【⾔語・⽂化】願いを翻訳する
【⾔語・⽂化】願いを翻訳する
日本語支援スタッフ 総合⽂化研究科 超域⽂化科学専攻表象⽂化論コース 博⼠課程
福井 有⼈(ふくい ありと)(2026年5月6日)
共有に値する知⾒も、修練の歳⽉に⾒合うだけの専⾨的な能⼒も持ち合わせていないわたくしには、想い出を頼りにお話しするしかないように思われました。そこで、このコラムでは、ひとつの想い出を導きの⽷としてみたいと思います。「わたしは、どうしようもないから、どうでもいいことを思い出すのでしょう。時間の経過を引き伸ばすために、記憶の細部に⼊り込んで、それをくわしく再現して、落下の速度を引き伸ばしているだけです」[1]。
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1980 年代に書かれた、あるフランス語の本の翻訳をおこなうなか、T先⽣──わたくしには仰ぎ⾒るしかない⽅です──が訳⽂を前に眉をひそめて、こうつぶやきました。「désir……〝欲望〟ですか。うん……うぅん……(ため息、それから、沈黙)。」その⽅は16−17世紀スペインにおけるキリスト教神秘主義の研究を専⾨としており、désir(英語ではdesire にあたる語)に「欲望」という訳語を充てることにたいして、少なからぬためらいをいだいておられたのです。
補⾜をしておくと、翻訳をしていたのはキリスト教の神秘主義を主題とする歴史書で、ジャック・ラカンやエマニュエル・レヴィナスといった20世紀フランスの思想家たちの⾔説の磁場のもとで編まれた本でもあります。かれらのテクストにおいて頻繁にあらわれる語のひとつが、désirにほかなりません。⽂献の邦訳では「欲望」と訳されることがしばしばです。精神分析のイディオムでもあり、独特の重みをもちます。T先⽣のためらいは、くだんのテクストをどう翻訳するかというよりも、désirをほとんど条件反射で「欲望」と訳してしまう慣習に向けられたものであったように思われます。たしかに、キータームであると⾒てとりやすいように決まった訳語を充てることにはメリットがあります。邦訳のテクストを透かして原語を推測することが可能になるからです。しかし、これがひとつの慣習にすぎないことが忘れられるとき、アカデミズムの⾔語はあっという間に硬直して、⾔葉遊びのようなものでしかなくなってしまうことは想像に難くありません。
もしかすると、T先⽣は語源のことを考えていたのかしら、とふと思います。désirという語のもとになっているのは、sidus という、ラテン語で「星」を意味する名詞です。そこに由来するとされる動詞desiderare は、「…がないのを惜しむ、…を切望する」という意味をもちます。こうした背景をもつdésirは、星のように、⼿が届くことはけっしてないけれど、それでも求めずにはいられないものへと⼿を伸ばそうとすること、今ここにないものを 希こいねがうことを意味するでしょう。であるならば、désir を、⽂脈に応じて「願い」と訳してもよいはずです。こうしたことは当たり前にすぎて指摘するのも憚はばかられるほどですが、だからこそ、あらためて強調しておく意義があるとも⾔えましょう。
ごめんなさい、そもそも、翻訳の検討対象となっていたテクストがどのようなものであるのか、明かしておくべきでした。ミシェル・ド・セルトー(1925-1986)というフランスの思想家の晩年の⼤著、『神秘のものがたり』(1982年)という本です。圧縮して⾔えば、この本は、⻄洋近代のとば⼝(16−17世紀)における、学知(science)としての神秘主義の成⽴と零落、そしてその残存をめぐる(いささか奇怪な)歴史記述です。ところが、最後の最後にいたって専⾨的な研究書という体裁を突きやぶり、とめどなく⾔葉が溢れ出してきて整理のしようもなくなってゆく──そのような場⾯にあらわれてくるのが、くだんの「願い」という語なのです。関連する⼀節を引きましょう。
歩みをとめることができず、おのれに⽋けているものが何なのかを確信しながら、いかなる場所にも、
いかなるものについても、これはそれではない、ここにとどまることも、それに満⾜することも できな
いことを知っている、そのような男あるいは⼥こそが神秘家である。願い(désir)が過剰なる ものを
つくりだす。この願いは、ある場所を超え出ては別の場所へと通過していって、その場所をも 失ってゆ
く。もっと遠くへ、ここではないどこかへと、ひとを赴かせる。この想いは、どんな場所を も棲み処と
はしない[2]。
接続詞なしに並べられただけのセンテンス。ぶっきらぼうな語り⼝にも⾒えます。ですが、いくつかの点に注⽬してみると、この⽂章には解釈すべき興味深い論点が含まれているように思われてきます。たとえば、最後の三つの⽂の主語は、原⽂だと« il »で、直前の主語である男性単数名詞« désir »(「 願い」)を指⽰しています。他のところでは、段落の⼆⽂⽬以降の主語をすべて代名詞に置き換えて済ましてしまうという、ほとんど悪⽂といって差し⽀えない語り⽅が採られることもしばしばで、ここでも同じような事態が⽣じていると⾔ってよいでしょう。⽇本語に置きなおすなら、「それは……」が何度も繰り返されるような形。こうした話法は、裏を返せば、筆者の語りの「速さ」を⽰しているように思われます。まるで追い⾵に乗ってどんどん先へ進んでゆくような。そしてもう⼀点、不思議なところがあります。第⼆⽂以降の主語はすべて「願い」で、ひとが主語であるわけではありません。むしろ、「願い」のほうに主導権があって、それが「もっと遠くへ、ここではないどこかへと、ひとを赴かせる」のです。最終⽂の原⽂は、« il nʼhabite nulle part »。動詞« habiter »は「〜に棲む、宿る」と訳せる語ですから、ここで「願い」は擬⼈化されているか、少なくとも、⽣きたものとしてとらえられていると⾔えましょう。ですから、論理的な⾶躍を厭いとわないで⾔うなら、この「願い」は筆者そのひとをも追い越してゆき、かれの⾝体が消滅したあとも、ひっそりと残りつづけてゆくのかもしれません。こうした事情に鑑みると、セルトーの書いたこのテクストは遺⾔的で、数年後には世を去ってしまう⾃分の未来を予期していたかのようにも思えてきます──「わたしに残された時間は⼀体どれくらいなんだろう」[3]。désirを「欲望」と訳しても意味は通るように思いますが、⾏き場のない、けれども⾔葉にされたくてたまらない想いの切実さを映し出すには、「願い」のほうがしっくりくるのではないでしょうか。
当初の話から脱線してしまいました。いっそのこと、もっと脱線してしまってもよろしいですか。 それじたいが丸ごと⼀つの願いでしかありえないような作品があります。たとえば、20世紀フランス⽂学の⾦字塔、マルセル・プルースト(1871-1922)の『失われた時を求めて』はそのような⼩説ではないでしょうか。その第1篇『スワン家のほうへ』(1913年)では、幼年期を過ごしたコンブレーという⽥舎のようすが想い出されるなかで、⼦供の「わたし」は「メゼグリーズのほう」への散歩中、⽗と付き合いのあるスワンというブルジョワの邸宅の前を通りかかります。その庭で遊んでいたスワンの娘とまなざしを交わし、「わたし」は恋⼼のかすかな芽⽣えをおぼえる──以下に引くのは、その直後にあたるシークエンスです。
メゼグリーズのほうの散歩では、ひとたび野原に出ると、あとはどこまでも野原が続く。その野原には
まるで姿の⾒えない流浪の⼈のようにたえず⾵が通っていて、それはわたしにとって、コンブレーに特
有の⼟地の精霊だった。毎年、わたしたちの到着の⽇には、コンブレーの地にいるのを実感しようとし
て、わたしはそこまで上がって畑に⾵が駆けてゆくのに再会し、わたしも⾵のあとを駆けるに⾝をまか
せた。メゼグリーズのほうはいつも⾵が道づれで、まるくふくらんだ平野には、何⾥にもわたってなん
の起伏もない。わたしは、スワン嬢がよくランに出かけて何⽇か過ごすのを知っていて、何⾥も離れた
その遠い距離も、なんら障害物がないことで相殺されるように感じられた。暑い午後など、遥かかなた
から到来したいつもの⾵が、遥か遠くの⻨の穂をなびかせて、果てしない拡がりの上を波のように伝わ
りわたしの⾜元にまでやってきては、つぶやきつつ、⽣暖かく、イガマメやクローバーのあいだに横た
わるとき、この平野はわたしたちふたりに共通で、ふたりを近づけ、⼀つにするように感じられた。こ
の⾵は少⼥のそばを通り、⾵のつぶやきはわたしには意味のわからない少 ⼥のメッセージだと思われ
て、通りすがりに⾵にキスをするのだ[4]。
ここにdésir という語は⼀度もあらわれていません。けれども、「願い」の何たるかが⾔い尽くされているような思いがいたします。「わたし」と「スワン嬢」のあいだには、「遠い距離」がある。⼦供にとってそれは、果てしない距離です。今ここにはいないだれかへの願いを⽣み出すのは、この距離です。そのとき、ふたりのあいだに⾵が吹きます。⾵が通り抜ける平野は、「わたしたちふたりに共通で、ふたりを近づけ、⼀つにするように感じられた」。⾵は本来⾒えないものですから、つかみようのない、無にひとしいものと⾔えましょう。ですが、ここでは⻨の穂の動きによって可視化され、さらに擬⼈化されています。ですから、野原に⾝を置く「わたし」にとって⾵は、とても親密な物質にほかなりません。この透明な媒体は、ふたりを想像のなかで結びつける役割を与えられているのです。踏破できそうにないほどの距離を横断してやってくる、そのような⾵こそ、「わたし」の願いの形象と⾔わなくてはならないでしょう。
ロマン主義的な夢想でしょうか。そうかもしれません。ですがプルーストは、それが⼀つの夢にすぎないことをはっきりと⾃覚していたはずです(やがて覚めることを予期された夢、とでも⾔いましょうか)。「スワン嬢」との結びつきは想像的なものであって、「わたし」の錯覚でしかありません。にもかかわらず、いや、だからこそプルーストは、⾵という微かなイメージに、⼈間どうしが結びつくことの可能性を託したのだと思います。
当初の話題に戻ることもできなさそうなので、脱線に脱線をかさねて話を閉じましょう。
フランス語に、interpréterという動詞があります。この動詞には、「解釈する」、「演奏する」、そして古義では「翻訳する」という意味があります。おもしろいと思うのは、リズムや響きといった⾳楽性こそもっとも翻訳しにくい要素であるのに、interpréterという語が、意味の次元も、⾳の次元もともに引き受けているように感じられる点です。まるで、翻訳できないものを翻訳することが、翻訳者の「使命」であるかのようです。いや、「使命」だなんて、重苦しい⾔葉を使わないほうがよいかもしれませんね。「可能性」、「夢」、「願い」でもよいでしょう。願い、星、⾵、翻訳……わたしのなかで「いろいろな記憶が交差するが、今どうしていいか分からない」[5]。「⼝に出す⾔葉 、出さない⾔葉、たくさんの⾔葉にも まれながら、⾝体をメモ⽤紙みたいにその場から引きちぎって」[6]、このコラムを書いてみました。ここには、みなさんにとって有益なものはほとんど⾒当たらないかもしれません。敬愛する先⽣(⽅)、すきな作家、馴染んできたテクストから受けとった⾔葉を並べただけの、つぎはぎの⽂章。でも、「⼈⽣のほとんどは、他⼈と過ごすそのような時間から成り⽴っているのではないのか」[7]。
註
[1]多和⽥葉⼦『聖書伝説』筑摩書房(ちくま⽂庫)、2016年、205⾴。
[2]Michel de Certeau, La Fable mystique, I, XVe-XVIe siècle, Gallimard, 1982, p. 411.
[3]多和⽥葉⼦「祖⺟の退化論」、『雪の練習⽣』新潮社(新潮⽂庫)、2013年、95⾴。
[4]Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, I, Du côté de chez Swann, édition présentée et annotée par Antoine
Compagnon, Gallimard, « folio classique », 1988, pp. 225-226.[プルースト『失われた時を求めて 1 スワン
家のほうへⅠ』吉川⼀義訳、岩波書店(岩波⽂庫)、2010年、317−318⾴。訳⽂を⼀部変更しています。]
[5]多和⽥葉⼦「雲をつかむ話」、『雲をつかむ話/ボルドーの義兄』講談社(講談社⽂芸⽂庫)、2019
年、55⾴。
[6]多和⽥葉⼦「献灯使」、『献灯使』講談社(講談社⽂庫)、2017年、99-100⾴。
[7]多和⽥葉⼦「ボルドーの義兄」、『雲をつかむ話/ボルドーの義兄』、319⾴。