【調査・研究】 研究者の輪を広げる:コミュニティ探し/作りについて
【調査・研究】 研究者の輪を広げる:コミュニティ探し/作りについて
日本語支援スタッフ 言語情報科学専攻博士課程
岡本佳奈(おかもと かな)(2024年3月31日)
今回このコラムを執筆するにあたり、運営スタッフから「岡本さんはいろいろな交流の場を持っていると思うので、大学院生の交流の輪の広げ方について書いてみるのはどうか」というご提案をいただいた。この言葉を聞いて、少々意外な思いがした。私自身は、決して人との交流が得意な方ではないと感じており、また、さほど多くの交流機会を持っている自覚もなかったからだ。
だがそういえば、現在私は3つの学会に所属し、5つの定期的な読書会に参加し、2つの研究会に参加しそのうち1つでは運営委員を務めている。また、自分の博士論文執筆のための博論構想会を運営しており、さらにオンキャンパスジョブの一環であるピアサポートグループにも参加し、2週間に1度研究の進捗をメンバーと報告し合っている。このように列挙すると、交流が不得手であると自覚する大学院生にしては、少なくない交流の場を持っているように感じる。以下では、なぜ私がこのように複数のコミュニティに参加するに至ったのかという経緯と、コミュニティ作りや運営について心がけていることを簡単に記したい。
私は現在、言語情報科学専攻博士課程に所属しており、イギリス文学を専門としている。私が交流の輪を広げがちな人間であるとすれば、あるいはそのように外から見えるのだとすれば、その理由はおそらく自分の専門と関連している。またこの理由は、言語情報科学専攻および他の専攻に所属する「駒場」の院生に広く関わる内容であるとも思う。私の専門は、より具体的に言えば、ヴィクトリア朝文学であり、ウィリアム・メイクピース・サッカリー(William Makepeace Thackeray)という作家の長編小説を中心に研究している。ここで、イギリス文学に関心のある方ならピンとくるものがあると思う。Thackerayという作家は、現在の文学研究においてさほど注目を集めている作家とは言えず、端的に言えばマイナー作家なのだ。どれほどマイナーかを具体的に表現するならば、現在日本でこの作家について専門的に研究している大学院生がおそらく私1人だと言えば、そのプレゼンスの薄さが理解しやすいかもしれない。Thackerayに関する論文を定期的に発表しておられる研究者は日本にも数名いらっしゃるが、院生で、なおかつ博士論文のテーマとしてその作品を読んでいるのはおそらく私のみだと言い切って良いかと思う。
研究対象がマイナーであるということは、すなわち研究コミュニティも小規模であるということだ。英語圏に目を向けた際、Thackeray作品を取り上げた論文は年に1-2本ほど観測することができ、2017年には(おそらくほぼ初の)複数の研究者が論文を寄稿した研究書も刊行された。だが、作家研究という分野において致命的なことに、Thackerayという作家には、専門の学会や研究会が存在しないのである。文学研究に馴染みがない方にとってはむしろこの情報が新鮮かもしれないが、20世紀頃までの著名な作家には、通常、その作家の名前を冠した学会が存在する(ディケンズ・フェロウシップや、ヴァージニア・ウルフ協会など)。そこに参加しておくと、年に1-2度の定例会で研究発表の機会があったり、学会誌に論文を投稿することができたりする。何よりも、同じ関心を持つ研究者と知見を交換し、自分の研究へのクリティカルなコメントを得ることができるのが学会の強みだ。だがThackerayは、ヴィクトリア朝時代にはディケンズやシャーロット・ブロンテ、ジョージ・エリオットなどと肩を並べる作家であったにもかかわらず、現在においては、日本はおろかイギリスにおいても学会がないのである。
大学院生という、右も左も初めは分からぬ未熟な存在にとって、学会というコミュニティは大きな意味を持つ。学会や学会誌の存在によって、今主流の方法論や定説を知ったり、自分より少し先輩の研究者の成果物を目にしたりすることで次に自分が目指すべき目標を確認することができる。だが私にはそれがない。所属すべき第一のコミュニティが欠けていること。それが、私が駒場や本郷の垣根を越えて研究会や読書会に参加したり、異なる分野の方から自分の研究へのフィードバックをもらうようになったりし始めた第一の理由である。
と、ここまで自分の「所属先の無さ」を強調してつらつらと筆を進めてきたが、私と同じく駒場の、文系四専攻のいずれかに所属する院生にとって、上記のような経験談はさほど目を引くものではないかもしれない。これは完全に個人的な見方ではあるが、作家や、何かしらのフィクション作品を研究する人間の中でも、その対象がマイナーである、あるいは何らかの領域横断性を持っている(複数の異なる国や時代の作家を取り上げている、など)ことが、「駒場」という環境を選ぶ理由になることは珍しくなく、また、そのような研究への懐の広さが「駒場」という場所の特性でもあるように感じるからだ。
ゆえに、私の周囲でも、指導教員と自分の研究テーマが大きく異なっていたり、所属ゼミの中で全く異なる種類の研究を行っている院生がいたりする、という状況は決して珍しくない。正直に言えば、そのような環境下で自分の研究テーマへの取り組み方を見定めていくのは、特に修士課程の間、私を悩ませ続けた難問であり、苦痛の期間であった。大学院生の生活は得てして孤独なものだと言われるが、自分と同じ課題に取り組んでいる人間が他にほとんどいないという感覚は、その孤独を殊更に増長させるものだったと思う。
私にとって、状況が好転し始めたのは、参加する研究会や読書会の数が増え始めた博士2年目頃からだった。また特にピアサポートグループへの参加は自分にとって大きな転機となった。私は2021年10月から現在まで約2年半の間、計6名のメンバーを擁するピアサポートグループに参加している。これは、オンキャンパスジョブに採択されているアカデミック・サポーター事業の一つであり、総合文化研究科文系の院生が、互いの研究について意見を交わす自助グループの取り組みである。2年半の間大きな問題なく会が運営されているというのはグループがうまく機能している証左だと感じるが、興味深いことに、この6名はほぼ全員の専門が異なっており、イギリス文学を専門としているのは私1人である。それほど専門が乖離した中でどのように会がうまく進むのか、疑問が浮かぶかもしれない。これはおそらく偶然の賜物としか言いようがないのだが、例えば文学と語学の違いはあるが関心のある国や時代が同じであるといった重なりや、メンバー同士の波長が絶妙に合ったことが要因であると思う。ここで強調しておきたいのは、研究を進めるために何らかのコミュニティに所属することは決して不可欠ではないし、研究者全員にとっての最適解であるわけでは全くないということだ。ただ私のように、自分の成果物に対して人から率直な意見をもらうことで安心感や小さな達成感を得ることができる人間にとって、このピアサポートグループの存在は極めて大きなものとなっており、いつも支えてくださる運営スタッフの方々には強い感謝の気持ちを持っている。
最後に、このように研究・学習の輪を広げていく中で私が重要だと感じていることを2点述べたい。まず一つ目は、交流の輪やコミュニティというものには、必ず相性というものが存在するということだ。例えば、私の場合も、これまで立ち上げたもののいつの間にか消滅した勉強会や読書会は無数にある。それは翻って言えば、自分にとって居心地が悪かったり、苦痛を感じる空間に居続けたりする必要はないということだ。
二つ目に強調したいのは、もしこの文章を読んでいる方が何かしらのコミュニティ運営者となる際には、ぜひグラウンド・ルールの設定と、その確認の機会を会の冒頭に設けてほしいということだ。研究会、読書会、勉強会といった集まりは、大学の授業やゼミ以上に自由な空間であり、上述のような偶然性に溢れている。そこが偶然性を孕んだ空間であるということはつまり、もしかすると、そこで、思いもしなかったメンバー内の衝突が起こりうるかもしれないということであり、また、あなたが想定していなかったバックグラウンドの保持者が参加する可能性があることを意味する。誰かの思わぬ発言が他ならぬそこにいる誰かを傷つけてしまわないか、注意を払うのは会の運営者の最も大きな責任である。研究の輪というものの成功を何かによって測るとしたら、研究上の大きな発見があったか否かという点以上に、そこで何らかの苦痛・ハラスメントが発生しなかったか否かという点が重視されて然るべきだろうと思う。この短文が、これからコミュニティの運営に携わる人にとって何らかの示唆をもたらすものであれば幸いである。