【日本語学習】間違いについて:私のしてきた間違いの複数
【日本語学習】間違いについて:私のしてきた間違いの複数
日本語支援スタッフ 言語情報科学専攻 博士課程
西岡 宇行(にしおか たかゆき)(2023年3月31日)
1.はじめに
3月日本語添削をしていると、これくらいのミスは自分で見つけられないだろうかと感じられるミスに複数出会う。発見が難しいミスではない、と思う。「りんご」が「らんご」になっている、主語のあとに「は」も「が」もない、というようなレベルの、極めて簡単な誤字脱字のことを指している。
文法は例外的なものも多いので自分で発見できなくてしようがないが、読み直すなり辞書を引くなり、ともかく母語話者でなくとも努力の範囲でカバーできるものはカバーしてほしい、自らの文に注意を行き届かせてほしい。語学的な問題ではなく、書く行為をするときの、基本的な姿勢の問題だ――などと思うと勢い他の指摘コメントも切り口上になる。そうして数日後見直すとたった数十語の、日本語で書いた自分のコメント自体に衍字があったりする。
とかくすみずみまで注意を行き届かせるのは難しい。そのことを忘れ、他人の注意力不足ばかりを指摘する。非母語話者のミスの傾向など、上から分析したりもする。それは重要な仕事なのだが、非対称だなとなんとなく感じてきた。
そこでこの記事では、私の側の日本語運用上の過ちを挙げていきたい。誤字脱字等の単純ミスもしばしばするのだが、これは挙げても面白くないので、そういうことは私もよくしている、と懺悔するにとどめ、恥ずかしいことに長らく間違って読んでいた・使っていた言葉につき、どう間違ってきたか、間違いに気づいたきっかけは何か、どうしてそのような間違いが生じたか、を述べていきたい。私は自分の日本語文の正しさに、比較的こだわる方である。にも拘わらず私の語の運用、正しい語義や読み方に関する注意力は、むしろ平均以下かしれない。
2.私の間違いの複数
総花
間違い:
読み。「ソウカ」。
気付いた状況:
今年度私は教員免許を取得するため並み居る学部生にまじり、一年で20コマ以上教職関連の講義を履修した。周囲の大抵の学部生より10歳以上年長の私はテクスト読解についても、口頭での議論の進め方についても、一日の長がある(10年も長くやっていて「長」がなければ果ては暗黒である)。よって、発言を求められる講義では比較的長々と考えを述べたりしていた。その中の一つ、国語科教育法の授業で、これからのあるべき国語科科教育のありかたについて、自らの被教育経験を開陳しつつ、調子づいて、「結局〇〇みたいな議論はソウカ的で~〇みたいな議論はソウカ的で~」などとまとめた直後に先生に「たしかにソウバナ的ですよね」と言われて発覚。非常に恥ずかしかったかった。それからこの授業で長く発言することはなくなった。
どうしてそう間違ったか:
日本語の二字熟語を構成する個々の漢字の音訓読みの組み合わせは音音または訓訓が普通であり、音訓または訓音はそれぞれ重箱読み、湯桶読みなどと名前がつく。要するに相対的に少ない特殊類型であるので、そうでない形で読んでしまっていたのではないか、赤面しながらそういうことを授業の残りの時間に頑張って考えた。ちなみに重箱読みや湯桶読みが特殊類型だということについては裏をとっていない。これ自体間違いの可能性が高い。人は自らのミスを糊塗するためなら何でも考えついてしまう。諸賢におかれてはこうした人間のヴァルネラビリティーに格別の注意を払われたい。
茶
間違い:
字形について、下の「ホ」(入力上やむを得ず片仮名のホを使用している)の右上に点がつくのだと思っていた。
気付いた状況:
高校時代のこと。覚えていない。「茶」など、簡単な割にあまり書く機会があるわけではない。小学二年生で習う 常識中の常識的な漢字につき、意味不明な間違いをしているのでクラスで話題になった。
どうしてそう間違ったか:
「ホ」を含む草冠以下の部分はもともとは「余」のようである。これのもとの形に点がついているということだろうか、だとしたら私は、むしろ原初の形に忠実であるということになる。そう期待して調べたが元の形も左右称。基本的に左右対称の方が自然で覚えやすいのだからなぜそのように勘違いをしたのか、いまだにわからない。そう習った気がするので先生が間違っていたか、あるいは、まさかとは思うが、黒板の消し残しや漢字ドリルに付着した消しカス等のゴミを字形の一要素として覚え込んでしまったか。ともかく「茶」の「ホ」の右上には点をつけなきゃと、そのようにして思春期の大部分を生きてきた。私が幻視した点は、茶が芽吹く際の単子葉を示しているのだろうと想像していた(いま調べてみると、茶は基本双子葉類)。今だに、私には正しい「茶」の方が亜種かもどきのごとき、不気味なものに見える。 お前はあの「チャ」ではない、と言ってやりたくなる。
応募・募集・公募
間違い:
「募集」を「応募」に取り違える。また、「応募」を「公募」に取り違える。
気付いた状況:
私は仕事で一時期、事業の申請を募る「公募」を取り仕切る業務と人材を「募集」する採用業務に携わっていた。人事採用のための募集をHP上に掲出し、上司に報告する時、「公募出しました」と結構言ってしまっていた。確かに公募は別の業務で出しているのだが、採用のときは「募集」が正しい。まずい、直さなきゃと思い、私が次に言ってしまうようになったのは「応募出しました」。後者は「募集」を反対語である「応募」と取り違えているので、よりはなはだしい間違いである。改善を試みてより深い過ちに足を踏み入れているのが気に食わず、昼休憩にトイレの個室にこもり悶々とした日があった。
どうしてそう間違ったか:
「募集」と「公募」はどちらもヲ格をとり、意味的にも近い。一方「公募」と「応募」は読みも見かけも近いにも関わらず、熟語の構成として、前者は「公に募る」(修飾-被修飾型)、後者は「募に応ずる」(述語-目的語型、適当だが多分)と熟語を構成する二語の意味的連関が真逆で、誠に幻惑的である。「募集」を「公募」とする間違いを経て、「公募」は間違いだから違う語を使わなければならないという意識が先行し、「公募」に音の近い「応募」が出てくるようになってしまったと思われる。
ちなみにこれには後日談があり、この経験から二年ほど経た去年の秋、非常勤講師の口を見つけるためのチップスを教えてほしいと先輩に拝み倒すようなメールを送る際、ついでに過去に講師募集案件に応募した書類の見本も欲しい、という思いで、「以前公募に出した際の書類を共有いただければ」などとやはり間違ってしまった。「公募」に引きずられ、「出す」まで出てきてしまった。「応募に出す」とは言わないだろうから、結構大きな間違いである。
先輩・先生宛てのメールは一応読み直してから送ることにしているのだが全体が短かったので今回は大丈夫だろうと思い、安易に送信ボタンを押した結果である。不思議なことにメール文面の自己校閲・校正能力は、送信ボタンを押した瞬間に急激に高まることが知られている。ボタンを押してから送信終了までの1秒に満たない時間に発見した間違いは数しれず。気づいた直後、一人しか居ない部屋で「やっちゃった」と言って頭をこつんと叩き、反省の儀式を簡易に終わらせようとしたが、このようなさまで言葉を珍重する国語や国文学の非常勤講師の口など得られるのだろうか、と考え始めると、ひたひたと打ち寄せるように、悲嘆がやってきたのだった。
3. おわりに
上に挙げた諸点は、日々出会う言葉の使われ方、他者の声にもう少し注意深く耳を澄ませていれば、ないし、もう少し注意深く言葉を使おうとしていれば、もっと早く気づくことができたことばかりである。語を正しく運用すること、自らの文章の校正・校閲を十全に行うことは難しい。添削者としての私は、これを試みるすべての者の味方である。