【調査記】アルジェリアから見た景色:歴史が変わる瞬間
【調査記】アルジェリアから見た景色:歴史が変わる瞬間
日本語支援スタッフ 地域文化研究専攻 博士課程
若杉 美奈子(わかすぎ みなこ)(2023年3月12日)
研究計画書に書いたことは実現する
筆者は2019年4月から2週間、海外調査のためにアルジェリアを訪問した。冷戦期にアラブ・マグレブ連合の中でミドル・パワーとしての地位を確立していたアルジェリアの中立国としての役割、特に北東アジアにおける役割を調査するのが目的であった。アルジェリア調査の着想を得たのは2017年春だった。しかし、すぐに計画書に書くことはできなかった。その理由は、第一に2013年にアルジェリア人質事件が発生してから4年が経過していたものの、依然として危険レベルが高い地域であったこと。第二に、筆者の研究対象地域である東アジアと直接関係のなさそうな地域での史料調査を計画に含めることへの躊躇いがあったためである。筆者は中東〜アラブ・アフリカ地域に対する理解を深めるために、アラビア語とアラビア習字を学び、準備期間を設け、2018年の研究計画書には、同地域への史料調査計画を加えた。研究計画書を書いた当の本人でさえ想像していなかったが、計画書に書いたことが実現することとなる。この調査記が、今後、同地域での調査を計画している人にとって役立てば幸いである。
そうは言っても「観光ビザさえ出ない国」への渡航は不安だらけだった。これが最後になるかもしれないと思い、渡航の数ヶ月前から知人に会い、別れを告げた。大学の事務に海外渡航届を提出しに行くと、「ガイドを付けるように」と釘を刺された。今思えば、全くもって大袈裟である。
当時、アルジェリアへの渡航は、個人の観光ビザも発給されない状況であったが、「研究ビザ」での申請は可能だった。ビザの申請は驚くほどスムーズに済んだ。アルジェリア大使館に行き、アルジェリア国立公文書館とアルジェリア外務省外交文書館で調査したいと伝えると、大使館の文化担当官がアルジェリア側と連絡を取ってくれた。大抵の国では自力で調査先とコンタクトを取らなければならないことを考えると、これほど楽なことはなかった。あとは連絡を待つだけでよかった。
しかし、それから実際に渡航するまでは、様々な困難が伴った。ビザの申請は無事に終わったものの、先方からの返事を待つのに時間がかかり、本当に渡航できるのか不安が募るばかりだった。渡航予定日の二日前に突然ビザが降り、予定通り渡航することになったものの、経由地のローマからアルジェリア行きの搭乗口に向かう人は数えるほどしかおらず、改めて危険な地に向かうことを実感した。さらに、先方からの正式なレターを持っていなかった筆者は、入国審査で足止めを食らう。駒場図書館で発行してもらったフランス語の紹介状を見せ、何とか入国を果たせたのだが、渡航から入国まで、不安で気が休まることがなかった。
宿探しに苦戦
入国後にまず直面した問題は、宿探しだった。「ガイドを付けるように」とは言われたものの、研究ビザで渡航する場合、宿泊ホテルが指定されているガイド付きツアーとは異なり、宿は自力で探さなければならない。しかし、情報が少なすぎて、トラブル続出。結局、いくつかの宿を転々とすることになった。
1軒目の住人である男性は空港まで迎えにきてくれたが、文書館からあまりにも遠いので、その日のうちにキャンセルし、宿のオーナーの女性知人宅(猫付き)に泊まらせてもらうことになった。その女性は中国で働いた経験のあるIT企業のキャリアウーマンだった。しかし、フランスで遊びたいという理由から、支払いはユーロでしか受け取らないというので、1週間ほどで過ぎてユーロが尽きた時点で、再び宿を変わらなければならなくなった。3件目の宿は、女子医学生が6人+猫2匹で暮らすシェアハウスだった。
「フェミニスト」を考えさせられる
シェアハウスに着くと、女子医学生は筆者に向かって、開口一番こう言った。
「あなたはフェミニストですか?」
部屋には、住民が貼ったと見みられるフェミニスト関連会議のポスターが貼られていた。筆者は自分がフェミニストかどうかなど、普段の生活の中で考えたこともなかった。自由人を自負する筆者にとって、「女はこうあるべき」という価値観は合わない程度の認識はあるものの、それ以上、自分がフェミニストかどうかなど考えたことはなかった。それは、日本では、そこまで考えなくても、女性の権利はある程度保障されているからかもしれない。教育を受ける権利にしても「女は教育を受けるな」と言う人は都市部ではほとんどいないだろう(地方ではそうとも限らない)。社会進出が他国と比べると低いことがメディアで度々取り上げられるとはいえ、社会で活躍する女性も多い。それはアルジェリアでもある程度、同じことが言えるのかもしれないが、日本では空気ほどに感じている「女性の権利」を、ここでは一つ一つ勝ち取るために戦わなければならないことを彼女たちの言葉は感じさせた。
では、普段から全く問題意識を持たずに生きている筆者に彼女たちが考えるフェミニスト像は当てはまるのだろうか。「自由人」であり「ステレオタイプの女性像」に反感を覚える筆者は、「私はフェミニストです」と答え、手を差し出した。これは、自身をフェミニストとは無関係だと思っていた筆者にとってあまりにも意外な行動だった。
ヨーロッパへの憧れが強い彼女たちは、医大を卒業したらフランスで医師免許を取る試験を受け、EUで働きたいと言っていた。今頃、立派な医師として活躍していることだろう。
「オマモリ」を知っているアルジェリア人
宿や街で知り合った人々から感じたことは、日本が意外と知られているということだった。公文書館での手続きのために必要な書類を印刷できる印刷屋を探すために通りすがりの青年に印刷屋までの道案内を頼んだ時も、青年は日本のアニメが好きで、よく見ていると語っていた。そして、青年は筆者のカバンを指差しながら、「そっ、それって、オマモリって言うんだよね?」と興奮気味に聞いてきた。こんな遥か遠い国の人にお守りが知られていることに筆者は感激し、思わずお守りをあげたくなったが、身の安全をお守りに託していた筆者がそうできなかったことは今でも悔やまれる(しかし安全を託していた割には、帰国時にスーツケースが行方不明になり大破して戻ってきた)。
歴史が変わる瞬間
2019年当時のアルジェリアは、歴史の転換期に差し掛かっていたと言っても過言ではなかった。アルジェリア外務省の文書局のKamel Boughaba局長は、日本から来た筆者が物珍しいのか、友人だという同僚の元アルジェリアの国連大使を執務室に呼び、談笑の時間を設けてくれた。
その年の春、首都アルジェではブーテフリカ大統領の5期目の立候補に抗議するデモが連日行われていた。20年にわたる腐敗政治に対し、大規模な民主化デモが行われていた。2019年4月2日にはブーテフリカ大統領が辞任して以降、デモの規模は拡大していた。
「今、アルジェリアの歴史が変わろうとしている。街の大通りでは毎日デモをやっている。歴史が変わる瞬間を見てきたらいい。
そしていつかこう言うんだ。『その時、私はそこにいた』と」。
文書担当責任者は、ルーマニアのアルジェリア大使館勤務時の1989年12月、チャウシェスク政権を打倒するルーマニア革命を目撃した歴史の生き証人だった。そんな歴史の生き証人の提案に度肝を抜かれてしまったが、歴史を研究する者にとって、これ以上の誘惑の言葉はないだろう。しかし、そんな場所に行って本当に大丈夫なのだろうか、と聞くと「場所が分からないなら、ガイドを頼めばいい」と言うではないか。宿に戻り、医学生たちに相談すると、大通りまでの交通手段を教えてくれた。
筆者は意を決し、トラムとバスを乗り継ぎ、大通りに行った。
そこでは、各種団体をはじめ老若男女問わずデモに参加していた。デモは至って「平和的」に行われており、商魂たくましい商人が歩道で国旗や国旗のバッジや帽子などの「愛国グッズ」を売っていた。腐敗政治を糾弾するプラカードや国旗を手にしながら行進する人の波が遥か先まで続いていた。
なかでも、筆者の目を引いたのは、「支配の根を断て」と書かれたプラカードである。アルジェリアとフランスとの間には歴史問題が残っている。その一方で、アルジェリアにとって第二の貿易相手国であるフランスは重要な外貨獲得源でもある。若者はヨーロッパを目指し、ユーロを求め、フランスで働くことを夢見ている。こうした現実に直面しながらも「脱植民地化」を訴えるアルジェリアの人々の姿は、旧植民地のジレンマに他ならなかった。
その後、2019年12月の大統領選挙ではテブン元首相が当選し、20年ぶりに政権が交代した。新政権は反体制デモの要求に前向きに応える姿勢を見せ、政治改革を断行した。民主化デモは確かにアルジェリアを動かしたのである。
大通りを抜けると街は閑散としていた。人っ子一人いない裏通りはデモが日常と完全に切り離された場であることを物語っていた。筆者は駅に続く海岸通りを歩いた。
海の向こうにはヨーロッパ大陸が広がっている。このデモは向こう側の人の目にはどのように見えているのだろうか。「渡航できない危ない国」の危険なデモ程度にしか映っていないのではないか。でも、アルジェの人々は民衆の力で国を変えようとしていた。ここから見える景色は、海の向こうから見える景色とは正反対なのである。歴史を反対側から見る楽しみはここにある。