【イベント】英語ではなく、日本語で専門分野について話すこと
【イベント】英語ではなく、日本語で専門分野について話すこと
日本語支援スタッフ 言語情報科学博士課程 森谷祥子(2022年12月3日)
日本語支援イベントスタッフの森谷祥子です。今回は、前回のイベントを受けて、私の方から「日本語」を通して自身の専門について話すことについて少し考えを共有したいと思います。
アカデミック・サポート事業は総合文化研究科の文系4専攻のスタッフが中心となって運営しているため、イベント参加者の多くが文系の大学院生ですが、前回のイベント(2023年1月開催)には、理系の大学院生の方が参加してくださいました。当日は幾つかのグループに分かれることになったのですが、私はその方と同じグループになり、「自分の研究」について話すことになりました。時々、英語での説明をはさみながら、彼は自分の研究について話してくれました。イベントスタッフが皆文系の大学院生であったため、彼の専門的理解に及ばず申し訳ないなと思いながらも、個人的には普段聞くことができない研究分野について知ることができ、とても楽しい時間を過ごすことができました。おそらくその方は、普段研究室で英語を使われていると思われますが、普段使われない言語を用いてご自身の研究をどうにか説明されようとする姿にふと次のような疑問が湧いてきました。
――国際社会で理系を中心にますます英語使用が求められている中で
あえて日本語で専門分野について語ることってどういうことなんだろうか。――
そこで、今回はその疑問について私なりに深めてみたいと思います。
まず私の頭をよぎるのは、カナダ留学時の自分のことです。英語圏の大学院に留学していたので、私は普段の授業を英語で受け、大学院の仲間や先生たちとは基本的に英語で会話をしていました。上記の留学生の方とは異なり、生活言語もすべて英語であり、研究で使用する言語以外に、留学先の生活言語(現地語)を改めて学ぶ必要はありませんでした(英語圏の地域であっても、当然多言語環境で生活する人々も多くいるので、実際に英語以外の言語を学ぶ必要がないというのは語弊があるのですが、少なくとも当時の私はそのように感じていました)。
英語が共通言語と使用されることによる利点は数多くあります。もし多様な言語で論文などが書かれてしまうと、その分野内での知識共有は進まないでしょう。よって、科学の発達を効率的に進めるためには、分野内で共通言語を設定することは必要だろうし、その言語として英語が選ばれることも自然な流れなのだろうと思います。日本の大学に所属する留学生たちが、専門の研究を英語のみで行なうという傾向は、今後も広がっていくでしょう。英語で研究活動に従事する留学生の中には、日本での留学期間を終えたあとも、日本に滞在し続ける人もいるでしょうが、将来的には日本を出て、異なる言語圏で同様の研究を続ける人もいます。とすれば、日本に滞在しながら英語で研究をする留学生たちが、自身の専門分野について、現地語である日本語で話すことは、必ずしも必要なことではないと言えます。
ならば、英語圏以外の国から日本に来ている留学生たちにとって、現地語である日本語で、自身の研究について話すことの意味は何なのでしょうか。さらに言えば、留学生が英語以外の現地語を学ぶこと自体の意味はどのように捉えられるのでしょうか。元々日本語や日本文化に関心がある方もいらっしゃるでしょう。しかし、日本に来る留学生が必ずしもそうであるとは限りません。最低限のサバイバル日本語を話すことができれば、それ以上の日本語能力を必要としないという方もいらっしゃるでしょう。
実際、移住先の現地をほとんど学ばないで生活する方はごまんといます。私も、もし今後外国に移住したら、どこまでその現地語を学ぶことができるのか、全く自信がありません。なぜなら、シンプルに第2言語学習はとっても大変だからです。じじつ、私の専門である応用言語学の研究でも、英語圏に住む移民たちが必ずしも英語学習を献身的にするわけではなく、その背景には学習者個人のアイデンティティや経済状況、将来の計画など、様々な要素が関係していることが示されてきています。
日本語支援に携わっている私が言うのは違和感があるかもしれませんが、「〇〇(=国名)に留学(移住)したのだから、△△語(=現地語)を学ぶのは当たり前だ」ということ自体、近年は批判的な議論が必要だと一部で指摘されています。私自身も、「日本にいる留学生(もしくは外国人)はみんな日本語を学ぶべきだ」という考えには批判的な目を向けています。
では、先日のイベントに参加してくれた留学生の「日本語で自身の研究について話す」という行為は、批判の目を向けるべき対象なのでしょうか。当然、その可能性を否定はできないと思います。イベントに参加する留学生の皆さんの中には、「日本に来たんだから、日本語を学ばないといけない」というプレッシャーから、日本語学習をしている方もいらっしゃるでしょう。その場合、その方個人の選択の自由が侵されていると言えるかもしれません。
しかしながら、私は「あえて、英語以外の現地語で研究について話す」ことのポジティブな側面を感じているのです。それはなぜか。「日本語で専門について話す」ことが意味するのは、将来的にその語りの聞き手、つまりオーディエンスが広がることだと思うからです。
ここで注目したいのは、私たちが皆、結局のところ、様々な言語を話しているということそれ自体です。そのことは、一見、コミュニケーションを阻害する不都合な現象であるようにも思われます。しかし、言語が多様であることにはそれなりの理由があるとも考えられます。社会言語学には、伝統的に、「言語」と「方言」の区別は恣意的なものであり、本来は、同じ言語形態が「言語」にも「方言」にもなり得るという考えがあります。そして、私が昔読んだ文献の中に、動物が体臭で仲間かどうかを嗅ぎ分けているのと同じように、人間は自分たちの仲間を見分ける道具として、アクセント(つまり話し方)を利用するのだと書かれていたと記憶しています。つまり、人間が「言語」であれ、「方言」であれ、多様な言語形態を使うのには、「仲間探し」という機能が関係していると考えられるのです。記憶が曖昧なので、もしかすると私の理解が間違っていたら申し訳ないのですが、このことを実感するような出来事は個人的にもたくさんあります。
私は元々関西出身で、現在は関東に住んでいます。関東にいながら、時々、まちなかで関西アクセントの日本語を聞くことがあります。そんな時は、思わず耳をそばだてている自分がいます。そのアクセントの持ち主がきっと同郷者であろうと想像し、勝手な親近感を持ちます。さらには、なんとなく「話しかけなくては!!」とソワソワして、急に不審人物のようになる時もあるように思います。(実際に話しかけるまでの行動はしませんが、無意識のうちにその人との距離感を縮めるくらいのことはしているかもしれません…。迷惑をかけてしまった方がいたらすいません。)
また、20年程前、友人と二人でドイツをバックパックで旅行したことがあります。その時、ベルリンで私達が泊まったユースホステルは、少し郊外にあり、それまでに泊まっていたユースホステルの中では比較的簡素なものでした。宿泊客も少なく、多少閑散とした雰囲気の中で、突然ロビーの方から、「関西弁」が聞こえてきたのです。私達(友人は四国出身)は、声の方に吸い寄せられるように近づいていきました。そして、その「関西弁」が、「関西アクセントのドイツ語」であるとがわかりました。ロビーでのやり取りを終えたその女性に、私と友人は、嬉々として話しかけました。予想通り、彼女は関西出身の日本人でした。彼女は「コテコテの関西弁」で、彼女の旅の話などを話してくれました。その女性とはその後連絡をとってはいませんが、今でも強烈な印象と共に蘇ってくる記憶となっています。これも、「アクセント」や「話し方」が仲間の判別に重要な役割を持つことを実感する経験です。
特定の言語/方言で話すということは、それを聞く特定の集団に親近感を与え、話し手への関心を引き起こさせることに繋がるのでしょう。先月のイベントで私が感じたポジティブさは、言語のこのような社会的機能によるものなのかもしれません。アカデミックな世界において、英語は共通語としての地位を確立し、結果的に、英語を使うことで、国境を超えた多様な集団に対して、研究内容を発信することができるでしょう。その意味では、英語はアカデミックな分野における包摂的言語であると言えると思います。
しかし一方で、英語だけでは、日本語の世界で生きる私の高齢の母をはじめとした親戚や友人達には、その研究の内容や面白さは伝わりません。そこには単に英語が理解できるかできないかのハードルの前に、聞き手として想定されていない、自分には関係のない人たちの言葉で話されているという疎外感が伴います。つまり、英語だけに頼るアカデミックな世界は、外の人たちに対してとても排他的であると感じるのです。
このように少なくとも言語的側面の閉鎖性を、私は普段から感じているのかもしれません。だからこそ、前回のイベントでは、自分にとって親しい人々が聞き手として想定される可能性がある、そのことが単純に嬉しかったのだと思います。新しい言語を学ぶことは、多くの人にとって、決して簡単なことではありません。大変な努力が必要です。そんな努力をしてまでも、「(ローカルに住む)私たち」に話しかけようとしてくれていることが、とてもありがたいと思ったのだと思います。
前回のイベント参加者の方が、どのような理由で自身の研究内容を日本語で話す練習をしたいと思ったのかは、実際のところわかりません。もしかしたら、研究室の中で日本語を話すことが強要されており、仕方なく練習しているという可能性も皆無ではありません。特定の言語の使用が強要され、個人の選択の自由が脅かされる可能性については、前述したとおり、常に注意しておかなくてはいけないと思います。
ただ、そうは言っても、私は嬉しかったんです。その背景には、ここまで書いてきたように、言語の社会的機能と言えるようなものが関係していたのだと思うのです。
今回のコラムの内容を考える過程で、日本に来ている留学生たちが皆、日本語で専門の内容を発信すること、ひいては、日本語を学習すること自体が、「当たり前のこと」ではないということを、改めて意識することができました。留学生の皆さんが日本語を学び、私たちの企画するイベントなどを利用して、日本語を練習することは、おそらく、留学生の皆さん自身にとって、何か役立つことや恩恵が期待されているだろうと思います。ただそれだけではなく、留学生の皆さんの日本語学習によって、想定される聞き手が増えることは、日本語世界に生きる「私たち」にとっても良いことがあるのです。このように考えると、日本語を学ぼうとしている留学生(もちろん、留学生以外の多くの日本語学習者の方)に感謝したいなと思います。
逆に、私自身も、留学生の皆さんの言語を少しでも学ぶことでお返しがしたいなと思ったりします。が、個人が学べる言語知識の量には限界があることも事実です(言い訳っぽいですね…)。できることは限られてしまいますが、少なくとも、留学生の皆さんの努力への敬意をもって、日本語支援に携わっていきたいなと、イベントを通して、改めて感じさせられました。
今年度の「日本語で話そう!」のイベント開催は、残りあと1回で終了となります(来年度以降に関してはまだ未定です)。ですので、今まで以上により多くの方に、参加していただけたら嬉しいです。微力ではありますが、みなさまの日本語学習の役に少しでも立ててもらえたら、とても光栄です。