【社会・文化】映画の個人的な記憶:ジャン=マルク・フォラックスの版画作品について
【社会・文化】映画の個人的な記憶:ジャン=マルク・フォラックスの版画作品について
日本語支援スタッフ 超域文化科学専攻 博士課程
茂木 彩(もてぎ あや)(2023年3月)
はじめまして。表象文化論博士課程で映画の研究をしております茂木彩と申します。私は2020年9月からフランスのパリ・シテ大学(旧パリ大学、通称「パリ7」)に留学しており、留学先の博士課程で震災後映画(2011年3月11の東日本大震災に関連する映画)の研究をしています。本コラムでは、パリ滞在中に出会った、とある日本映画についての展示について書きたいと思います。
2022年12月、私は、パリ7の友人から版画作品の個展に招待されるという機会を得ました。ジャン=マルク・フォラックスJean-Marc Foraxというフランス人アーティストの個展でした。フォラックスはこれまで記憶というテーマについて取り組んでおり、今回の作品は、日本映画をめぐる彼の個人的な記憶を版画で表現したものだそうです[1]。個展には、次のタイトルがつけられていました。
Impressions de cinéma japonais
直訳すると「日本映画の刻印」。刻印Impressionsという名詞が複数形で表されていることから、複数のレベルの刻印が作品を成り立たせていると推測されます。友人アナスタジア・ロスタンが書いた個展の紹介文を読むと、ここでの刻印とは、フォラックスの制作方法を指していることが分かります。まず、映画がアーティストの記憶に残した視覚的な刻印、次にリノリウムの版材への刻印、そして最後にインクによる紙の上での刻印です[2]。
映画作品の記憶を版画で表現するという試みそのものがとても新鮮で興味深いのですが、この個展でもっとも私の印象に残ったのは、その展示方法でした。パリ中心部にある小さなギャラリーに入ると、およそA3サイズの作品が30点ほど設置されていることに気が付きます。小林正樹『怪談』(1965年)、伊丹十三『タンポポ』(1985年)、黒澤明『乱』(1985年)、中田秀夫『リング』(1998年)、青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(2005年)など、戦後から現代にいたるまで、さまざまな日本映画の一コマが版画となって、真っ白な壁に飾られていました。版画作品と並行して、日本映画のビデオテープのカバー写真を再現した水彩画の展示もあり、さらにギャラリーの奥には、版画制作のもとになった映画の抜粋映像をつなぎ合わせたクリップの上映スペースもありました。
ここでわたしが驚いたのは、一見したところ、それぞれの版画作品およびオリジナルの映画作品の情報(タイトル、監督名、制作年、製作会社など)が与えられていないという点です。一般的な美術館の展示には、作品すぐ横の空きスペースに作品に関するプレートが設置されているのですが、フォラックスの展示にはそれがなかったのです。プレートの代わりに、作品情報一覧のファイルが手渡され、質問があればその場にいるフォラックス本人に尋ねるよう指示されます。
このような展示形式は、より自由な鑑賞体験を来館者にもたらすでしょう。具体的には二つの鑑賞方式が可能かと思います。一つ目は、映画一覧と版画を見比べながら、後者がどの映画に対応しているのかを確認しながら鑑賞するという方法。二つ目は――ややシネフィル的な方法ですが――何の情報もなく、鑑賞者の個人的な映画の記憶を手がかりに、版画で再現されている作品をまず推測し、その後一覧をチェックして答え合わせするという方法です。
私自身は後者のシネフィル的方法を実践してみましたが、鑑賞するなかで非常に興味深い展示方法だと思いました。というのも、フォラックスにとって思い出の一コマを見ている一方で、私自身にとっての映画の思い出も同時に喚起されたからです。私は、版画を見ながら、「あの作品のあのシーンかな?」、「私だったらフォラックスが選んだシーンじゃなくてあのシーンを選ぶのに」と勝手に考えたりしました。他者の視覚的な記憶で満たされた空間のなかで、自分自身の視覚的な記憶に触れる。それは映画を通じて、他者の記憶と自分の記憶が重なり合うような、不思議な体験でした。
フォラックスの作品は、版画とは何か、映画とは何か、イメージを想起するとはどういうことかなど、映像をめぐる思考を鑑賞者に呼びかけます。それはおそらく、彼の版画という手法が、オリジナルの映画的イメージから離れた身体的かつ個人的な表現だからかもしれません。
カメラは、人間の目ではとらえきれない現実の細部を、機械的な正確さで可視化します[3]。一方フォラックスの版画は、あくまで彼の目で知覚されたイメージを、彼の手をつかって版材に刻み込むことで作られます。そうして出来上がった版画は、機械的な正確さで切り取られたオリジナルのイメージとは必然的に別のものになります。ロスタンが指摘するように、版画とは、ある線に対して別の線を強調し、ソースとなるイメージのうち一部の形象のみを再現することにほかならない。しかもフォラックスの作品の場合、映画作品の読解と解釈をもとにしている。その点で、映画という媒体の版画への翻案でもあるのです[4]。
また、一般的にカメラは被写体を瞬時に撮影することが可能ですが、版画を彫るのには大変な時間と労力を要します。デジタル技術の発達により、現代では、視覚的な記録を残すことは非常に簡単な作業となりました。携帯電話のカメラを使って写真を撮ったり、パソコンのスクリーンショット機能を使ったりすれば、ものの数秒でデジタルの映像を手元に残し、オンラインで他人にも共有することができます。しかしあえてフォラックスはそうしようとはしない。それはおそらく、彼にとって丹念に時間をかけて版画を彫ることが、意義のあるプロセスだったからなのでしょう。
フォラックスはコロナ禍のロックダウン中に版画作品を制作したと教えてくれました。また、彼は幼いころから日本文化に親しみ、とくに思春期に日本映画に熱中したとも言っていました。この話を聞くなかで、私個人の別の記憶――しかし映像にかかわる記憶――がよみがえりました。前述の通り、私は2020年に留学を開始したのですが、コロナの影響で、新学期が始まって二カ月ほどしてロックダウンに入ってしまいました。大学院の授業は完全オンラインで、自宅から2キロ圏内しか移動してはいけませんでした。映画館も休館になってしまい、映画学の学生としてこれほどつらいことはありませんでした。このような隔離生活はあまりに孤独で、家族や友人とテレビ通話をするのが日常になっていました。気づいたら自分のパソコンの小さな画面で映画をストリーミングして観ることが当たり前になってもいました。
ロックダウン期間中、おそらく多くのひとが程度の差はあれ似たような生活を送っていたと思います。フォラックスもそうだと思います。しかし彼は映画に対して別の向き合い方をした。彼は青春時代の映画の記憶を何度も何度も板に刻み込んだ。それは彼にとって特別な映像と出会ったときの感動を呼び起こしてアウトプットするような作業であったはずです。そうしたプロセスを経て印刷されたイメージには、身体化された記憶のレイヤーが重ねられる。その記憶には、個別のイメージに対するフォラックスの感情が刻印されていると言ってもよいでしょう。
映画というものを構成する要素はいくつもあります。しかしコロナ禍でもっとも重要な要素として浮かび上がったのは、映画館という空間のなかで観客が感情を共有するという経験そのものでした。映画館で見知らぬ他人と映画を観るということは、その一回一回が彼らとその場限りの共犯関係を結ぶような特別な出来事です。私は、その経験が自分の生活においては欠かせないということを、コロナ禍で映画館に行けなくなって実感していました。その当時のことを、フォラックスは私に思い出させたのでした。
2022年の暮れ。フォラックスの作品は、およそ2年遅れで映画的な感情の共有という経験を、映画とは別の回路で私にもたらしてくれました。個人的な映画の記憶が他者において別の記憶を呼びおこす。私はパリの小さなギャラリーで、フランス人と日本人の別個の記憶どうしがこうして反応しあう、どこか親密な体験をしたのでした。
[1] 一部作品の写真は、ギャラリーのウェブサイトから閲覧することができます。どれも素敵な作品なので、ぜひ見てみてください。併せてジャン=マルクのウェブサイトもご覧ください。(最終アクセス日2023年3月31日)
[2] ロスタンによる個展の紹介テキストを参照。テキストはギャラリーのウェブサイトに掲載されています。(最終アクセス日2023年3月31日)
[3] 映画研究者のマルティーヌ・ブニェはこの点について、映画には私たちの通常の認識からこぼれ落ちてしまうあらゆるディテールへと注意を向けさせる力能があると指摘しています。Martine Beugnet, “Introduction,” Martine Beugnet, Allan Cameron, and Arild Fetveit (eds), Indefinite Visions: Cinema and the Attractions of Uncertainty, Edinburgh, Edinburgh University Press, 2017, p. 1.
[4] ロスタンのテキストを参照。(最終アクセス日2023年3月31日)