【調査・研究】批評的分析とその立脚点:『東京時影 1964/202x』について
【調査・研究】批評的分析とその立脚点:『東京時影 1964/202x』について
日本語支援スタッフ 超域文化科学専攻 博士課程
田口 仁(たぐち ひとし)(2023年3月)
こんにちは。表象文化論博士課程の田口です。OCJ日本語支援事業はコロナ禍渦中の2020年に始動していますが、私も本事業に携わる中で多くの時間を留学生の方々や同僚と共有させていただき、スタッフの側ですが、何かと孤立しがちなこの特殊な期間に大きな励ましをいただいてきました。そして日本でも2023年3月13日からマスク着用条件が緩和されることとなり、ついにポストコロナの状況が見え始めてきています。そこで今回のコラムでは、このコロナ禍を機会とした自身の研究上の取り組みの紹介とOCJ日本語支援事業を通じて考えさせられた研究上のアプローチについての雑感を述べさせていただきたいと思います。
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2022年12月から六本木の森美術館では、日本の現代アートシーンを総覧する定点観測的な展覧会を謳う「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」が開催されました。この展覧会は3年ごとの開催になるのですが、今回はコロナ禍での生活の変容に注目し、そこで可視化された「多様さ」をテーマとしているそうで、副題の「往来オーライ!」には多様な人と文化の共生、コロナ禍中に途絶えた人の往来の復活への想いを込められているといいます。正直なところ展覧会そのものは紋切型的な漠然とした多様性概念のこすり倒しとどまっていたと思いますが、いずれにせよコロナ禍とそれ以前の時代を「昨日の世界」とするように、歴史の時間が動き出そうとしているのだという印象がひしひしと感じられます。
2020年からのコロナ禍は、オリンピックを始めとして様々なものが一時停止を余儀なくされる「宙吊りの時」を生じさせましたが、我々もまたこのような渦中にあってそこで生じた変容や可視化されたものについて考え、記述する機会を持っていました。
そのひとつの成果が今年2023年3月末に刊行された、表象文化論教授の桑田光平先生、工学系研究科博士後期課程の吉野良祐さんと私の共同編集の論集『東京時影 1964/202x』です。この論集は1964年と2021年に開催された二つの東京オリンピックの時代の都市東京とその文化についての比較分析を行い、現在の視点から過去を遠近法的に、そして過去の視点から現在を逆遠近法的に見返すことで様々な洞察を得ることを試みた一種の比較文化論集です。同書では音楽、マンガ、映画、写真、建築、文学、演劇といった多様なジャンルを扱い、各論考の中でもしばしばジャンルを跨いだ議論が展開されており、それに加えて「歩くこと」や「動物」といった個別テーマの論考、モノグラフ的論考、更にパスティーシュによる方法的フィクションの試みさえも含まれています。
この書籍は刊行までに大変な紆余曲折がありました。そもそも書籍の企画は2019年Sセメスター開講の桑田ゼミでの成果を形にするために開始されたものでしたが、その後やむを得ない事情での停滞を経る間に企画は大幅な再考を余儀なくされてしまいました。その理由は様々あるのですが、特に大きかったのはやはり2020年からの新型コロナウィルスの世界的感染拡大です。新型コロナウィルの感染拡大は春先の時点ですでに都市生活とその文化に多大な影響を与えており、もはや目下のコロナ禍での変容を無視した1964年と現代の比較文化批評が時宜を逸したものであることは明らかな状況となっていました。そこで2020年秋頃から編者三人が定期的に議論を重ね、以下のような方針で企画を再始動することにしたのです。
目下収束の兆しが見えず、自身がその渦中にあるこの事態を包括的に分析するのであれば、それだけで手に負える仕事ではなく、勇み足や軽薄さに堕する危険は大きい。しかし、批評的分析が多かれ少なかれ現在を立脚点にせざるえないとすれば、いずれ生々しい実感と記憶を失うであろう、この変転の時代の渦中にしかとりえない視点、書きえない歴史があり、それらを残すことには意義があるのではないかと考えたことが本書の出発である。
それゆえ本書が目指すのは、文化や芸術が公的な歴史とは異なるまなざしを記録してきたように――無論大きな偏りは否めないが、「一定の時間を経て振り返ってみたときに、間違いであるかもしれない可能性はあるにせよ、東京で生きているわたしたちの視点から、つまり、都市の矛盾、痛み、悲しみが顕在化し、生活様式や価値観の再考が求められている現在のわたしたちの視点から、1964年と2020年の東京の姿を考え直してみることで、東京という都市が、そして、そこでの生活が、どこからどこへ向かっているのかを、おぼろげながらでも明らかにすること」(桑田光平、本書企画書より)、この非常時においてのみ描き出しうる、都市東京を舞台とした複数の歴史と現在を記録することである。(桑田光平、田口仁、吉野良祐編『東京時影 1964/202x』、18-19頁)
執筆予定者に再び連絡を取り、やはり定期的にそれぞれの論考について議論を重ねながら2021年中には全員が脱稿しましたが、結局それからも(主にコロナ絡みの)紆余曲折が続き大分原稿を寝かせる形となったので、最終的には各論考に後記を付し、序論の前に扉頁を加える形で完成しています。とは言え、結果としてポストコロナを迎えようとするタイミングでの刊行となり、ある特別な期間、コロナ禍での「宙吊りの時」の記録として重層的な構造が作れたことはかえってよかったのかもしれません。
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冒頭で述べたこととはまた別にしても、OCJ日本語支援事業は支援する側のスタッフにとっても恩恵が多い仕事です。というのも、支援を受ける留学生はそれぞれに専門的な知識と洞察を豊富に蓄えており、その成果を校正する際はもちろんのこと、日本語会話練習サポートにおいてでさえそこには知的に興味深い内容があるからです。私は批評史や芸術理論に関心をもっているので、中でも作品解釈型のアプローチをとる論文については考えさせられることが多くありました。そこでふと思ったのは、留学生の方々は母国の対象については留学中だからこそとりうる相対化の視点を選び、日本の対象に対しては母国での問題意識にひきつけた視点をとる傾向がしばしば見られるのではないかということでした。つまり留学生の方々もまた、留学中という人生の中の特殊な時期を立脚点にして、自身の経験や認識の再構成に果敢に挑んでいるのではないかと思われたのです。これはいささか自身を他者に投影し、著者の実存を勝手に想定しがちになる私の悪癖の故かもしれませんが、しかし、どのような状況であれ批評的なアプローチをとる際には、今現在と自身とを立脚点にした対象に対する遠近法が生じることは否めず、そして、それは単に私的な問題に閉塞しているということではなく、確固たる自覚に基づくならば、むしろ対象をひらき不可視の可能性を現出する有効な手段ともなるようにも思われて、密かな共感をもって読ませていただいていました。
『東京時影 1964/202x』には個人の実感から出発した無鉄砲で、無防備とさえ言える論考が収められています。お読みいただくと気楽すぎるように感じられるものもあれば、深刻過ぎると感じられるものもあるかもしれませんが、私たちが共に、そして世界が一斉に経験したこの奇妙な緊急事態の「時」の「影」の様々をそこに見つけ共有していただければ幸いですし、あるいは、日本出身者である執筆者たちとは異なる立脚点から見た、この数年の都市東京とその生活についていつかお話をうかがえる機会があれば嬉しく思います。