先生が朱筆の下書きを書かれ、その上に和紙を載せて、倪下がなぞられたのであろう。

岡村先生の柩は重かった。4人で霊柩車に運んだとき、東洋文化の巨大な継承者の柩は余りにも重かった。


岡村天渓先生④2005年09月28日

「笛玉吹」 右から左に「玉笛を吹く」と読む。

最初の「天渓会書道展」出品作品。展覧会が終わって、知り合いのフルート奏者に贈った。


「静家千到月」 右から「月到りて千家静かなり」と読む。

いとこ(叔父の娘)一家の「静香旅館」に飾ってある。

(今、いとこは公明党市原市議で活躍中。)

3月にピッツバーグから来日した大学の同級生夫妻を成田に迎え「静香旅館」に案内した。

夫妻が泊まった部屋に「静家千到月」があった。


仕事がコンピューター部門の中心者になってますます多忙を極め、学会活動と仕事の両立すら困難で、書道部に顔を出せない月日が続いたが、年1回の展覧会にはなんとか出品した。


岡村天渓先生の展覧会用お手本は、半紙に小さく朱筆で書かれていて、それを状幅に拡大して書く。

先生は「小さく書くほうがむずかしい。自分の字は、ビルの壁に拡大投映してもびくともしない」と言われた。


今IT講師としてマシントラブルに遭遇すると、授業が一時停止してリズムが狂う。

書道ではこういう時間浪費がない。


パソコン授業より書道教育の方が遥かに緊張度が高い。

書道は、からだの姿勢、心構え、高度な眼と手の協応度が求められる。

4000年の文化と100年に満たない技術の根本的な違いがある。


市内22小学校に通い、子ども達にパソコンを教えた年があった。

市内一番の大規模中学校に通った年もある。


今年は、学校のパソコンの仕事は予算の関係で無くなったが、代わりに中学校3校の書道講師を委嘱された。


心ある「おとな」にも書道を学ぶ悦びを知ってほしいと願う昨今である。


アーミッシュ村にて(マウスパッド)



岡村天渓先生⑤2005年09月29日


岡村天渓先生語録


1.吉川英治は女が書けてない。だから面白くない。

2.小学校1年生の時、校長先生の代筆で、運動会の文字を全部書いた。

3.学会とお山(現・日顕宗)がうまくいってないので本当に困る。

4.そんな、いじけた字を書くな。

5.釘のまがったような字を書くな。

6.一つの字を4000回書けば、私と同じ字が書けるようになる。

7.上達は一日畳の目1つ2つ。落ちるのはすぐだ、いっぺんに落ちる。

8.木の葉っぱを見ても木の名前はわからないが、板にすれば全部わかる。

9.南無妙法蓮華経をデザインしたハンカチが出回る時代が来る。

10.第1回毎日書道展に「なんとか出してくれ」と頼まれ、出したら最高賞!

  「賞」を頂くいわれは無い。以後一切協力を断っている。

11.「南鶴渓」はすごい。「妙」は女扁に少。その通りの稀有な女性だ。


●会社の書道部に、よく風呂敷包みで本4~5冊持って来られた。

神田の本屋からの帰りだ。

ある時取り出して見せて頂いたのは、江戸時代の経済や会計の本だった。

●お手本を書かれる時と、領収書にボールペンでサインされる時と、姿勢・筆使いが全く変わらない。

●奥様の話。

「ラーメンを家で食べている時も、足の親指で字を書いている。」



先程 社交ダンス仲間から頂いたダリア



南鶴渓「千年の思い」2005年09月20日


今日(2005/9/20)の公明新聞に書家「南鶴渓」先生の一文が寄せられていた。


私が「天渓会」で書道師範号を許されたのは、昭和56年。

港区広尾の天渓会師範科教室で、南鶴渓先生から一年間直接ご指導頂いた。

卒業式は、帝国ホテルで500人の関係者を招待して行われた。

先日逝去された村上料理長のご挨拶も昨日のように思える。


当然、大変厳しい師範科であった。

二玄社の中国古典の拓本をお手本に、文字のあらゆる見方・書き方を学んだ。


その修行の成果を、今、市内の3中学校で、非常勤講師として用いている。

題材はふつうの中学書写教材やコンクールテーマだが、指導の基本は、すべて師範科時代に身につけた心と技だ。


書家南鶴渓先生の載る「千年の思い」2005年09月22日


書家南鶴渓先生「千年の思い」 23日到着予定! 待ち遠しい。

この本に、南鶴渓先生が「日中友好 千年の思い」の15番目(最後)の人物として登場。

平山郁夫氏の次だ。

本著は、本年3月、原書「情有独鐘」と同時に発売された。(浙江文芸出版社)

インターネットで検索すると、すでに国内のいくつかの図書館の蔵書になっている。

[内山書店]よりのメール

ご注文ありがとうございます。『千年の思い(日文)』の到着は23日となります。

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株式会社 内山書店

〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-15

TEL:03-3294-0671 FAX:03-3294-0417

URL http://www11.ocn.ne.jp/~ubook/

E-MAIL ubook@titan.ocn.ne.jp

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千年の思い 2005年09月24日 

「千年の思い」 葉文玲著 浙江文芸出版社

「漢字の魅力-南鶴渓」 P.310~

日中友好 「千年の思い」の冒頭は、徐福。次いで

漢委奴国王、吉備真備、安倍仲麻呂、空海、鑑真和上、栄西、「尺八」、雪舟、舜水、陳元贇、孫文と宮崎滔天、秋瑾、魯迅、周恩来総理、廖承志、聶元師、平山郁夫、


そして、最後に!!!

「南鶴渓」


























































































































2020.9.27

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