【調査・研究】日本語への翻訳について
【調査・研究】日本語への翻訳について
日本語支援スタッフ 地域文化研究専攻 修士課程
宇川 晴(うがわせい)(2025年3月)
はじめに
一通り日本語を勉強した学生にとって次に問題となるのは日本語への翻訳だろう。論文や研究発表で日本語以外の文献を引用する場合には、引用個所を和訳しなければいけない。しかし翻訳というのは一筋(ひとすじ)縄(なわ)ではいかない作業である。翻訳の仕方次第では文章の意味が変わってしまう。 筆者自身、研究の過程でこのことを実感してきた。筆者はある時、海外の人類学者の手に成る研究書の、日本語訳を読んでいた(原文は英語)。この人類学者は難解な文章で知られているが、それにしても難しい。意味が取れない個所が無数にある。翻訳を読んでいてもらちが明かず原文を確認すると、あることに気づく。原文自体は読みやすいのである。なぜこの文章があのわかりにくい訳文になってしまったのだろうか。
こうした経験は決して珍しいものではないだろう。英語と日本語のような類似点よりも相違点のほうが多い言語間で翻訳が行われる場合はなおさらである。このコラムでは、英語から日本語への翻訳を前提として、翻訳の際の注意点について考えてみたい(基本的には日本語への翻訳に慣れていない留学生の読者を想定しているが、日本人の学生にとっても有益な内容かもしれない)。翻訳元の言語を英語とするのは筆者の都合によるが、下で挙げる注意点はほかの言語から翻訳する場合にも参考になるだろう。
冠詞
まずは冠詞の問題である。周知のとおり、英語には不定冠詞a、定冠詞theがある一方で、日本語には冠詞の概念がないと言われる。このことが問題になるのは、aなのかtheなのか、それとも冠詞がないのかで意味合いが変わってくることがあるからである。次の文章を例として考えてみよう。
S1: people who believe in a religion
S2: people who believe in the religion
どちらも「宗教を信じている人々」と訳しうるが、二つの文のニュアンスは大きく異なる。S1は何らかの宗教(a religion)を信じている人々という意味であり、S2は特定の宗教(the religion)を信じている人々ということになる。しかし上の訳ではどちらの意味でとればいいのか、読者は判断できない。これをどう訳し分けるかはもちろん文脈によるが、例えばS2を「その宗教を信じている人々」と訳せば原文のニュアンスが伝わる。とはいえ英文に出てくるすべてのtheを「その」と訳すと、「その」があまりにも多くなってしまい日本語として不自然になる。したがって「その」をつけなければ読者が判断に困ってしまうような場合にのみ、このように訳すべきだろう。
また、冠詞の有無も文章の意味を考える上では重要である。例えば次の例文を考えてみよう。
S3: Men need religion.
S4: Men need a religion.
両方とも「人間は宗教を必要とする」と訳すことができる。しかしこの場合も二つの文の意味合いは大きく異なる。不定冠詞aについていえば、「一つ」と数えるためには数える単位として明確な輪郭を持った「モノ」が存在していなければならない。ラテン語のreligiō(religionの語源)とそれに由来する単語の意味の変遷を研究したW. K. スミスによれば、不定冠詞が前提としているのは諸々の信条・儀礼の体系としての宗教であるという。信者が信じるべき諸信条、従うべき諸儀礼というのは多かれ少なかれはっきりしており、この意味での宗教は明確な輪郭を持っている。それ故に不定冠詞をつけることが可能になるというのである。スミスはここに、輪郭のはっきりした「モノ」ではないが故に不定冠詞のつかない、神と人間の間の関係性(例えば敬虔さ)という意味での宗教からの意味の変化を見出している[1]。彼の議論がどれほど正しいのかは判断しかねるが、冠詞の有無によって意味が変わってくるという指摘自体は正しいと思われる。しかしS3とS4に関しては、訳し分けることが難しい。そのため、「人間は宗教を必要とする」と訳したうえで原語を付け加えるべきだろう(例えば「人間は宗教(a religion)を必要とする」)。
単数・複数
今度は単数形と複数形の問題を考えてみよう。周知のとおり、英語では表記の上で両者を明確に区別するが、日本語では特に区別する必要がない。この言語間の違いの重要性を示すために、internet of thingsという表現を取り上げよう。「モノのインターネット」と訳されるこの言葉は、自動車や家電製品などのモノがインターネットに組み込まれることを指す。ここで仮にinternet of thingという表現もあるとしよう。この表現の意味はもちろん文脈次第だが、一つの考えられる意味としては「モノとしてのインターネット」がある(つまりインターネットに様々な側面があることを前提としたうえで、“of thing”により限定する場合である)。議論の進行のために、ここではこの意味で用いられているものとする。言うまでもなく、internet of thingを「モノのインターネット」と訳すことは可能である。しかしそう訳してしまうと、internet of thingsとinternet of thingの間の意味上の違いが訳文から読み取れなくなってしまう。こうした場合には、後者を「モノとしてのインターネット」と訳出したほうが読者にとってより親切だろう。つまり、of=の、という図式にとらわれることなく読者に意味が伝わるように柔軟に翻訳する必要があるということである。
専門用語
最後に取り上げるのは専門用語の翻訳である。それぞれの分野には独自の専門用語が存在するが、これらを翻訳する際に注意すべきことは何だろうか。まず大前提として、訳者が目の前の言葉が特殊な意味合いを持った専門用語であることを認識している必要がある。しかし専門用語として認識できたとしても翻訳の問題が残っている。適切に翻訳しなければ、翻訳を読む読者はそれを専門用語として認識できないからである。英語から日本語への翻訳という今回のケースに引き付けて言えば、当該の用語が一般にどういった日本語の表現に訳されるのかを知らなければならない。一般的な訳語を調べるための一つの方法は辞典を参照することである。日本語の多くの辞典には、巻末に日本語と外国語双方の索引が付されている。外国語索引を利用して当該の用語が説明されているページを見れば、その用語が日本語でどう表現されるのかを知ることができる。基本的に辞典は、利用者が引きやすいように広く流布している訳語を訳語として採用しているはずである。この推定の下では、辞典が採用している訳語を一般的な訳語とみなすことが可能である。
出展:猪口孝/大澤真幸/岡沢憲芙/山本吉宣/スティーブン・リード編. (2004). 『政治学事典』.弘文堂, 1121, 1280. 左が外国語索引。赤の太線の上に“interest group”とある。この用語についての説明がある1121ページを開くと、「利益団体」という日本語がこれに対応することがわかる。
終わりに
ここまで見てきたように翻訳は細やかな注意を要する作業である。日本語と英語のような別系統の言語の間で翻訳を行う場合はなおさらである。当然ながら、本稿で挙げた例のようにすっきりと訳すことができないこともあるだろう。その場合には、原語を表記しておくのが読者にとって親切である。以上、少しでも参考になれば幸いである。
註
[1] スミス, W. C. (2021). 『宗教の意味と終極』 (保呂篤彦・山田庄太郎訳). 国書刊行会.